プロローグ
▼五月二十九日 午前五時二十分/都内 地下鉄車両内
平日の夜明け。始発の地下鉄、千代田線での出来事。
静かに揺れる電車の中、たった二人の乗客しかいない車両内で、信じられないような異変が起きた。
男が、目の前で真っ二つに裂けたのだ。
まず、最初に目に入ったのは、噴水のように吹き出す鮮血だった。紅色をした大輪の花が、窓を、シートを、床を、真っ赤に染めていく。
裂けた男の対面に座っていた涼原総真は、ごくりと息を呑んだ。
徹夜明けの仕事帰りでの常軌を逸した光景に、言葉も出ない。
警察官僚として人間達が犯した多くの犯罪に触れるうち、どこかおかしくなったのではないのか。激務に追われるせいで幻覚を見たのではないかと疑ってしまった程だ。
だが、何度瞬きしようと眼前の光景に変わりはない。
ほんの数秒前まで、涼原は日常の中にいたはずだ。携帯電話で朝刊の電子版を読んでいたはずだ。見出しだって覚えている。
一面記事の残業代ゼロ案は大きな議論を巻き起こすだろうし、事件欄に大きく書かれていた汚職警官の有罪判決も頭痛の種だ。
だが、そんな人間臭い日常は一瞬にして裏返った。
乗客は、涼原と死んだ男の二人きり。目の前の男は乗車した瞬間から不審な素振りを見せていたのを覚えている。携帯電話を片手に俯き、彼は血走った目で何やらぶつぶつと呟いていた。
クソ、ふざけるな。
ち、ちょっと待てよ。
やめろ、助けて、許して。
毒づく言葉は徐々に懇願へと変わっていき――
そして、唐突に男は死んだ。文字通り、縦に両断されたのだ。その光景は、記憶が無意識にフタをするほどに凄惨なものだった。
そして訪れたのは、身を裂くような静寂。
涼原の耳に入るのは、眠気を誘う電車が揺れる音だけ。
口で静かに深呼吸し、男の残骸を見やる。そばには、黒い画面に『GAME OVER』とだけ書かれた携帯電話が落ちていた。
――とうとう、来たか。
胸中で呟き、かけていた眼鏡の中心部分を指で持ち上げる。深く息を吐くと、少しだけ落ち着きが取り戻せた。
自分の携帯電話と握り直す。手が震えそうになるのを抑え、アドレス帳から通話を発信する。コール二回で眠そうな声が聞こえてきた。
『はい。こちら久保田』
「涼原だ。00班の出動を要請する。こいつは間違いなく、D案件だ」
必要な連絡事項を伝え、電話を切る。
やる事は山積みだ。電車を止め、車両を封鎖し、乗客を降ろし、遺体を処理しなければならない。幸い、両隣の車両に人はいない。
―――
事実、涼原の目論み通り、この凄惨極まりない事件は表には出ず、電車は車両トラブルとして処理された。
そして疑問に思う者も現れず、すぐに世間から忘れ去られたのだった。
―――
そして、二か月後。
物語の幕は、上がる。
一人の男が吹き放つ、くすぶる紫煙を狼煙にして。
およそ二年ぶりの新作です。お待たせしました。
どうぞよろしくお願いいたします。
ドキドキして、最後にはスカッとできる鬱少な目サスペンスを目指していく所存です。肝心のゲーム開始は3話くらいから。