4・牙
▼八月十八日 十四時三十分 / 千代田区 00班本部
朝から奇妙な違和感が寧々子を襲っていた。
明け方から恭一がいないのもだし、何より蓮華の様子がおかしい。
合流してから必要な時以外ほどんど口を聞かないが、寧々子には感じ取れる。彼女は妙に張りつめている雰囲気を放っていた。
水面下で何かが起きている。
だが、寧々子の知れる範囲では、その何かを特定できはしなかった。
「ねえ、蓮華」
『どうしたの』
人一人が通るのがやっとの通路を並んで歩きながら、寧々子が語り掛ける。
「ニュース、見た?」
『うん』
「昨日も、五十人、死んだんだって」
『知ってる』
「どうして?」
『……悪魔が、言ってた。楽しそうに』
蓮華の言葉は少ない。ただ何かを隠しているように感じられた。
全ての罪を、覚えのないものまで背負い込もうとする悲壮な覚悟が垣間見えた。
「どうして、悪魔なんかと契約したの?」
『私が、望んだから』
蓮華が一つ言葉を放つたびに、悲痛そうな声は重みを増していく。聞いてしまって、後悔してしまう程に。
『周りを見てくるわ』
「え、ちょっと。もう階段が見えてるのに?」
寧々子の疑問はもっともだった。ほんの今、寧々子の正面、通路の闇の先に階段が見えた。
あと数十メートルもしないうちに下層に降りられるのだから、背後を気にする必要はないはずだ。
『階段までは狭い通路の一本道。けど、床にはいくつも罠が仕掛けられているわ。解除には少し時間がかかる。こんな逃げ道がない所で襲われたら危ないじゃ済まないもの。安全を確認したらすぐ戻るから』
「う、うん。分かった。気を付けてね」
見送りの言葉を受けると同時、《レンカ》が寧々子たちのもとから駆け出していく。
「……ごめんね、蓮華」
姿が見えなくなってはいたが、言わずにはいられなかった。
何故なら、先程の質問は寧々子の意志ではなかったのだから。
『しらばっくれちゃって、全く』
険のある声に答えたのは《チョコ》だ。彼女は寧々子に対し、先程の質問を強要していた。
聞かなければ、もう協力できないという脅しをかけて。
実際のところ、彼女に脅している気はないのかもしれない。契約者を名乗る蓮華がすぐそばにいるのは、普通に考えれば危険この上ないし、信頼できるわけもないのだから。
『どうしてあんな危険な女をそばに置いているのか、理解に苦しむわ』
「けど、蓮華はずっとわたし達を守ってくれてます」
『どうだか。後ろからブスリ、と刺すつもりかもよ?』
「まさか、ありえません」
会話を交わしながら奇妙な違和感を感じる。
何故だろうか。《チョコ》と話している最中、妙な寒気が寧々子を蝕み始めていた。
原因はおそらく、《チョコ》の底冷えするように意地の悪い声音。
『だったらどうして階段を目の前にしてここから去ったの?』
彼女が口を開くたび、寒気はより強く、大きくなっていく。
『もし何かに襲われても、降りさえすれば怪物は追って来ないし、PKだって深追いは避けるはずよ』
いつものような甲高い声の中に垣間見える、得体の知れない含み。昨日までの彼女と、何かが違った。
「それは、罠があるって……」
戸惑いの声と共に、確認の為に手持ちの短剣で目の前の床を軽く叩く。
すると、今まで見えていなかった罠のスイッチが出現した。
「ほら、蓮華は盗賊だから気付いたんです。あの子は嘘をついていません」
『確かに、嘘はついてないかもしれないわ。だけど、そこがおかしいの』
不気味な余裕。
上から見下ろすような、獲物を前にした肉食獣のような、得体の知れない威圧感が、さらに寧々子に寒気をもたらす。
『三層には多くの罠が仕掛けられていた。だけど思い出して。罠が狭い通路に仕掛けられてたことなんて、今までにあった?』
「それは……」
しばし思考し思い出す。
答えは、否だった。
今のように人間一人が通るがやっとの狭い通路に罠はない。
《DF》をゲームとして考えれば当然だ。避けて通れない罠は、盗賊以外にとっては理不尽極まりないものだからだ。
悪魔の目的は、人間がもがく姿を見る事である。クリアできるかできないかギリギリのバランスが大事なのであり、ただ殺すためだけのトラップをむやみやたらに仕掛けるとは思えなかった。
『つまり、この罠はプレイヤーが仕掛けたのよ』
「誰かって、まさか……」
『あの女に決まってるじゃない。一度回収した罠は、プレイヤーが自由に設置できるんだもの。でも、ちょっと抜けてるわよね。自分になまじ罠が見えるからかしら。狭い通路に罠は存在しない、って事にも気づかないなんて』
「嘘、よ」
『嘘? どうして? 何故、自分をこんなゲームに引き込んだ相手を盲目的に信じられるの? 馬鹿なの? あなたの脳味噌はスポンジ? 心底理解不能だわ』
「でも、何のために」
『何故でしょうねぇ』
酷薄な、それでいて嫌味のこもった声で《チョコ》が笑う。
『こぉんな話は知ってる? 聖書によると、裏切り者のユダはイエスを銀貨三十枚で売ったの』
《チョコ》の話が脈絡のない方向に飛ぶ。意味は分からなかったが、聞き返したり遮ったりはできない迫力があった。
『どうして銀貨三十枚か。それは当時の奴隷が銀貨三十枚で取引されていたから。大恩ある師を、奴隷と同じ値で売る。そこに意味があった。
権力者にとってはイエスを奴隷と同じ価値でしか見ていなかったというポーズよ』
「……な、何を言ってるの?」
例えようもない不安をおさえ、寧々子が震える声を絞り出す。
だが、《チョコ》の言葉はさらに愉悦交じりに、そして高らかになっていく。
『何を言ってるって、別に難しい事は言ってないじゃない。ちょっと豆知識を話してるだけ。ただ、あたしは思うの。果たして三千万というカネは、高いか、安いか。親友の命の値としてはどうなんだろうな、って』
三千万?
命の値?
『気付いてないみたいだから、教えてあげる。あんたは、《レンカ》に売られたの。三千万で。たったの三千万で裏切り、あたしにあんたを殺すチャンスをくれたの』
そんな馬鹿な、という思いが寧々子の頭をよぎる。三千万と言えば、今の寧々子たちにとっては端金だ。
何せ、鑑定屋の儲けとPKの返り討ち、そして手つかずの三層で得たカネは合計で五億以上。山分けにし、食糧購入にも使ったとはいえ、寧々子の所持金は目標金額の二億に肉薄している。一時はランキングの一端に載ったほどなのだ。
『ありえない、ってカオね。三千万なんて安値で親友が自分を売る訳がない、って。でも、事実。あの女は持ち掛けてきた。三千万をくれれば、罠を敷き詰めてからあたしとあんたを二人きりにするって。
正義面をした鬱陶しい女を殺してみないか、と誘ってきた。そしてあたしはそれを受けた。
《レンカ》にとってあんたはたった三千万の価値しかなかったって事よ』