7・アクセラレーション
▼八月十八日 十五時十三分/00班本部
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《災厄珠》。
迷宮の最下層に封印された最後の敵を召喚する。
召喚された怪物は、周辺のプレイヤーを無作為に襲い続ける。効果時間15分。
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《災厄珠》の名を告げられた瞬間、寧々子はすぐに危機を把握した。
迷宮を探索するうち、一度だけ見たことがあったからだ。
『七人のPKと戦ってた時、追い詰められた一人が突然使用したの。自棄になったのか、効果を過小評価していたのか、自分だけは逃げ切れると思ったのかは分からない。
でたらめに使用される魔法珠の中に《災厄珠》は混じってた。そして、迷宮最下層に鎮座する最後の怪物、《封印されし者》が召喚された』
通路に仕掛けられた罠を解除しながら、口早に蓮華が事情を説明する。
彼女の話では、《封印されし者》の戦力は圧倒的で、PK達を瞬く間になぎ倒していったらしい。
『混乱してたのと、私が傷を与えてたのもあったと思うけど、彼らは全滅した。今の私達じゃ勝ち目はほとんどない。
レベルも全然足りてないと思うし、PKとの戦いで私の分の消耗品は使い切ってしまったから』
見てみると、《レンカ》のHPは瀕死にまで減少していた。慌てて回復アイテムを使うが、生憎全快までは至らない。
《チョコ》との戦いで負った《ネコ》の傷を癒すのに、ほとんどを使い果たしていたからだ。
彼女の言う通り、今の状態で襲われれば全滅は免れないだろう。
だが、唯一の逃げ場である階段は、罠が敷き詰められていた。
フロア全体に響くほどの重い足音が、徐々に近づいているのを感じる。
間違いない。《封印されし者》は着実に寧々子たちのもとに向かってきていた。
罠の強行突破は、不可能だろう。
《ネコ》のHPでは耐えられないし、《レンカ》に至っては手負いだ。《チョコ》などもはや微動だにしない。
――だったら。
前門の罠。後門の悪魔。追い詰められた寧々子に取れる手段は一つしかない。
「葛城さんっ!」
閃いたのは偶然だった。余り褒められた手段ではないが、背に腹は代えられない。
「《チョコ》を操作してください! 罠は一度発動すれば、スイッチは消滅します。わたしと《チョコ》でダメージを受けながら強行突破するしか方法はありません!」
言葉にしている間も、足音と振動は徐々に強くなっていく。もはや蓮華の罠解除を待つ時間はない。
だが――
「葛城、さん?」
画面の向こうの《チョコ》から返事はない。完全な無反応だった。
「葛城さん、どうしたんですか」
迫りくる脅威と、頼るべき相手の無反応に恐怖が吹き上がる。
いったい彼の身に何が起きたというのだろうか。
『あの刑事なら、とっくにいない。電話が来て、慌ててどっかに飛んでいっちまったよ』
かわりに返ってきたのは、《チョコ》のプレイヤーと思しき声だった。いつの間にか今までの甲高いものと違い、若い男の声に変っている。
「どこか、って」
『オレが知るかよ』
「だ、だったら《チョコ》さん、お願いします。一緒に罠を突破してください!」
『オレが? お前と? 一緒に協力して危機を乗り越える……?』
返ってきたのは、鼻で笑うような乾いた声。
『馬鹿にしてんのか。情けをかけられ、見下され、同情と屈辱でオレをグチャグチャにしちまったお前に、協力するだって? ふざけんな』
吐き捨てるように言い放った直後――
意外な言葉が、寧々子に突きつけられる。
『こんなもん、オレ一人で十分だ』
何を言っているのか理解できなかった。ただ、硬直する寧々子たちに背に向け《チョコ》は一歩足を踏み出した。
自らが仕掛けたに違いない罠のスイッチに向かって。
『一つだけ宣言してやる』
かちりと軽い音が地鳴りに混じって聞こえた直後、紫色の毒液が《チョコ》の肌を溶かした。
『オレはゲームを降りない。食料がなくなろうと、あのクソ刑事に追われようと、止めるもんか。お前を殺す。絶対に、殺す』
不思議な事に、殺すと宣言した彼の声音に殺意はなかった。
『殺して、オレの凄さを見せつけてやるんだ。そうしないと、いけないんだ。お前が、ムカつくくらい凄すぎる奴だから』
さらに一歩、また一歩と踏み込む。
進むたびに毒矢が、槍が、ガスが、地雷が《チョコ》を襲い、見る見るうちにHPを奪い取っていく。
例え戦士のタフさと言えど、耐えられるとは思えなかった。
『言ってる事がワケわかんねぇのはオレだって自覚してる。
けど、お前のせいでグチャグチャになったオレの頭を整理するには、お前をどうにかするしかないんだよ。だから、殺す。もう、決めた。決めたんだ』
悪意も殺意もない。なのに彼は殺すと連呼している。
寧々子には彼の真意は分からない。おそらく、本人にも分からないのだろう。
念仏のように殺すと繰り返しながら、《チョコ》が爆煙の向こうへと進んでいく。
背後からの地鳴りがすぐ近くに迫る。
背後を確認すると、すでに《封印されし者》は背後まで追ってきていた。
赤黒い鱗で覆われた三メートル近い巨体。
巨大な二本角に、爛々と輝く金色の双眸。
