2・悪魔は敗北者を嘲笑う
▼七月十八日 午後六時 東京都千代田区/マユカワビル 4F
およそ一時間後。恭一が連れられてきたのは何の変哲もないオフィスビルだった。
指定された四階にある『阿久津商事』のドアに涼原がカードを通し、続いて恭一も入室する。
「新しい手帳だ。すでに仮出所の手回しは済んでいる。けど、登庁は禁止。ここが捜査本部で、君の仕事場だ」
部屋に入ると同時、涼原が振り向きざまに黒い物体を手渡してきた。中を確認すると、恭一の顔写真の入った警察手帳だ。
ただし、名前が『葛城恭一』ではなく『桂木恵一』になっている。準備が良いと感心するより先に、いつの間に写真を入手していたのだろうかという疑問を感じてしまう。
「所属は公安部になるんですよね。俺は、講習も何も受けてませんが」
「特例だ。今の事件が解決すれば、改めて警察学校で特別研修を受けてもらうよ。君の経歴上、刑事部には戻れないからね。あと、警官としての身分は保証するが、君の顔は知れ渡ってるからあまり表だって行動しないように」
「了解です」
部屋を眺めると、十人ほどが詰められそうな広さに数台のパソコン。
壁面にはスチールの棚にぎっしりと何かのファイルが敷き詰められている。おそらくここは、警察でありながら諜報機関でもある公安がいくつも持つといわれる秘密拠点の一つに違いない。
「久しぶりの現場で疲れただろう。とにかく座るといい」
涼原が柔らかに微笑む。彼の笑顔には、不思議な力があった。見る者に拒否を許さないカリスマ性と言い換えてもいい。仕方なしに対面のソファに腰掛ける。
「話をするまえに一つ聞きたいんです。どうして俺なんですか? 百歩譲ってあの殺人を悪魔がやったってのが事実だとする。表には出せない事件のため、公安が秘密裡に捜査を担当する。そこまでは理解できる。だが、俺が捜査を担当する必要はないはずでしょう」
ずっと気になっていた事だった。
涼原は昼間の事件を悪魔が起こしたと断言している。
つまり、犯行を特定するノウハウがあるのは間違いない。
「過去にも悪魔関連の事件が起きていたなら、専任の捜査官やチームがあるはずだ。少なくとも獄中の元刑事に依頼するような案件じゃない」
「刑事部で活躍していた君のファンだったからだ。その答えじゃ不満かい?」
「不満ですね。納得できるワケがない」
強く、睨み付ける。不信感を持ったまま捜査ができるはずがなかった。
恭一の強い決意を感じたのだろう。涼原が俯き、何かを考えるようにこめかみに指をあてる。何故か、彼の表情には悔恨の念が浮かんでいた。
「君の言う部署は確かに存在したよ。公総課『特務00班』だ」
「ゼロって、あのゼロですか? 諜報員養成の」
恭一の頭に浮かんだのは、公安が抱える諜報員養成・運用機関のコードネームだった。
表向きには存在しない、スパイ養成部署ゼロ。だが、涼原は首を振る。
「そっちは警察庁だし、ゼロなんてコードはとっくに破棄されてる。そして、ゼロではない。ゼロ・ゼロ。我々がD案件と呼ぶ、悪魔の引き起こした事件を追うのが専門の特捜班だ」
存在しない事件を追う、存在しない班。それが、特務00班との事だった。
「個性的な八人でね。歴代の00班の中でも特に優秀だった。だが……」
涼原の口ぶりから、嫌な予感がよぎる。彼はいま、捜査チームの事を過去形で話していなかったか。
過去形、つまり――
「彼らは全滅した。みんな、死んだ。今回の事件の捜査中、私が定期報告を受け取る寸前にね。死因は爆死。原因不明の爆発で捜査員ごと本部は吹き飛び、今回の案件の全てのデータは失われた。死体はひどい有様だったよ」
苦渋の表情で、涼原が恭一の背後の棚を指さす。
「爆発から復旧できた過去のD案件に関する資料はここに全て揃っている。いまはここが00班だ。もう、誰もいないがね。D案件は公安内部でも極秘なため、代わりの人員はいない」
言われて、全てを理解する。
もはや、悪魔が起こした事件――D案件に対する疑いは欠片も残っていなかった。
「それで俺が選ばれたってワケだ。表向きには存在しない事件を追う専任官は、表向きには存在しない不良刑事が適任。殉職しようが裏で処理できるから。要は捨て駒でしょう? 俺以外のマトモな補充要員が集まるまでの」
「人聞きの悪い事を。実力を考査しての結果だよ。君のファンだったというのは嘘じゃないんだ。さあ、話を事件に戻そう」
疑いの目を向ける恭一を無視し、涼原が鞄からビニールに包まれた携帯電話を取り出す。
「彼らの遺体のそばには、こいつが落ちていた。奇跡的に中身は生きている」
取り出された携帯電話は、外装が半ば溶け落ちていた。
画面を見て恭一の眉が上がる。映像には見覚えがあった。
「気付いただろう? 桐崎彰の携帯電話と同じだ。この画面から一切の操作を受け付けない。データを解析してみたが、メモリーがすべて屑データに書き換えられて、なんの情報も取れなかった」
ディスプレイの中では、悪魔が踊っているだけの映像が延々と流れている。書かれている文字はもちろん、『GAME OVER』だ。
「そいつが、今回の手がかりですか」
