俺の母親(1)
俺の最初の記憶は、赤子の頃、誰かに抱きかかえられ、子守唄を聞かされる姿だ。けれど、それが誰だったのか、顔の辺りがぼやけて分からない。生みの母親か、それとも育ての母親か、あるいは他の使用人だったのか、大体、そんな所だけれど、今となっては誰であってもどうでもいい記憶だ。
俺は、乾家の次男として生まれた。戸籍上も父・乾総一郎と母・比佐子の実子となっている。次男というからには、長男となる兄・聡志、姉・久美もいる。
兄の聡志は生まれつき病弱で、殆ど部屋から出たことがなかった。俺は、兄を疲れさせるという理由から会うことを禁じられていた。母と姉も兄の傍にいることが多く、父は仕事で不在がち。必然的に俺は独りだった。
使用人が身の回りを世話をしてくれるが、彼女たちはあくまで雇用人であり、必要最低限のことしかしない。それどころか、乾家では監視の役割も兼ねるロボットだ。
幼い頃はそれが当たり前だったから疑問を持たなかったが、高天原学園の幼稚舎に入ってからは、次第に我が家の環境が普通ではないと気付き始めた。
疑問をそのまま母親にぶつけると、鬼のような形相でひっぱたかれ、折檻された。目が開けられないほど顔が腫れたため、元の顔に戻るまで部屋から一歩も出ることは許されなかった。
その頃から、色々な噂が耳に飛び込んでくるようになった。戸籍上の母は、本当は生みの親ではないということ。つまり、母にとって大事なのは自ら腹を痛めて生んだ兄と姉の2人だけで、俺は単なるスペアということ。
病弱な兄に万一のことがあった場合に備え、父はお手伝いとして働いていた遠縁の女に手を付けた。そして生まれたのが俺だった。その後も実母は乾家で暮らし、数年後に女子を出産し、そのまま赤子を連れて行方をくらました。それと前後して、運転手が姿を消した。
父親は乾総一郎なのか、はたまた同時期にいなくなった運転手なのか、幼い俺にも面白おかしく噂が耳に入ったが、これまたどうでもいいことだった。俺を捨てた実母に興味ねえし、ましてや会ったこともない妹だってどうでもいい。仕事に逃げて家庭を顧みない父親なんてクソくらえだし、運転手なんて更にどうでもいい。
問題なのは、血の繋がってねえ養母と姉、兄だけだ。いや、兄とは会わないし、姉も養母の言いなりだ。何でもかんでも養母に言い付けるお手伝いも、要は養母の言いなり。
つまり、問題は養母だけだった。じっと観察していると、どうやら見栄っ張りらしい。何でもかんでも、『由緒ある我が乾家』が口癖だ。由緒があるからなんだって?手前の手柄でも何でもねえだろうが。
以来、俺は常に笑顔を絶やさず、隙を作らず、本音を隠して人と接するようになった。養母に罵られても、姉に怒鳴られても、使用人に蔑まれても。学校の勉強は、トップを取らず、かといって常に10番以内にいるよう心掛けた。出る杭は打たれるってヤツだ。
そんな時、片山実南に会った。あいつは、自分の誕生日会にクラスメイト全員を招待しているらしい。俺もいつだったか、同じクラスになったよしみで招待状を貰った。養母は喜色満面の笑みを浮かべて、鴻池財閥と繋がりが出来たと喜んでいた。
当日、誕生日会へ行くとお城のような家があって、主役である片山実南が女王様のように下々からのお祝いを受け取っていた。その光景を見て初めて、手ぶらで来た自分に気が付いたが、時すでに遅し。もう女王様の目の前だった。
「乾君、来てくれてありがとう!」
「俺、プレゼントを持って来ていない」
一瞬、その場の空気が凍り付いたと思ったのは、気のせいではないだろう。だが、女王様は、鷹揚に笑っただけだった。
「じゃあ、誕生日おめでとうって言って!」
「た、誕生日おめでとう」
「ありがとう!私、みんなに祝ってもらって、とっても幸せ!」
女王様は、立ち上がって宣言すると、喜びに拍手する下々の者たちへ手を振った。
『幸せ』
その言葉を耳にした時、自分の中の何かが壊れた。そこから先は、どうやって家に帰ったのか記憶にない。養母が、プレゼントを忘れるなんて!と怒鳴っていた気もするが、大したことじゃない。そもそも俺は、自分のはおろか他人の誕生日会にだって一度も出たことがなかったんだから、プレゼントが必要だなんて知ってるわけねえだろ?!
養母の恐怖に引き攣った顔が浮かぶから、もしかしたら、口に出していったかもしれない。それとも、ただの妄想か?全く俺は壊れてしまっている。どうしようもなく。
ふと気づくと、手に紙袋を持っていた。中には、チョコレートとクッキーが入っている。口に入れると、甘くてちょっとほろ苦い味が舌に広がった。そう言えば、誕生会で何も口にしなかったのを思い出す。
急に腹が減って夢中で食べた。そしたら、箱の底に小さな紙があって、中にメッセージが書かれていた。
『小さな幸せを、あなたに』
何故だか、涙が止まらなかった。理由は分からねえ。ってか、追求したくねえ。それから、勢いに任せてパッケージに書いてあったホームページへメールを送った。何を書いたか覚えていないが、幸せがそんなに偉いのか?とか、幸せって何だ?とか書いたかもしれない。
暫くすると返事が返ってきた。
『幸せなんて、幻。ただの思い込み。自惚れ。自己満足。現実逃避。そして、希望。』
シンプルな回答に、胸がズキンと痛んだ。そうか。俺にないのは『希望』なのか。なんだか笑えてきた。笑いながら部屋中のものをぶっ壊した。中から鍵をかけたし、家具でバリケードも築いているから誰も入って来ない。
散々壊し、気が済んだら残しておいたPCに向かった。バカみたいにメールを書いて送信した。件の菓子屋に何通も何通も。もう何を書いたのかすら覚えていないが、菓子屋からは馬鹿丁寧に一通一通に返事が来た。
返事の内容も覚えていないが、俺の書いたお粗末なメールにも正面から向き合ってくれているのが分かるような文面だった。そんなやり取りを交わす内、心の嵐は次第に穏やかになっていった。
最初はドアの外でオロオロしたり怒鳴ったり泣いたりしていた養母だったが、やがて静かになった。そして、ドアの外に三度三度の食事が置かれた。血の繋がってない息子を見限ったのだろうが、死なれると外聞が悪いので食事だけは恵んでやろうというつもりか。
まあ、俺も餓死する気なんてなかったから、三度三度きちんと食べた。
そんな感じで、一ヶ月ほど経った頃だろうか。珍しく、部屋のドアがノックされた。そして、聞いたこともない男の声がした。
「初めまして、馨君。僕は、お兄さんの友達で、片山武史と言います」