巨躯が狭い通路を削り取りながら、徐々に、徐々に寧々子たちに近づいてくる。
丸太のように太い腕を真っ直ぐ伸ばし、血まみれの手で《ネコ》を握りつぶそうとしているようだった。
『ネコ! 行くわよ、急いで!』
既に画面の中の《レンカ》は《チョコ》を追って走り始めていた。
地雷が巻き起こした爆発煙のせいで、前方がどうなっているのかはもう分からない。
ただ、《チョコ》を信じて走るほかない。
通路は通過できないと思ったのだろう。
《封印されし者》が深く息を吸い込み、そして吐いた。
口から放たれた炎が通路に充満し、寧々子たちを凄まじい速度で追いかけてくる。
走る。走る。ただ走る《ネクロマンサー》に追われた、あの日のように。
ただ違いが一つあった。
隣には、親友がいる。
未だに蓮華が何を考えているのかは分からない。
だが、寧々子はどこまでも友を信じるつもりだった。
『階段を下りれば、敵は追って来れない。だから、早く、早く!』
永遠にも感じられる数秒。
フルマラソンより遥かに長い二十メートル。
煙を抜ける。
暗闇の階段を駆け下りる。
そしてようやく――
寧々子たちの背後から禍々しい気配は消え去り、静寂の迷宮へと再び踏み入れた。
第四階層。
血液のように岩壁をマグマが伝う、紅のフロア。
最終階層の手前。死と裏切りの物語の終盤戦が今まさに始まろうとしていた。
「あれ、《チョコ》さんは……?」
不思議な事に、一緒に走り抜けたはずの《チョコ》の姿はなかった。
「もしかして、途中で力尽きて……嘘。嘘、でしょ」
せっかく助かった命だというのに。もし自分が一緒になって罠を受けていれば、と後悔が胸を締め付ける。
『血の跡が続いてる。恐らく、彼は生きてるわ。何があったのか詳しくは分からない。けど、止めを刺すなら――』
「駄目、追わないで。確かに《チョコ》さんはわたし達を裏切った。けど、もういいの。もう、いいの」
《チョコ》はもう敵対してこない。不思議な確信が寧々子にはあった。
蓮華は何も言わない。
付き合いの長い二人の間に、言葉はほとんど必要なかった。
「とにかく、落ち着ける場所を探そ。消耗品もあまり残ってないし、残ってるプレイヤーの数とか、色々調べないといけないこともあるし」
危機は去ったが、やるべきことは山積みだ。
《チョコ》は姿を消し、アイテムは残り少なく、未知のフロアに二人きりだ。
そして、気になることはもう一つ。
電話を受けて唐突に姿を消した恭一の行方だった。
――葛城さんがいてくれれば。
いつの間にか精神の支柱になりつつある刑事を思うと同時、通信機に着信が入った。
相手はもちろん恭一だ。
『無事のようだな。少し確認したい。小鳥遊はゲーム内にいるのか?』
電話に出るや否や、口早に恭一が問いかける。疑問を許さない力強さだった。
「もちろん隣にいますけど。どうしたんですか?」
『いや、気にしなくていい。《チョコ》はどうなった?』
「えっと、わたし達を助けてくれてから、そのままはぐれちゃいました」
『そうか、警戒だけは怠るな。あと、そこの《レンカ》には今まで以上に気をつけろ』
すぐさま通話は途切れ、脱力感が寧々子を襲う。
彼のもとで一体何が起きているのか、寧々子は知る由もなかった。
▼八月十八日 十六時 /品川区 『カラオケハウスYY』403
「小鳥遊は……いや、《レンカ》はゲーム内にいるそうです」
「なるほど、ね。だったら目の前のこいつはどう思う?」
小鳥遊蓮華を発見した。
至急、指定の場所に急行せよ。
この命令はすべてに優先する。
涼原からの連絡を受け、都内にあるカラオケボックスに到着したのが五分前。
現場は物々しい雰囲気に包まれていた。
それもそのはず。
何故なら。
発見された今回の事件の最有力容疑者、悪魔に最も近い女。
契約者、小鳥遊蓮華は――
遺体で発見されていたのだから。
胸に巨大な風穴が空いた、無残な姿。
鮮血の大輪がソファを、床を、機械を、べっとりと染めていてる。
きっかけはカラオケ屋からの通報だった。
通報時間は、恭一と黒羽が対峙している最中。
お蔭で恭一は錯乱する黒羽を放って現場に急行する羽目になった。寧々子の事だから上手くやってくれるだろうが、心配はぬぐえない。
だがそんな不安を蹴散らすかのように、現場には契約者の死体が転がっていた。
「どういう事だろうね。遺体は間違いなく小鳥遊蓮華。だが、《レンカ》はいまだゲーム内で香取寧々子を手助けしている。私には何が何だか分からない」
「……俺にも分かりませんよ」
五流のミステリなら双子の妹だったりするのだろうが、生憎ここは現実だ。
小鳥遊蓮華に身寄りはなく、双子だったという事実もない。
ただ、寧々子には黙っているべきだと判断した。ゲーム内の《レンカ》の正体は不明であるが、すぐさま事を起こす可能性は低い。
むしろ、蓮華の遺体が発見された事実を《レンカ》に気付かれる方が危険だろう。
「小鳥遊は死んでるのに、ゲームはまだ続いている。一体、何が起きてるってんだよ」
全ての捜査も推理も覆され、目の前が真っ暗になるような錯覚が恭一を襲う。
窓から見える景色。狭い空では、暗雲が立ち込め、強い雨がガラスを叩き始めていた。
今まで一緒にいた蓮華は誰なんだろう。
次回、第五章。