僕の妹と……(2)
聞き覚えのある声の主は母親だった。どうやら早退する旨を担任へ告げた後、心配で様子を見に来たらしい。
「俺は愛里を連れて先に行く。お前は母親を帰してから来い」
神条真人は、それだけ言うと愛里を抱きかかえようと、ベッドに腕を差し入れる。間一髪のところで、ぐっと肩を掴んだ。
「ちょっと待て。いくら愛里が小柄とはいえ、気を失っている人間は重いだろう。母を帰すまで待っていろ」
そう言い終えて、ドアへ向かった。いつの間にかドアの前にスーツを着た男が待機していた。ずっと遣り取りを見ていたのだろう。こちらが声をかける前にスッとドアを開けた。
「祐輔!愛里ちゃんは?車は佳那さんが回してくれるって言うから、早く連れて行きましょう!」
「母さん、そんなに焦らなくても大丈夫だよ。今、校医の先生に診てもらったら寝不足だって」
さりげなくドアから退き、傍らに立っていた男性を見た。
「あ、五月蠅くして申し訳ありません。校医の先生ですか?私、今運ばれて来た女生徒、天野愛里の母で、天野鹿子と申します」
ぺこりと頭を下げ、個人用の携帯番号が書かれた名刺を差し出した母に、男はこちらを睨んだ後、こほんと咳払いをした。
「こちらこそ申し遅れました。初等部の臨時校医をしております比屋定浩二と申します」
「……初等部、ですか?」
初等部の校医が何故、高等部にいるのか訝しがった母は、こてんと首を傾げた。比屋定と名乗った男は、人好きのする笑みを浮かべて言葉を続ける。
「はい。本日は体育祭で、高等部の人手が足りないと駆り出されたのです」
「まあ!……確かに、高等部の生徒たちの方が体格も大きいから、怪我も多そうですものね!」
本来、どれほど忙しかろうが、初等部の教師が高等部へ来ることはない。だが、母は学園内部の事情を知る由もないし、そのまま信じてくれた方が都合よい。付け加えるならば、高天原学園の教師で『臨時』とつく場合、大抵は生徒の家から派遣された私設教師だ。勿論、相応の理由と資格、身元保証がしっかりしていないと認められない。
例えば、サロンに常駐している澤木女史も織部家の家人であり、また茶道部の顧問をしている臨時教師でもある。彼、比屋定と名乗った男も神条家から派遣された人物なのだろう。
それにしても、この男、神条の関係者なのだろうが、学園のことも良く知っている様子だし、何より口が上手い。脈拍心拍共に異常がないだの、寝不足の状態でフルマラソンをした後に沢山の食事を摂取すれば血圧が低下して当然だの、真顔でよどみなく説明する姿に、滅多に初対面の人間を信用しない母が、コロッと騙されている。
とはいえ、そろそろボロが出ないよう帰って貰う方が良いだろう。
「母さん、あとは僕が看ているから。確か、夕方から雑誌の撮影とか言ってなかった?」
「あ、そう言えば!」
母は慌ててバッグから携帯を取り出す。恐らくは、数分おきに秘書からの着信履歴が残っている筈だ。
「大変!祐輔、じゃあ後は、お願いねっ!愛里ちゃんのこと、ちゃんと連れて帰ってね!」
母がバタバタと立ち去るのを見送っていると、比屋定と名乗った男に睨め付けられた。
「勝手に私を巻き込まないように」
「神条に従う人物なら話が合わせられると思ったのです。こちらの思惑以上にお見事な対応でした。私も危うく丸め込まれそうになりましたよ」
我ながら結構な誉め言葉だと思ったが、相手はそう感じなかったらしい。ふっと鼻を鳴らすと、器用に片眉を上げた。
「嘘は言っていませんよ」
そう言って手にしていたタブレットを振って見せた。
「何ですか、それ?」
「心拍数や体温の数値が見られるソフトが入っている」
話の流れから行くと、愛里の心拍数や体温の数値ということだろうか?だが、画面を見ても真黒だった。
「我が校の保健室にあるベッドは、布団カバーにセンサーが組み込まれていて、患者を寝かせると同時に計測を始めるのです。よもや風紀委員の委員長たる貴方が知らないとは」
イヤミったらしい男だった。
「風紀委員とは全く関係ない話ですね。それにしても、正常に作動しているのですか?私の眼には真っ暗で壊れているように見えますけどね」
「それは当然でしょう。患者がいないのですから」
え?愛里がいない?
慌ててベッドを振り返ったが、蛻の殻だった。言わずもがな、神条の姿も消えており、保健室の奥にある控室のドアが微かに空いていた。控室には、外へ抜ける隠し通路があったはず。
「くっそ!」
後を追うため走り出そうとした俺に、比屋定が待ったをかける。
「愛里さまは真人さまと車でお待ちです。狭い通路を通るより普通に玄関から出た方が遥かに早いですよ」
確かに覚束ない足取りで通路を追いかけるより、広い廊下を走る方が断然、速い。比屋定を急かし、廊下へ出る。鍵をかけることも忘れない。
「意外と冷静ですね」
言われてから腑に落ちた。さっきまで愛里のことが心配だったのに、今は何の不安も抱いていない。それはつまり、認めたくはないが、神条真人を信頼しているからなのだろう。
「あいつが、愛里に危害を加えることはないだろうからな」
「ふむ。随分と信頼しているのですね」
「……神条真人を信頼しているわけじゃない。ただ、八雲夏彦という男を知っているだけだ」
夏彦は、幼い頃から義妹の傍に付き添っていた。つかず離れず、常に義妹の安全を第一に、それも正義感にあふれ、突飛な行動をしてばかりの本人に悟られることもなく守ってきた。
その夏彦が呼び捨てを許し、愛里の傍に近寄ることを許した人間が神条真人だった。信用するしないの問題ではない。せざるを得ないのだ。
「そんなことより、急いで下さい。危害は加えないだろうが、不埒な行いをするかもしれませんから」
比屋定は、一拍間を置いた後、ありえますね、と頷いた。




