第三章 第四章
第三章
〔1〕 同日――三月十日
山道を下ってくる輝光の姿を見つけると、私は月乃と共に、小屋に向かう。輝光は、裏口から小屋へ入り、受付窓の前に座る沙弥に向って何か話をしていた。
沙弥との話が終わると、輝光は再び、小屋の裏口から出て、砂利道を通り、家に帰ろうする。私は、彼の後を追って、裏口の方へ回った。
「すみません」
そう声を投げると、輝光はピタッと、立ち止まった。
「なんだ? まだ何か用か?」
客を相手にしているというのに、何だその態度は? という言葉を押し殺しているかのように月乃は如何にも不快そうな形相をしている。無愛想にもほどがある。ただでさえ、皺だらけの顔と表情のない眼がおぞましい雰囲気を醸し出しているというのに。
「はい。あの――さっき言いましたよね。僕、ここを舞台にした小説を書きたいって」
「それがどうした。好きにすればいいだろう」
単刀直入。
という四字熟語が脳内に浮かんだ。
「はい。そうさせて貰うつもりです。それで、ここの責任者である貴方にお願いがあるのです」
「願いだと?」
刺さるような視線が痛かった。月乃も聊か不安そうだ。
私は、体を九十度に折り曲げ、頭を下げる。
「天照プロジェクトに参加させて下さい」
そう言うと、輝光の表情が歪んだ。
「――その情報をどこで仕入れた?」
輝光が問うた。私は言葉を詰まらせる。ここで小屋の中にあった資料を私が読んだとなると、せっかく作り上げた私の人物設定が狂ってしまう。
輝光は、受付用窓のほうをちらっと目やると、「沙弥か・・・…」とため息に近い声を漏らした。
「――ここに来る前、インターネットで調べたのよ。IT時代だもの。風穴に関する情報なんて調べればたくさん得られるわ」
月乃が言った。
その手があったか。
輝光は月乃を睨みつける。口のきき方を知らない女だと言いたげに。
「沙弥さんは、プロジェクトに対しての情報をよく知らないみたいで――だからこうやって、風穴の責任者である貴方に、この話を。風穴にとっても悪い話ではない筈です。幸い僕は小説家で、ある程度名のある書き手なので、ここを舞台にした小説が売れれば、蒼湖風穴にも大勢の観光客が来るのではないでしょうか」
自分でも厭になる程の虚言である。実際の私とはまるで正反対の肩書だ。
輝光の刺さるような冷徹な視線が痛かった。
「あの――」
「去れ。お前ら如き、若造が踏み入れていい場所など無い。ゲートの向こうに入れるのは選ばれし者だけだ。そして、その選ばれし者はもう集っている。余所者がでかい口を立てようが、何の意味もないのだよ。いいか。これ以上、山の大神の怒りに触れるような真似はするな」
「何よ。その言い方? さっきからこっちが大人しくしてれば、好き放題言って。私達、お客なのよ!」
月乃の我慢の糸が切れた。
確かに、輝光の言いようは他人を軽蔑するが如きものであった。
「去れ――」
月乃の怒りは輝光に届かなかった。
その一言で月乃はあしらわれてしまった。違う。こんな筈ではなかった。私は口には自信があった。しかし、輝光が他人の話に耳を傾けないとなると、その自信は何の意味もない。
輝光は、そのまま、家の方へと戻っていった。残された私達は、その場で茫然と立ち尽くしていた。私達の様子を伺っていた沙弥が裏口から顔を覗かせる。
輝光の心無い言動を沙弥が変わって私達に詫びた。
沙弥は、輝光の姿が見えなくなったのを確認すると、私達を小屋の中へと招き入れた。
「頑固なんです。あの人は」
言いながら、沙弥は私達に珈琲を入れてくれた。艶やかな純朴のカップの中で茶褐色の液体が揺れている。漂う湯気に乗った香ばしい香りが鼻腔に忍び込んできた。
私達は、テーブルを囲んで座った。
「昔からなんです。お父さん、厳しい人だから。自分の考えに絶対な自信を持っているようで、他人の意見なんてほとんど聞かない。風穴の責任者っていう立場もあるだろうけど、それにしても本当に頑固で他人を思いやる気持ちなんて持ちあわせていないんです――本当にごめんなさい」
沙弥は悄然とした物言いである。
「君があやまることはないよ。僕の考えが浅かっただけだ。いい策だとは思ったんだが」
