水際の君
「や、遅くなったね」
入り江の洞窟の暗闇に向かって、僕は静かにそう呟く。
季節は冬。
最早、潮風は体温を奪うだけの暴力であり、時折飛び散る波の飛沫は氷の礫のようだ。
こんな季節、こんなところに来る奴は当然いない。
元々、人気のないこの入り江の洞窟は生態系から隔離された場所でもあり、大型の魔物なども生息していない。
しかし、そういうものがいないということはそれらの餌となる魚介類がいないということでもあり、近所の漁師達にとってもまるで用がない場所だった。
夏ともなれば子供の遊び場になることもあるが、真冬の今の時期、此処に来るのは逢引の恋人同士くらいなものだ。
そんな場所になぜ僕が毎日きているのかといえば、まぁ逢引のためにきているのである。
ただし、相手は人間ではないが。
「さ、食べな。確かミルクとパンはいけるんだろう? 甘いものは今は勘弁してくれ。懐が暖かくなくてね」
そういって、僕は入り江の隅にいる待ち合わせの相手……人魚に話しかけ、パンとミルクを渡す。
水に濡れていてもまるで華のように緩い曲線を描く、ふわふわしたウェーブの金髪が特徴的な彼女は、一言も喋らない。
人魚は人魚でも、歌えば人を殺してしまうセイレーンか何かなのかもしれない。
まぁ、どうでもいいことだ。
そんなことは瑣末事でしかない。
むしろ、彼女の歌声に導かれて水底に没するというのなら、それはそれで本望というものだ。
「ああ、魚もあるよ。やっぱり主食がないと寂しいものね」
傷ついてここに流れ着いた彼女とであったのは、丁度一ヶ月ほど前だ。
嵐に揉まれてこの入り江にまで迷い込んでしまった彼女は、浅瀬で暴れたせいで傷を負ってしまい、この洞窟の隅で震えて縮こまっていた。
最初にそれを見つけた僕は当然驚いたが……それ以上に、その美しさに魅せられた。
人魚の話は何度か聞いた事もある。
恐ろしいセイレーンの話も、海辺の村や町でなら常識だ。
だが、それらを聞いていて、危険性を十二分に知った上でも、抗えないほどに彼女は美しく、儚かった。
今でも申し訳なさそうに目を伏せながらパンを齧り、ちびちびとミルクを飲む彼女を見ているだけで、僕の胸の高鳴りは止まらない。
最後に魚をするっと丸のみにすると、彼女はパッと嬉しそうに微笑んでから、僕に擦り寄って手を取ってくれた。
こうすると僕が喜ぶ事を、彼女はこの一ヶ月で覚えたからだ。
当然、真冬の潮水につかりっぱなしの彼女の身体は恐ろしく冷たいのだが、そんなことは欠片も気にならない。
もしこれが人魚の魔力だというのなら、誰もが抗えないのも仕方がないことと言える。
「ねぇ、君は僕を海の底につれてってくれるのかい?」
戯れにそうきけば、彼女は必死になって、それこそ泣きそうな顔をしてぶんぶんと首を左右に振る。
彼女は喋れないだけで非常に知的な存在だ。
僕の言葉もわかれば、僕等人間が水に長時間浸かればどうなってしまうかも、それこそ良く理解している。
だからこそ、そう首をしきりに横に振るのだ。
「それは残念だ」
つい、僕はそう呟いてしまう。
僕からすれば、彼女に導かれて、眠るように水底で死ねるのなら……それ以上の幸福などないのだが、優しい彼女はどうやら承知してくれないらしい。
狂気にも似た思いを募らせながら、僕は今日も彼女と過ごす。
「魔王様。まだとっておきのお話があります。聞いては頂けませんか」
「佳かろう……ならばその話を聞くまでは、決して汝を**すまい」