矛盾の怪物
もうどれほど走ったろうか。
俺はもう二時間も三時間も走っているつもりではあるが、俺の体がそれだけの長距離走に適応できるはずがないので、きっとまだ長くても数十分そこらなのであろう。
それでも俺にとっては永劫とも言える時間にそれは感じられた。
それくらいに俺は必死に走っていた。
だらだらと汗と涎を垂らし、涙と鼻水で顔面汁塗れにしながら、ひぃひぃと嗚咽を漏らして走り続けていた。
自分の顔を見る術など当然ないが、それでもきっと今の自分は酷い顔をしているのだろう。
そんな風に、この状況を他人事のように思っている自分がいる。
それくらい、現実味がないのだ。
思い出せ、俺は何者だ?
俺は盗賊団の構成員だ。
思い出せ。今日は何をした?
森の寒村を襲おうとした。一先ず、暖を取る為だ。
思い出せ。それがなんでこうなった?
全く思い出せない。
今日の俺達は村を襲う為に森に潜んでいたはずだった。
最低限の明かりでキャンプを張って、村を包囲する算段だったのだ。
実際それは上手くいった、何の問題もなかった。
明日の明朝には好き放題略奪の限りを尽くせたはずだった。
なのに、今どうして俺はこんなところでガキみたいに泣きじゃくりながら、森を出て夜の荒野を走っているんだ?
何から逃げるにしたって、こんな開けた場所じゃすぐに追い付かれるに決まってる。
わかってんのか俺!
わかってんだよ俺!
でもだめだ、森はだめだ。森だけはダメだ。
物陰が多すぎるからダメだ。
みんな物陰からやられたんだ。
わけがわからない、緩やかな曲線を描く巨大な嘴のような何かにやられた。
いや嘴ですらない。
鉄錆を凝り固めた、万年筆の先のような……とにかく形容し難い何かだ。
頭痛がする。吐き気がする。
どうしてそうなっているのか全くわからない。
長く走り過ぎたせいだろうか?
それとも、俺の腕が今も何かに啄ばまれ続けているせいだろうか?
ありえない、俺は走り続けている。
なんの障害物もここにはない。
でもさっきからずっと俺の腕は痛みを訴えているし、俺が一歩踏みしめるたびに地面には真っ赤な鮮血が不愉快な鉄錆の匂いを撒き散らして、雪面に斑点を残している。
さっきだってそうだった、わけがわからなかった。
俺は仲間と三人で夜の見張りをしていた。
そのときにそれはやけに遠くに見えた。
俺たちは最初は何かの見間違いか、そうでもなければソーサラーか何かの作った幻影のハリボテじゃないかと訝しんだ。
でも、それで終わりだった。
もうそのとき、腕をかざした奴の手が食われていた。
そいつはあっという間に……遠近法なんてまるで無視して、巨大な鳥のような、いや人のような……待て、人に嘴はないぞ、仮面越しに見える嘴なんてない。手もあんなに短くない。
第一、足の間接が人と逆向きだ。
あんな捕食や機動に特化した足の形をした人型なんて、亜人しかいない。
ならあれは亜人なのか? 亜人の巨人なのか? いや、人といえるのか?
わからない、見れば見るほどにわからない。
一人目は即死だった。
二人目は発狂して何か喚いている間に頭ごと食われた。
じゃあ俺はどうなっている?
右腕はさっき食われた。左手ももう指が三本ない。
酷い頭痛がする、ずっと頭痛がしている。
アイツがいるのはわかる。みえている。遠くにいるのもわかる。
でも関係ないんだ、遠近感なんて関係ない。
そんなものを無視してアレは俺の腕を啄ばみ、頭を啄ばみ、そして今目を啄ばんだ。
もう俺が知覚できることはそこまでだ、あれは何だろうか。
ありえないことばかりを、ありえないことなんてありえないと言わんがばかりに踏み越えて、俺達を常識ごとバリバリと食い散らかすあれは……何なんだろうか。
誰も俺の疑問に答えないまま、俺の意識は途切れた。
「魔王様。まだとっておきのお話があります。聞いては頂けませんか」
「佳かろう……ならばその話を聞くまでは、決して汝を**すまい」