プロローグ-美亜視点-
何かがけたたましく鳴っている。
朦朧とした意識の中、あたしは無意識に布団から片手を出してその音の元を探る。
(ん……どこ?)
音が聞こえる場所を触るものの、手は空振るばかりで見つけられない。
と、何かが手の甲にぶつかった。カチャン、という軽い音と共にジリリリと言う音が転がるように移動していく。
「う~…」
音に耐えかね、あたしは瞼を擦りながら体を起こした。
「…………」
けたたましい音が鳴る中、ぼーっとしながら周りを見渡すとすぐそばに探し物-目覚まし時計-があった。
あたしは手を伸ばして時計を取り、スイッチを止める。
いつもベッドの棚に置いてあるはずの目覚まし時計。それがなぜか、今日に限ってお腹のあたりに転がっていた。
さっきぶつかって落ちたのだろう。
だけど、時間を見るといつも起きる時間より1時間も早い午前5時。
「……なんで?」
眠い頭で考えてみたものの、答えは出なかった。
あたし―椎名 美亜―は20歳の普通の会社員。
一人暮らしをしながら、街中にある小さな雑貨屋[Laurel]の店員をしている。
珍しく週末連休になったので、今日は駅前の大きい雑貨屋に行ってみようと思う。
そっちの方がアクセサリーが沢山あったし…ごめん、店長。
あたしは店長に心の中で詫びながら、支度をはじめた。
全身を映す姿見の前に立ち、身だしなみをチェックする。
寝癖は直したし、メイクも完璧。服装もばっちり。
「よし、カンペキ!
…だけど、これでもう少し身長低くて顔もかわいかったら良かったんだけどなぁ…」
姿見を見ながら、溜息をつく。
173cmと女性にしては高い身長と細身の身体、猫目の少しきつめの顔立ち。おまけに今は真っ黒で髪も短い。
メイクや服装で少しでもかわいく見えるように努力してはみるものの、どうしてか「かっこいい」と言われる始末。
無いものねだりだってことはわかってる。だけど、「かっこいい」じゃなく、「かわいい」って言われてみたい。
気がつけば、鏡相手に睨めっこ。時計を見たらもうすぐ10時、そろそろ雑貨屋が開く時間だ。
「行って来まーす!」
あたしは誰もいない部屋に向かって言うと、そのまま外へ飛び出した。
「有り難う御座いましたー」
駅前の大きな雑貨屋で、目当てのネックレスを買った帰り道。時計を見るとまだ11時近く。
もう少し、ゆっくりしてから帰ろう…そう思い、あたしは馴染みの喫茶店へと向かう。
大通りから少し離れた場所にある、喫茶[ノーチェ]。今時のカフェではなく、昔ながらの落ち着いた喫茶店と言う感じ。
そんな居心地の良さのせいか、街の人達の憩いの場になっている。
ノーチェは高校の時にバイトで3年間夏休みに働いていた。そんな訳で、あたしにとっても思い入れのある場所。
今も当時とメンバーは変わらず、大人になった今でも休みの日や仕事帰りなどによく寄っては話をしていく…もちろん、ちゃんとメニュー注文してだけど。
今の時間だと、大体2,3人でお店を回しているはずだ。
カラランというドアベルの軽い音と共に扉を開けると、そこは珈琲の香りが漂うレトロな感じの喫茶店。
左側には4組のよく手入れされた四角い木製のテーブルと、その上には革張りのメニュー表。椅子はふかふかした2人掛けのソファ。
通りに面した大きな窓から光が差し込み、店内を明るく照らしている。
ドア正面奥にはカウンター。そこには小さな照明が釣り下がり、丸い椅子が5つ並ぶ。
ベルが聞こえたのか、その奥の厨房からオールバックの眼鏡をかけた初老の男性が出てきた。
ピシッとした清潔感のある白いワイシャツに濃いグレーのベスト、黒いスラックス、焦げ茶色の革靴。
そして襟には小さな黒い蝶ネクタイをつけている。
小柄だけれど、ピンと背筋を伸ばしたその姿は一見すると、喫茶店のマスターと言うよりどこかのお屋敷の執事のようにも見える。
「いらっしゃい…ああ、美亜ちゃんか。よく来たね」
柔和な笑みを浮かべるマスターに、あたしの顔も思わず綻ぶ。
「マスター、こんにちは!珍しいですね、この時間にお客さん居ないなんて」
あたしはきょろきょろと周りを見回す。
いつもだったら、この時間は満席になっているはずだ。
「今日は天気が良いからね。きっとみんなどこか出かけているんだろう」
そんな他愛も無い事を話していると、裏口の方から若い男性が出てきた。
「あれ、美亜ちゃんいらっしゃい」
その声に、あたしはハッとして声の主を見つめてしまう。
栗色の髪の色白の男性。
白いワイシャツに黒いスラックス、焦げ茶の靴。
マスターと違うのは、ベストと蝶ネクタイが無く、茶色のエプロンを着けている事だろうか。
バイト時代の先輩、神代 悠里さん。
外見は優しそうな感じのお兄さん。性格は温厚で穏やか、いつも笑みを絶やさない…そんな感じの人。