「今のところ、唯一の物証だ。けど、他にもある。00班の遺言だよ。偶然にも、彼らが亡くなる少し前に口頭で報告を受けていたんだ」
涼原の言葉に、身を乗り出して聞き入る。いつの間にか、事件に興味を惹かれていた。
恭一の心境の変化に気付いてか気付かずか、静かに涼原が言葉を続けていく。
「『満月の晩に、あるURLにアクセスしたときだけダウンロードできるゲームがある。プレイすれば、人生を変えてしまうゲームが』。彼らはネットや若者たちの間に流れつつある都市伝説を追っていた」
「ゲーム、ですか」
話だけ聞けば一笑に付すだけだろう。だが、もう恭一は笑えない。
都市伝説。謎のゲーム。死んだ00班。そして、手元にはゲームオーバーと表示された携帯電話。
間違いなく繋がりがあるはずだった。
「俺はテレビゲームはやらないクチなんですがね。力になれるかどうかは疑わしいですよ」
言いながら子供時代を思い返す。幼いころは夢中でプレイしていたが、段々とやらなくなり、最後に触ったのはいつだったかも覚えていない。
「君の得意なのはゲームではないだろう? 私が期待してるのはそっちの才能だ」
「そいつはどうも。しかし、カギはその都市伝説だけか。そんな情報だけで悪魔を追えるとは思えませんね」
自分自身、刑事としては無能ではなかったと思う。
だが、それは一般常識に照らし合わせての話だ。悪魔を逮捕する方法など想像もつかない。
「方法は、ある」
だが、恭一の懸念はきっぱりと跳ね除けられた。確信のこもった言葉によって。
「君が追うのは、人間だ。都市伝説とゲームの間には、必ず人間の犯人が隠れている」
「根拠は?」
「過去の事例で一つの法則が判明している。常識では考えられない超常の力を持つ悪魔が持つ弱点……それは、人間と『契約』しなければ、その力を振るえない事だ」
契約? とおうむ返しに恭一がつぶやくと、涼原が静かに頷く。
「いわゆる、お前の願いをなんでも聞いてやろう。って奴さ。悪魔は人間と契約し、望みを叶える力を与え、『契約者』に取り憑く。そうしなければ、一切の能力を行使できないんだ」
涼原が机の上のファイルを開き、恭一に見せる。過去のD案件で逮捕された『契約者』のデータだ。悪魔に憑かれた人間の状態は千差万別で、悪魔に寄生され、支配された者もいれば、本人の人格を完全に保ったまま能力を行使していた者もいる。さらに近年では、人間ではなく契約者の持つパソコンや携帯ゲーム機に寄生した例もあるらしい。
「悪魔は人間に契約を求め、契約した人間のそばで成り行きを見守る。あるいは本人に、あるいはパソコンなどの身の回りのものに取り憑いて」
「なるほど、な。逆に言えば、D案件の裏には、悪魔の力を使っている人間の容疑者が必ずいるって事ですね」
「そう、例外はない」
はっきりと肯定されると同時、恭一の頭をよぎったのは、一つの疑問だ。
「だったら悪魔は何のために人間に憑くんです? 人間以上の力を得るのに、代償がいらないとは思えない。悪魔にも何らかの思惑かメリットがあるはずだ」
「魂を奪う、という話だ。本当かどうかは分からないがね。何しろこの情報は悪魔本人から取った調書からな上、我々には魂の存在は認識できないんだから検証のしようがない」
「……魂、ねえ」
警察が悪魔と対話し、調書を取ったというのは驚きだったが、魂と言われてもピンとはこなかった。
それきり、会話が途切れる。
一分近い沈黙の後、先に口を開いたのは恭一だった。
「まあいい。よく考えたら、悪魔が人間の魂を刈り取ろうが俺には関係ない。とにかく、俺は悪魔と契約した人間。このゲームの主催者、《契約者》を追えば良いわけですね」
手がかりは満月の晩にダウンロードできるゲームというのみ。ただし詳細なURLは不明。
情報は少なく、実際にダウンロードしようにも満月は先週過ぎたばかりだ。
というより、本当にダウンロードしようものなら00班の二の舞になってしまう可能性もある。
「割りに合わねぇな、全く」
「おいおい、十年も警察に身を置いていて気付かなかったのか? 警察官が割のいい商売なわけがないだろう」
「ごもっとも。けど、このD案件ってのはその中でもトクベツだ」
殉職の危険に加え、ブランク明けで調子が出ていないというオマケつき。不利な条件のオンパレードだ。
状況は最悪に近い。だが、やらねばならなかった。
「まあいい、上等だ」
用意されていたファイルを開きながら、小さく呟く。
いくら超常の力を持つとはいえ、相手が人間ならば突破口はあるはずだ。
そのまま過去の調査報告書を読みこんでいく。
三十分ほど経った頃だろうか。
突然、背後から肩を叩かれた。顔を上げると、涼原が携帯電話を片手に満足そうな表情を浮かべていた。
「朗報だ。すぐに蒲田署に向かってくれ。関係者が見つかったかもしれないと連絡があった。騒ぎになる前に確保するんだ。私は本庁に戻ねばならない。捜査用車は地下にあるので好きに使ってくれ」
「関係者? 何者なんです、そいつは」
「名前は香取寧々子。都内の高三で、被害に遭った桐崎彰のクラスメイト。その上、このゲームのプレイヤーだとさ」
涼原がにやりと笑う。
目まぐるしく動いていく事態に、恭一が感じていたのは居心地の悪い窮屈さだった。