「どうするの?」 月乃が訊いた。
私は腕を組み、狼煙のように漂う湯気を見据えた。私の方が訊きたい。輝光はプロジェクトという言葉を他所者が発するだけで嫌悪感を覚えているらしかった。
プロジェクトに参加すること事態が拒否されてしまう。
「ねぇ。どうするのかって訊いてるの」
月乃が私の肩を揺らす。
「金庫の番号を、訊き出すしかないのか。だが、一体どうやって?」
私は自問する。
「人の記憶ほど曖昧なものはありません。もしかしたらお父さん――」
沙弥が何か言った。
「何だ?」
「お父さんももう五十歳を過ぎています。物忘れをしない筈はないと思う。そうでしょ。人の記憶はパソコンの様な正確さもないし、持続も出来ないものだと思います。だから――」
なるほど。輝光はダイヤルの番号をどこかに残しているということか。それほど重要な番号ならどこかにメモ書きしていても可笑しくはない。
「私、家に戻って、父の部屋を探ってみます」
あの鬼の様な顔付きをした男が、部屋などに番号を残しているだろうか。聊か疑問には思ったが、ここは沙弥の案に従う他ない。
「でも、その間、ここの受付は誰がやるんだ? しかも、部屋を探るって君のお父さんは?」
「大丈夫。今日、お父さんとお母さんは買い物に出かけると言っていました。帰ってくるまで三時間は掛かると思います。何せ、この辺りは不便ですから」
確かに。
「だから、私が、家に戻っている間は、ここを任せていいですか?」
そう言ったのだ。沙弥は。
月乃は呆気にとられたように口を開いている。
「ちょっと。そんなの急に言われても困るわ」 月乃は焦ったように異見した。
「でも、二人一緒に出かける機会なんて滅多にないんですよ。これはチャンスです」
「でも、でも!」
私は沙弥に喰ってかかる月乃を宥めた。これはチャンスなのだ。
「月乃――彼女の言う通りだ。ここは従おう」
「従うって、貴方、簡単に言うけど」
「君は僕の助手だろ――大丈夫さ。こんなに暇なんだから、君は座っているだけでいい。風穴に関する知識だってもう十分蓄える事が出来た。観光ガイドだってお手の物だ」
言って、私は微笑んで見せた。
「私に出来ることはこれぐらいしかないから。じゃあ、行ってきますね。分からないことがあれば、私の携帯に電話を――」
沙弥は私に一枚のメモ用紙を渡した。メモには十一桁の番号が流麗な文字で記されている。
「三時間だけだ。それに君だって向こう側に行きたいんだろ」
月乃は曇りがかった面持ちで小さく顎を引いた。
沙弥がいなくなってから、私は月乃に受付を任せた。その間、私は小屋の中にある書類の山に目を通し続けた。もしかすると輝光はここに番号を残しているかもしれないとという閃きが降りたからだ。
流石に休日という事もあるせいか、幾人かの観光客が、風穴に訪れたらしく、月乃は窓口の前で四苦八苦しているようだった。とは言っても、楽な仕事だ。客から金を貰って、入場許可のチケットを手渡すだけなのだから。そんな楽な仕事にも適応出来ない月乃の方が割と不器用なのかもしれない。
客足が途絶えた正午過ぎ、私は冷蔵庫の中から麦茶を取り出し、グラスに注いだ。
「仕事していないのか?」
私はお茶を飲みながら、受付窓の前でぐったりする月乃に訊ねた。
「してるわよ。失礼ね。少なくても小説家なんかより余程真っとうに生きているつもりだけど」
「何だよ?」
「遊園地でぬいぐるみを着ているわ――子供達に風船配るだけだけど、夏は地獄なの」
「それって仕事か?」
「バイトなんだから仕事は仕事よ。仕方ないでしょ。大学生なんだから」
学生――私は合点が言った。突然、私の目の前に現れ不可解な言動を浴びせ、困惑する私に更なる展開に巻き込んだ女は大学生だったのか。
訊けば、大阪の大学に通っているという。確かに私なんかより随分と正当な生き方だ。
私は、壁かけ時計に視線を投げる。そろそろ沙弥が戻ってくる時間だ。
「君と瑠夏はその大学で出会ったってわけか」
「そうよ。同じサークルで出会ったの。ミステリー研究会っていうサークルでね。それで、私は彼に一目ぼれしちゃったの。彼、美形だったから」
