5・生ける屍の呼び声
▼十時八分/東京都目黒区 フローレルGD201
ようやく辿り着いた単身者用マンションの一室。玄関を開けてすぐの廊下にて、寧々子たちにとって取り返しがつかない事が起きていた。
異様な怪力によって抉られた壁。粉々に粉砕された備え付けの靴箱。首がヘシ折れ、虚ろな目でこちらを見る松井だったモノと――松井の一撃で、左腕があらぬ方向に曲がった恭一。
ほんの数秒前。
寧々子が着いてすぐ、恭一は彼女を庇って傷を負ったのだ。
「早く逃げろっ。こいつはヤバい」
右手に握りしめた短警棒を支えに恭一が立ち上がる。ほんの数秒前まで、彼は警棒一本で怪物と互角以上に渡り合っていた。
冴えた動きは常人離れしていて、彼の振るう警棒はまるで生きた蛇のように松井を打ち、払い、突いていた。
だが片手が折られたせいで、先程までの動きはもう見えない。
寧々子は、似た光景を知っていた。《ネクロマンサー》から《ネコ》を庇った《レンカ》の姿だ。彼女もまた腕が折られてなお、絶望的な戦力差を前にして立ち向かっていった。
寧々子を、守るために。
襲い掛かる松井に対し、一瞬の隙をついて恭一が前蹴りを叩き込む。
腹部に深く突き刺さった足は軽々と生きた死体を廊下の奥へと吹き飛ばした。
「知ってるか? 熟練の剣道家は、棒切れの一本でもあれば、拳銃とだって渡り合えるんだぜ。だからとっとと逃げろ。俺もすぐに追いかける」
余裕綽々といった風だが、彼は既に肩で息をしていた。
対する松井はすぐさま起き上がる。すでに死んでいるだけあって、疲労など知らないようだった。
相手は怯まない。
指が潰れようとも、前歯が砕けようとも、何度も何度も真っ直ぐに恭一へと向かってくる。
――もう、やめて。
彼一人置いて逃げられるわけがない。寧々子のために恭一が傷つく理由なんてどこにもないのだ。
だが、恭一は戦う。例え腕が折れようとも、崩れた無数の破片が突き刺さろうとも、決して立ち向かうのをやめはしない。
自身の無力さに歯噛みする。親友も救えなかったし、今回もそうだ。守られてばかりで、何もできはしない。
――それは、本当?
全てが暗闇の思考に落ちていきそうになったとき、自分の中の何かが小さく囁いた。
――本当に、何もできないの? 何もできないから、何もしないの?
嘲るような、からかうような自分の声が胸をえぐる。
瞬間、彼女は口にしていた。
「……違う」
自分にも、できる事はある!
寧々子は、気付いてしまったのだ。たった一つの、解決法を。
だが、悲劇は唐突にやってきた。
「馬鹿、早く逃げろって……!」
床に倒れ伏した恭一が鋭い警告を飛ばす。だが、手遅れだった。
寧々子が思考の海に沈むうち、いつの間にか松井が寧々子の眼前まで迫ってきていたのだ。
高く掲げられた腕が、頭蓋を砕こうと振り下ろされる。回避は間に合わない。
その時だった。
今まで聞いたことのない鋭い炸裂音が響く。
それも、立て続けに三回。
同時に、衝撃を受けて松井が後ずさり、尻もちをつく。
「まさか、死体が動くとはね」
背後から聞こえたのは、涼しげな声。振り返ると、痩躯の男が眼鏡の中央を抑え、佇んでいた。右手に構えているのは、なんと拳銃だ。
「涼原さんっ」
倒れた松井を蹴り飛ばし、寧々子のもとへ駆け寄ってくる恭一。
「香取さん。君はすぐに逃げなさい。ここは我々に任せてもらおう」
涼原の指示で我に返る。
そうだ、早く逃げなければならない。何せ松井は頭を撃ち抜かれてなお、起き上がろうとしているのだから。
だが、寧々子もただ黙って逃げるわけにはいかなかった。
「二分、二分だけ時間を稼いでください!」
起き上がろうとする相手の眼球に向け、警棒を突き出す恭一に対し要請する。
「何か、あるのか?」
「……はい!」
攻撃の手を緩めぬまま恭一が放った問いに、強く首を振る。
「だったら笑え、こんな風にな」
顔を横に向け、寧々子に見えるように恭一がにやりと笑った。寧々子も、釣られて微笑む。恭一が浮かべたものほど格好いいものではないが、それでも笑えたのだ。
――だったら、やれる!