背丈は悠里さんの方が少しだけ高い。
あたしよりも2つ上で、高校1年の夏休み、ここでバイトしてからの付き合いだ。
たしかその時から、悠里さんはここで働いているって言ってたっけ。
バイト中はずっとお世話になりっぱなしだった。そういえば、高校の卒業式の日もお世話になったっけ…。
「あっ!ゆ、悠里さん、こんにちは!」
思わず声が上擦る。にやけそうな顔を、必死に抑えて笑顔にする。
…好きな人に対して、変な顔なんて絶対に見せたくないのだ。
「相変わらず元気そうだね」
悠里さんが微笑む。
それだけでもう、あたしの心拍数は跳ね上がる…うぅ、ドキドキする。
顔がちょっと熱い…どうしよう。
「は、はぃ…悠里さんも元気そうで何よりです」
一見、平静を装っているが、内心はもう笑い出して踊りだしそうな位舞い上がっていた。
悠里さんの優しい眼差しと優しい声を聞いているとすごく癒される。うん、やっぱり素敵…
惜しむらくは、あたしと背丈がそんなに変わらないところ…だけど、今はそれでいいと思う。
ほぼまっすぐ見詰め合って…いやいや、顔を合わせていられるし。相手を見下ろしたりしなくていいからすごく良い、この高さ。
そんな事をぐるぐる考えていると、マスターから「立ち話もなんだろうから、好きな席に座りなさい」と言われた。
その言葉で現実に引き戻される。
「あっ す、すみませんマスター、悠里さん。立ったまま長話をしちゃって…」
そう言うと、2人はおかしそうに笑う。
あたしが長く感じていただけで、実際は2,3分しか経っていなかったらしい。
なんだか、色々と恥ずかしい。
マスターに促されて、カウンターの真ん中の席に座った。
ほんのりと暖かいオレンジの照明がカウンターを照らしている。
「マスター、カフェオレ1つお願いします」
「はい、カフェオレ1つね。すぐ出来るからね」
マスターがコーヒーを淹れている間、カウンターに来た悠里さんと少しだけ話をした。
「そういえば、美亜ちゃんはpattypuruてゲーム知ってるかな?」
「あ、あたしは…」
「プレイしている」と言いかけたその時、カランとドアベルが鳴り誰か入ってきた。
悠里さんは「ごめん、また後でね」と言ってドアの方へ行ってしまった。
「あ…」
できれば、もうちょっとだけ話したかった。
でも、お客さんが来たのなら仕方ない。
「カフェオレ1つ、お待ちどうさま」
入れ替わるようにマスターがカフェオレを運んで来てくれた。
湯気を立てている優しい色のカフェオレ。飲んでみると、優しい甘さが広がっていく。
「ん…美味しい」
ここのコーヒーを飲むたびに思う。やっぱりマスターの淹れてくれるコーヒーは美味しい。
悠里さんやバイトの千春君の入れてくれるコーヒーも美味しい。だけれど、マスターのは格別。
これは経験の差なんだろうか。
カフェオレをゆっくり飲みながら、マスターと話をしているとドアベルがカラカラ鳴り始めた。
お客さんが来たのだろうか。ちらっと後ろを見ると、顔なじみの人がどんどん入ってくる。
カウンター席にもお客さんが1人、2人と増えていった。
時計を見ると12時近い。いつの間にか1時間程経ってしまったようだ。
この時間からは店内は慌しくなるので、長居は出来ない。
あたしはこのまま帰る事にした。
「ごめんね、せっかく来てくれたのに」
レジで申し訳なさそうに悠里さんが言う。
「気にしないでください、また来ますから」
あたしは悠里さんが気にしないよう、笑顔で返す。
「「ありがとうございました」」
「また来ますねー」
2人の声に見送られながら、あたしはそのまま帰路へついた。
「ただいまー!」
誰も居ない部屋に向かって声を掛ける。これは実家に居た時からの癖なのだ。
あたしは携帯以外の荷物をソファに置くと、メイクを落としに洗面所に向かった。
今日はもう出るとしても近所のコンビニ位だし、別にすっぴんでも構わない。
顔を洗ってすっきりした所で、ベッドに寝転んだ。
持ってきた携帯を確認すると、メールが3件。
5つ上の姉・綾乃と2つ上の兄・晶、それからpattypuruの友人、[ドロシー]からだった。
姉からは「美亜ちゃんへ。たまには電話だけじゃなくて、顔を見せに実家戻って来なさい。お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、皆待ってるからね。美亜ちゃん帰ってくる時に、ついでに晶も戻らせるから。」
兄からは「綾乃姉ちゃんから「たまには美亜と一緒にウチ戻って来い、晶からも美亜にメールしろ」って煩くてさ。お前が来ないなら、今度俺巻き込んでそっち行くってよ。とりあえず姉ちゃんは本気だ、気をつけろ」
姉と兄のメールを見てちょっと不安を覚えた。
とりあえず、来週にでも帰るか…シスコン気味な姉ちゃんの暴走が怖いし。
