2・《予選》にて
▼同時刻
静謐に包まれた予選迷宮の一室。
一人の男が、無表情に死体を見下ろしていた。
「こいつも、駄目か」
床を赤く染めるのは溢れんばかりの鮮血。
伏した死体からアイテムを漁りながら、男が心底残念そうに呟いた。
彼は乾いていた。
人生に楽しい事など何もないといった空虚な意志が、ゲームのキャラクター越しでも分かるほどに滲み出ていた。
「退屈だ。何が現実に人が死ぬゲームだ。下らない。嘘ばかりじゃないか。こいつは人が死ぬゲームじゃない。人を殺せるだけのゲームだ」
例のURLがテレビで放送されるより以前に、彼は《DF》の存在を聞き及んでいた。
会社の同僚が彼に教えてくれたのだ。命を賭ける代わりに、大金を得れるゲームがあると。教えた本人は先日、死んでしまったがあまり興味はなかった。
「退屈だ。ああ、この上なく退屈だ。カネになど興味はないんだ。どこかに俺の命を脅かす奴はいないのか。俺に立ち合いの喜びを与えてくれる勇者はいないのか」
ゲームが始まって一週間。彼を追い詰める者はどこにもいなかった。
八人に襲われ、十四人をこちらから斬ったが、誰も彼もが骨のない雑魚ばかりだ。
喚く声はただただ広大な迷宮の壁へと吸い込まれていくばかり。立ち塞がる者など現れはしない。
当然だ。《DF》の予選迷宮は彼が一週間歩き回っても、地図が一割ほどしか埋まらない程に広大なのだから。
とは言っても、救いはあった。
時間が経てば経つほど、人が死ねば死ぬほど、迷宮は少しずつ狭くなっていた。
だから彼は叫び続ける。
敵を求めて、獲物を求めて。
「退屈だ。ああ、ストレスで胃が引き千切れるほどに退屈だ。俺は戦いたいんだ。戦うのが好きなんだ。早く、早く、早く俺と戦ってくれ。誰か、誰か、誰か」
空手も、剣道も、路上の喧嘩も、彼の敵はいなかった。
唯一、高校時代に彼を脅かす男はいたが、十年前を最後に一度も立ち会っていない。
「そうだ。あいつだ。あいつが剣を捨てたから、俺はこんなに退屈しているんだ」
頭に浮かぶのは十年前、剣道IHの決勝戦だ。たった一度の苦戦。何度も何度も思い返した。かつて愛した女の記憶よりも、深く、深く刻み込まれた戦いを。
「俺が勝てたのは、ただのクジ運だったのに。あいつ、負け逃げなんてしやがって」
試合の順番の妙で、彼は相手の試合をすべて目に焼き付ける事ができた。
だから行動を読み切り、勝てたのだ。傍目には圧倒的な勝利に見えただろう。だが、対等な条件ではどうなっていたか、十年を経た今でもわからない。
「ああ、口惜しい。涙が出そうなほどに歯痒いよ」
大声を出しながら大股で歩いていた時だった。
風を切る音が、かすかに鼓膜を震わす。視界の外、しかも遥か背後から放たれた弓矢だった。
だが、当たりはしない。身を僅かに横にずらし、紙一重で避けきる。
「退屈だ。どうして奇襲と言えばどいつもこいつも後ろからなんだ。下手な弓矢はいくら撃っても当たらんよ。どういう訳か、俺には分かるんだなよなあ」
襲撃者が闇の中で焦る気配が伝わってくる。当然だ。必殺のはずの闇討ちが、簡単に避けられてしまったのだから。
気配に向けて駆け寄りながら、やはり大声で告げてやる。
「退屈しのぎに一つ教えてやる。俺には何故か、殺気ってのが読めるんだ。たぶん、《DF》が命を賭けたゲームだからだろうな。だから俺にはお前さんがどうやって攻撃しているのかが手に取るように見えちまう。回線の向こうのお前さんがどうやってキャラクターを操作しているのかわかっちまう。おかしいだろ? たかだか携帯電話のゲームだってのに」
狭い通路で速射される矢をすべて避けながら、殺気の元へと向かう。
殺し合いの中で突如として目覚めた才能は、彼に絶対的な勝利を与え続けてくれた。
もちろん、ただの才能と断ずるつもりはない。今までの人生で積み重ねた修錬が、振い続けた剣の数が、交えた拳の量が、命を賭けたゲームの中で結実したのだろう。
「だからこそ、退屈なんだよなあ。とんでもない才に目覚めたからこそ、お前さんに勝ち目がないのも分かっちまう」
瞬く間に射程を詰めた彼が抜刀する。刃の輝きが空を走り、一刀のもとに襲撃者を斬り伏せた。
命を奪ったという手触りが、携帯電話越しでも伝わってくる。
「ああ、退屈だ。だが、この感覚だけは悪くない」
互いの人生を、何年何十年の時間を差し出し合い、簡単に壊してしまう背徳的な快感だけが、退屈しか存在しない彼を満たしてくれた。だが、それも一瞬だ。
「……やはり、退屈だ」
再び、十年前の苦闘を思い出す。
もはや、彼を心から満たしてくれるものは思い出の中にしか存在しなかった。
「ああ、葛城君。俺は君とまた立ち合いたい。できれば真剣がいいなあ。俺はもう、普通の試合じゃ満足できないんだしな」
恋にも似た胸の高鳴りを抑えもせず、ただ口にする。
「けど、もう駄目だろうなあ。俺、強くなり過ぎちまったもん」
この世にもう、彼の敵はいない。
目の前にあるのは絶望にも似た荒寥感だけだった。
心の闇を埋めてくれるのは、ただ殺し、奪う時の恍惚だけ。
「……退屈だ」
彼の名は《シド》こと、紫藤龍君。
溢れんばかりの才能を、退屈という名の荒野で浪費する男。
悪魔の仕掛けた狂気のゲームの中で、人の分を超える圧倒的な才を持った者、いわば魔人が生まれようとしていた。