「瑠夏はミステリー好きだった……それで、ここに――」
「本当に勝手な人よ。突然、私の目の前に現われて、突然、私の目の前から消えた。馬鹿みたい。そんな消えた彼を追いかけてここに来る私も相当馬鹿よ」
月乃は自分自身を嘲笑っている様だった。
しばらくして、裏口が開く。沙弥が戻ってきたのだ。心なしかいつもの溌剌とした表情が消えている様に見えた。駄目だったか。沙弥は首を横に振る。私は消沈の息を吐いた。
「でも――ヒントは得られました」
沙弥は暗い声音で呟いた。
私は真意を訊ねる。
「私、思い出したんです。数日前、お父さんが金庫を開ける時に、何か手帳のようなものを見ていました。それを見ながら金庫のダイヤルを回していたんです――」
「手帳?」
私と月乃の声が重なる。
「はい、恐らくあの手帳以外には、番号を残していない――お父さんの部屋、散々探してみたけど、何も見つかりませんでした。その手帳を盗み出すしか、ゲートの向こうに行く方法はありません――」
「なら、奪うしかないのか」
「でも、どうやって? お父さん、肌身離さず手帳を持ち歩いているのに。盗みだすなんて無理ですよ」
相手はあの鬼だ。頑なに他人に心を見せない、あの男に隙があるだろうか。
沙弥は諦めている。しかし、月乃は、まだ諦めていないらしい。
月乃は、テーブルをドンっと叩き、不機嫌そうな形相を浮かべている。
「私は、諦めない! 瑠夏を見つけて、ちゃんとこの目で彼が死んだ事を確かめるまで帰らない!」
「なら、何かいい案でもあるのか?」
私が問いかけると月乃は黙った。泣きだしそうになる月乃に掛ける言葉が見つからない。沙弥も困惑しているらしく黙然としていた。
「貴方――小説家なんでしょ?」
月乃の唐突な問いかけに私は、へっ? と間抜けな声を漏らす。
「それがどうかしたのか?」
「想像力を働かせなさいよ。こういうピンチの時、貴方の書いた物語にはどんな展開が待ち受けているの? 絶体絶命の時、貴方の生み出した主人公は死んじゃうの?」
私は言葉を失う。ミステリー小説も、何作が書いたことがある。だが、小説は現実とは違うのだ。小説は作者の都合のいいように展開を進めることが出来る。が、現実では、そうもいかない。
月乃の無茶苦茶な言い分に私は顔を顰めた。
こんな時――
私なら、どのような展開にもっていくだろうか。
私達は、輝光から番号が記された手帳を奪わなければなるまい。如何なる方法で? 私は想像力を働かせた。
脳内で何かが弾ける。それは刹那な閃き――
「僕に書けない物語は無い」
輝光から手帳を盗むしかないという固定概念を抱く事こそ、愚かな考えなのだ。手帳を盗む必要などない。知りたいのは番号だけだ。難しい問題に限って、以外に解き方は安易な事が多い。
私は、沙弥に再び、仕事を頼むことにしたのである。
〔2〕
――いいかい。持ち物を肌身離さず持つなんて不可能なんだよ。人は、一日に何回服の脱ぐ? 風呂に入る時。あるいは就寝前とか。その隙を狙おう。
その日の夜。
沙弥は意図も容易く、手帳の中身に記載された番号を手に入れる事が出来た。私の筋書き通りに彼女は行動した。チャンスは微々たる時間ほどしかない。輝光が風呂に入っている瞬間を狙ったのである。
脱衣所に脱ぎ捨てられた輝光の衣服から、彼女は黒い革の手帳――夥しい文字の中に紛れた暗号のような数字を自分の手帳に書き写したのである。
右に四回――「6」 左に三回――「8」 右に二回――「7」 左に一回――「9」
数字は、その手帳にこれしか、書かれていなかったらしい。
私は沙弥から受け取った手帳を手にしながら、金庫を見据える。これは難解な暗号などではない。不安げな二人をよそ目に、私は金庫の前にしゃがみ込んだ。
回転式のダイヤル。時計のように1から9までの数字が円状に刻まれていて、その中心部に矢印付き取ってのような物がある。私は徐にそれを回し始めた。
右に四回転して、「6」に合わせ静止する。
左に三回転して、「8」に合わせる――
右に二回転――「7」
左――「9」
カチャっという音が聴こえると共に、分厚い金属の扉が開いた。
