1・悪党刑事と不可解な変死体
▼七月十八日 午後一時三十八分 都内某住宅街
死臭がする。
白塗りのセダンから降りた葛城恭一は咥えていた煙草を携帯灰皿にねじ込むと、注意深く住宅を眺めた。
グレーのスーツに同色のスラックス。
ネクタイは付けておらず、短い髪の毛を手櫛で後ろに流しただけの容姿は、どこか無頼を思わせる風格があった。
肺に残った最後の煙を吐くと、横から声がかけられる。
「現場の刑事って奴は、外から見ただけで何かわかるのかい? そんな鋭い目をしている」
私用車から降りてきた彼の名前は涼原総真。いまの恭一の上司にあたる男である。
いわゆる管理職の人間なため、現場の人間特有の行動に興味があるのだろう。ブランドスーツを着こなす華奢な体躯と、三十も後半に差し掛かろうというのに二十代のように若々しく見えるのも『らしい』と感じた。
「目つきが悪いのは生まれつき。それに何かを感じたって言っても、クソの役にも立たない直感ですよ」
口にしながら、現場を睨む。
周囲を覆うのは、物々しい雰囲気だった。
黄色い立ち入り禁止テープで封鎖された二階建ての住宅と、せわしなく動き回る捜査官たち。そして、さきほど感じた死臭。
平和な住宅街で、眼前の一軒家だけが切り取られて別の世界に取り込まれているようだ。
準備されていた白手袋を嵌め、玄関戸に手をかけた時。唐突に涼原が奇妙な提案を投げかけてきた。
「一つ、賭けをしないか? 事件現場を見て、君が驚愕するかしないか。私は断言する。君は間違いなく驚くとね」
眼鏡の中央を抑えながら涼原が提案する。彼の声音は、悪戯じみた響きが混ざっていた。
――言ってろ。今更殺人現場如きで驚くかよ。
無感情を装いながら、胸中で毒づく。
「いいでしょう。涼原さんも知っての通り、賭け事は嫌いじゃない。乗りましょう」
多少のブランクがあるとはいえ、元警視庁捜査一課の肩書は伊達ではないのだ。内心の苛立ちを隠しながら、静かに恭一が答えた。
だが、ドアを開けた瞬間。
恭一の予想は完全に外れている事を思い知らされてしまう。
何故なら。目の前には想像だにしなかった――
異様な光景が、広がっていたからだ。
「何だ、これは」
フローリングの床に、いくつかの白いマーキングがされている。
漫画と参考書の並んだ本棚。整然と片付いた勉強机。ベッドのそばに転がった携帯電話。ほんの昨日までここで人が生活していた空気。見慣れた光景。どこにでもある事件現場だった。
――ここまでは。
調度品以外は、全て恭一が今までの人生で見た事のないものばかりだった。
眼前に広がるのは、カネだった。
それも全て一万円札。
バラ紙幣が、札束が、数えきれないほど部屋中にぶちまけられていた。
「散らばっているカネは概算で二千万。発見した家族の弁では、一切の覚えはないそうだ。ところで、賭けは私の勝ちだね」
「……そんな事は、どうでもいい。なんなんだ、こいつは!」
部屋の中央に手を差し出し、叫ぶ。
不可解なカネなどより、もっと恐るべき異常に対して。
恭一が指さした先には、人間のミイラが胡坐をかいて座っていた。
遺体は、完全に水分を失っていた。落ち窪んだ眼に、枯れ木のように細くなった手足。鼻や唇はほとんど原形を留めてなく、まるで映画のセットでも見ているかのようだ。
不思議な事に、風化したものには見えない。毛髪もすべて残っており、今にも動き出しそうな生々しさがある。
しかも遺体が着ているのは野暮ったいパジャマだ。ほんの先程まで、彼は日常生活を送っていたとしか思えなかった。
「信じられるかい? 産地直送、新鮮なミイラだ。
検死に回さないと断定はできないが、衣類と前歯の差し歯から、この部屋の主である桐崎彰と見て間違いはない。年齢は十八。死亡推定時刻は午前二時。およそ半日前だ」
死体ならいくつも見てきた。見るに堪えないほど腐乱したものや、バラバラに切断されたもの。
今の彼は電車に跳ね飛ばされた遺体を見ても顔色一つ変えない自信があった。
だが目の前の桐崎彰は、恭一の常識にはない存在だったのだ。
新鮮なミイラなど、今までの人生で想像さえした事がなかった。
ほとんど乱れのない着衣も、一切の抵抗の痕跡の感じられない部屋も、何もかもが異常だった。
「……これは?」
直接調べてみると、奇妙なものを見つけた。首筋に残った、二つの傷。さらに確認すると、全身の十二か所に同じような穿痕がある。
瞬間、恭一の頭の中に、ふざけた推理が湧き上があった。
「これじゃあまるで、吸血鬼だ」
妄想じみた想像に笑ってしまいそうになる。