ドロシーからは「ルカちゃんこんにちは!今日ね、もし良かったらなんだけど新しいダンジョン行って見ない?」と言うお誘いだった。
彼とはもう、5年の付き合い。pattypuruを始めて少し立ってから友人になった。
今では毎日のように一緒に遊んでいる。もうそれが当たり前になるくらいに。
ベッドでゴロゴロしながら3人に返事をメールで送った後、明日も休みだったことを思い出し、友人の中野 梨瀬にメールをする。
[梨瀬、明日空いてる?もし空いていたらどこか行こうよ。行き先は…会ってから決めよう(*´∀`*)もしダメだったら言ってね]
よし、送信…と。
梨瀬は幼馴染の友人。5年前、まだ中学生だった時に梨瀬に誘われてpattypuruを一緒に始めた。
pattypuruは、今年で5年目のオンラインゲーム。基本無料(一部有料(課金)アイテム有り)。
別売りの専用ゴーグルを付け、パソコンと繋いでプレイすると、ゲームの世界を「体感」できる。
種族は全7種類(天族、人間、魔族、精霊族、エルフ族、竜族、獣族)。どの種族になるのかは全くのランダム。
この中で竜族と獣族は普段は角や尻尾のある人型だが、戦闘時にそれぞれドラゴン、獣形態へと変身する事が出来る。
種族が決まったら、それぞれの種族の特徴を持ったデフォルトキャラが数パターン表示され、そこから1つ選んで自分好みにカスタマイズしていく。キャラメイクはかなり自由度が高く、手の込んだもの。
そのせいか、種族が選べないという不自由さがあっても人気は高く、プレイヤーも多い。
パソコンは当時大校生だった姉のお古をもらってプレイしていた。
ゲームも基本無料だったし、勉強や宿題終わってからなら、幾らやっていても親に叱られなかったから夢中で遊んでた。
とは言え、日が変わるまでやってた時はさすがに怒られたけど。
梨瀬とは最初一緒にPTを組んで遊んだりしていたものの、お互いにゲーム内の友人が増えた今ではたまに組んだりする位だ。
ただ現実では大人になった今でも良き友人であり、休みが合えば一緒に出かけたりもする。
「pattypuruと言えば…悠里さん、あの時何言おうとしたんだろ…」
もしも、あの時にお客さん来なかったら聞けたんだろうけれど。
(もしかして、一緒にやろうってお誘いだったとか!?)
思わず顔がにやけしまい、小声でキャーとかヤーダーとか言いながら嬉しさと恥ずかしさでベッドの上でゴロゴロと転がってしまった。
勢い良く転がったせいでベッドから落ちそうになり、焦ったのは内緒にしとこう。
そんな嬉し恥ずかしなあたしの気持ちも、不安から一瞬で現実に戻される。
あたしのキャラクターはあたし自身とは正反対。それは自分に対する強いコンプレックスの裏返し。
現実の美亜は背が高くて細身で髪は短い。pattypuruのキャラクター・ルカミアエルは、背が低くて細いけれど出るところは出ている女性らしい身体、背中を越える位の長い髪をしている。おまけに色も白い。
顔もそう。あたしは猫目の少しきつめの顔。ルカミアエルは垂れ目気味の女の子らしい可愛い顔。
共通点は、名前に「みあ」が入ってる事と黒髪な事だけ。
[ルカミアエル]は、あたしにとっての理想の姿。無いものねだりだとわかっていても、ゲームの中位は可愛い女の子でいたい。
だけど、そんな姿は悠里さんには見せたくない。
悠里さんならきっと「かわいいね」って言ってくれる。
だけど、それは[ルカミアエル(キャラ)]であって[美亜]じゃない…。
思い込み過ぎなのはわかっていても、やっぱりちょっと不安。
(もし一緒にやるとしたら、新しいキャラでも作ろうかな…ちょっと男の子っぽい感じの女の子とか)
好きだから傍に居たい、本当の自分を見てもらいたい気持ちと、好きだからこそ変に嫌われたくなくて、本当の自分を見せられなくてすぐ不安になってしまう気持ちがせめぎ合う。
考えても堂々巡りで答えは出ず、軽く自己嫌悪に陥る。
溜息一つ吐くと、あたしは軽く目を閉じた。
気がつけば部屋が薄暗い。あたしは慌てて飛び起きる。
いつの間にか寝ていたらしく、携帯電話の時計を見ると午後6時をまわっていた。
「あー…やっちゃった…」
折角の休みに寝てしまった事への後悔が押し寄せる。
しかもこのタイミングでお腹まで音を立てる。そういえば、お昼ご飯食べていなかったんだった。
コンビニに行こうか迷ったけれど結局、朝の残り物のコンソメ野菜スープが残っていたので、目玉焼きとトーストだけ焼いて夕食にした。
メニューが朝食と変わらない気もしたけれど、其処はあえて気にしない事にした。
夕食を済ませた後に、携帯のメールをチェックする。
梨瀬からのメールはまだ来ていなかった。きっと、仕事中なんだろう。
あたしはpattypuruをプレイするため、パソコンの電源を入れた。