携帯電話を取り出し、ドアの外に飛び出す。
起動したままの《DF》に視線を移し、操作する。既に《屍鬼/ヒバリ》を撒き、《ネクロマンサー》がいるであろう場所からも離れていた。今は安全な物陰に潜み、体を縮めている。
だが、彼女は戻らねばならなかった。危険な戦場へ。
《ヒバリ》がいるであろう場所へ、《ネクロマンサー》が徘徊しているかもしれないエリアへ。
立ち上がるなり、先程逃げてきた道を逆走する。
全力疾走すると、目的の《ヒバリ》は数十秒もせずに見つかった。今は《ネコ》に背を向け、折れた首を揺らしながら迷宮を徘徊している。
――やらなきゃ。わたしが、やらなきゃ!
歯を食いしばり覚悟を決める。
現実世界では暴れる音の他に、断続的な発砲音が響いていた。
震える指を動かし、《ネコ》を真っ直ぐに進ませる。
気配を察知した《ヒバリ》が振り向くがもう遅い。
《ネコ》はヤクザ映画さながらに短剣を構え、彼だったモノの胸へと突き刺していた。
体当たり気味に刺したため、敵との距離が離れる。その隙を逃す寧々子ではなかった。
バックステップ。アイテム欄展開。選択、使用。
一連の動作を流れるような指捌きで行う。
「お願い、これで……!」
祈るような寧々子の声と共に、《ネコ》が白金色の球体を投げつける。球体は《ヒバリ》に当たった直後、光と共に純白の焔を吹きあげた。
生きた死者が炎の中でのたうち回り、やがて動かなくなる。
システムメッセージに表示されたダメージを見る限り、このままチリ一つ残さず消える事だろう。
手持ちにたった一つしかない強力な攻撃アイテム《火炎珠》の効果だった。
同時に今まで現実の扉の奥、マンションの中から響いていた暴れる音も消える。どうやら、上手くいったのだろう。
ヒバリをゲーム中で倒し、跡形もなくなるほどに《火炎珠》で焼き払う。
屍鬼と呼ばれる化け物がどうやったら止まるのか想像つかなかった為の苦肉の策だ。
――葛城さんは!?
寧々子は二分と言ったが、実際にはもっと早く決着がついた。
だが、彼らが無事だという保証はどこにもない。はやる気持ちを抑え、ドアを開ける。
そこには凄惨な光景が広がっていた。
膝をつき、荒い息を吐く血まみれの恭一。
空になった弾倉を取り換える涼原。
そして、焼け焦げていく松井の死体。
ゲーム中で死んだ者はキャラクターと同じ状態になる。
その原則は今も適用されていた。違うのは、彼の周囲に炎が上がっていないだけだ。
だからこそ、彼が焼け落ちる様子が鮮明に見えてしまった。
毛髪は既に燃えている。
頭皮が、顔面が焼け、鼻が溶け、そのまま焦げていく。爛れた皮膚が衣類と癒着し、融合する。そして、融けた服ごと炭化していく。
地獄絵図だった。肉が焼ける臭いが、衣類や体毛が焦げる異臭が部屋に充満する。
「馬鹿、野郎……!」
満身創痍の恭一が寧々子を抱え、そのまま部屋から押し出した。
抵抗は出来ない。できるわけがない。自分は、勝利の代償に何か大切なものを失ってしまったのではないだろうかと恐怖に駆られる。
「ネクロマンサーを、ネクロマンサーを倒さないと……あいつは、死体を操るから……こんな風に、死んだ人が……ごめんなさい、ごめんなさい」
全ての原因は、《ネクロマンサー》だ。
頭に浮かぶのは腐敗した巨体と六本腕の異形の魔術師。
奴を倒さねば、また。
「事情は分かった。俺に、任せろ」
寧々子の断片的な独語で何かを理解したのか、恭一が右手で寧々子の頭を撫でる。
「だから、今は落ち着くまでじっとしてるんだ。ありがとう、君がいなければ俺はやられていた」
彼の優しさが胸を締め付ける。少しは恩を返せただろうか。
閉めたドアから僅かに漏れる異臭の中。寧々子は、ただ嗚咽を漏らすしかできなかった。