実際は、専門知識を持ったイカれた人間が何らかの器具を使って吸い出したのだろう。医療現場ではそういった器具が導入されていると記憶している。正確な情報は検死結果が出ねば分からないだろうが、吸血鬼がやったと考えるよりははるかに常識的だ。
だが、恭一のまっとうな推理を蹴散らすかのように、涼原はくすり、と吐息を漏らした。
「吸血鬼、か。惜しい、実に惜しいよ」
涼原が静かに笑う。
何故だろうか。彼が微笑んだ瞬間、周囲の空気が凍り付いた気がした。
そして、彼は静かに口を開いたのだ。
驚くべく、事実を告げるために。
「これは、悪魔の仕業だ」
おそらく癖なのだろう。再び眼鏡の中央を持ち上げながら、涼原が告げる。
――おいおい。
思わず耳を疑う。この二十一世紀の日本で警察官僚が『悪魔』などと口にするとは思わなかった。最高のジョークではないか。
「信じていないな? だが、事実だ。書類上の分類は『D種特定警戒生物』。結局定着せず、今も現場では悪魔と呼ばれている。悪魔は実在するんだ。遠い昔からね」
言われて、恭一の表情が硬直する。
発言した涼原当人は、嘘を言っているとは思えない顔だったからだ。
「それに、疑うなら戻ってもらうだけだ。塀の向こうに」
冷たく放たれた言葉に怯む。度の薄い眼鏡の下の目は恭一を鋭く睨み付けていた。
――まさか、本気なのか?
恭一の頭にフラッシュバックしたのは、換気が悪く湿っぽい独居房の様子だった。事実、恭一は数時間前まで刑務所の狭苦しい部屋に閉じ込められていた。
犯罪を犯した、不良刑事として。
娯楽もなく煙草も吸えない退屈極まりない毎日に終止符を打ったのは、目の前の男、警視庁公安部公安総務課課長、涼原総真だった。
「嘘や冗談で君を外に出すと思うか? こっちも問題になれば無傷でいられないんだ」
もちろん、理解できる。服務規程違反どころでは済まない。表沙汰になれば涼原の首一つでは済まない行為なのだから。
果たして、そんな危ない橋を渡ってでも冗談を言うだろうか。本当は他に何か裏があるのではないのか。
公安と言えば同じ警察内部でも謎の多い組織だ。オカルト事件を隠れ蓑にして、何やら怪しげな陰謀が動いているとも限らない。
疑問と疑念がぐるぐると頭の中を回り続ける。
凍り付いたように固まった恭一に向け、涼原が静かに告げた。
「君の解放の条件は一つ。この悪魔事件の捜査だよ。葛城恭一君。刑務所には戻りたくないだろう?」
言われて、気付く。取れる道は一つしかないのだと。
涼原の言葉が嘘か真かなどは重要ではない。悪魔の仕業であろうとなかろうと、自分自身の為に捜査をするしかないのだ。
「解放だけじゃない。もう一つの条件も忘れてないでしょうね」
「分かっている。十二年前の爆破テロ事件の捜査状況。解決できれば君に開示しよう。さあ、気が済んだら行くよ」
「行くって、現場検証に来たんじゃないんですか?」
「言っただろう。この現場は、悪魔が起こした事件――D案件のものだ。
今の君が見たところで、何も分からない。連れてきたのは異様さを知ってほしかっただけさ。
本来なら速やかに隠滅しなければならなかったのだけど、特別に残しておいた。我々が去ればこの現場は何事もなかったのようになる」
竜巻のように強引な涼原の勢いに、自分のペースが乱されているのを感じる。だが、今のところは彼に従う他ないのがどうにも居心地が悪かった。
言いたい事だけを言い切り、涼原が部屋から出ていく。
薄暗い部屋に、静寂と恭一だけが残された。
「ンだよ。ワケわかんねぇ」
頭を掻きむしり、ぼやく。
涼原と出会って数時間。
恭一はどうにも自分の調子を掴めないでいた。本当の自分ではない、と他人が聞いたら噴飯ものの台詞が脳裏に浮かぶ。
現場から遠ざかっていたブランクのせいかもしれないし、首に縄をつけられている窮屈さからなのかもしれない。
悪魔事件――D案件などという常識外れなものを担当させられるのも要因の一つだろう。
「……くそったれ」
一言吐き捨て、床に転がっていた飾り気のない携帯電話を拾う。十中八九、被害者のものだろう。電源は入っているし、画面も生きている。
「って、何だこりゃ」
しかし、パネルを触っても何の反応もない。一つの画面で静止したままだったからだ。
そこには、黒地に赤文字でこう書かれていた。
『GAME OVER』と。
「縁起でもねぇな。まったく」
不吉な文字の羅列に、自然とため息が漏れる。
まっ黒な画面の中では、悪魔と思しきキャラクターが恭一を嘲笑うかのように踊っていた。
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