「開いた……こんなに簡単に――」
月乃が愕然として言った。
「最初から、こうしていれば良かったんですね」 沙弥が言った。
君が言うなよ。
私は思わずそう言いそうになった。何のためにここまで苦労してきたのだ。元はといえば、沙弥が、輝光が所持している手帳の存在を忘れていたからだろう。本当に人の記憶とは曖昧なものだと思った。
「貴方って、やっぱり馬鹿?」
月乃が、悪戯っぽく言うと沙弥は、
「本当に失礼な人」と言った。
言葉とは裏腹に月乃は喜んでいるようだ。そして、沙弥にも感謝しているのだろう。これで、準備は整った。金庫の中に入っているのは鍵だけではない。福沢諭吉の束が二つもある。なんだか泥棒しているような感覚に陥ってしまった。
「駄目ですよ」
沙弥は注意を促す。「分かっているさ。僕は泥棒じゃない」と言い返すと、私は、唾液を呑み込み鍵を手に取った。
漸く向こう側に行ける――
沙弥から貰った写真に写された、蒼く、静謐な地底湖。美しく神秘的な光景が脳裏に過った。
時計の指針が、深夜の一時を過ぎた頃、私達は、小屋の中から必要と思われる道具を持ち出した。懐中電灯。予備の電池。誰が使っていたかも分らない工事現場用のヘルメット。防寒具や非常食が入ったリュック。風穴の中は携帯電話が通じない為に無線機を持つことにした。恐らく、プロジェクトの際に使われていたものだろう。勝手に持ち出していいものかと、思ったが、沙弥は明け方までなら大丈夫と言った。
「あと、これも――」
沙弥が手にしている地図には、蒼湖風穴第二層から向こう側の構造が記されている。日が開けるまで、戻ってこれるだろうか。いや、戻らなくてはならない。
「あの――私も行かないと駄目ですかね?」
沙弥は不安げに訊ねる。
「いや、君は、ここで待っていてくれ。何かあったら、無線機で連絡する。行くのは僕と月乃だけだ。それに風穴の照明はここにあるブレーカーで管理している。君まで来たら誰が照明を点けるんだ?」
沙弥は、首を縦に振った。
「いくぞ」
私と月乃は夜陰に包まれる山道を登り始めた。渓流のせせらぎが、消えることのない水音が、夜の静けさを掻き消し、不気味さを醸し出す。懐中電灯の頼りない光だけが、ぽつりと地面を照らしていた。
険しい階段を登り終え、目前に風穴への入口が現れる。灯りで穴の中を一度照らし、身を屈めて中へ潜りこんだ。
「怖い?」 月乃が訊ねた。
「まさか」
談笑していられるのも、風穴の中に入るまでだった。
――沙弥、照明を付けてくれ――
私は無線で、沙弥に連絡する。「了解……」と小さく返事が返ってきた瞬間、琥珀色の照明が、洞窟内を照らしだした。
目を覆う二人。眩しい。
岩肌の凸凹が、光を受け、再び人面に化ける。何百体の人の貌は私達を傍観している。延々と滴る水音。あぁ、恐ろしい。
第一層――第二層を抜け、私達はゲートの前に立ち尽くす。鉄製扉の中央部にある小さな鍵穴。
「瑠夏、待ってて、今、迎えに行くから」
月乃の呟きを聴きながら、私は鍵を回した。
人一人が潜れるのがやっとなほどに小さな穴。穴の中のゴツゴツとした岩肌の表面上には冷たい水の層のようなものが覆っていている。掌から、その感触が伝わり、どうも気色が悪かった。私達は身を屈め、這うようにして、その穴を抜ける。その先には想像を絶するような光景が広がっていた。
「凄い……」
私は恍惚とする。
天井から突き出た、つららのような鍾乳石。何百年、何千年の月日が創り出した、艶やかな自然の牙は、照明の光を受け、輝いていた。下を見れば、地面から突き出た石筍が何十本と生えている。私が見たかったのはこれだ。これこそが、鍾乳洞。
無数の鍾乳石と、石筍が、獣の牙のように映り、私はまるで巨大な生物の口内にいるような感覚にさえ見舞われている。私達は自然の神秘に呑まれていた。
牙から落ちる水滴が、月乃の頬に落ち、彼女は小さく「きゃっ」と声を漏らした。
「月乃、デジカメ持ってきてたよな?」
「うん」
「写真を撮っといてくれ。何か瑠夏の件に関してヒントになるものが写り込むかもしれない。照明はあるにしても、暗すぎる。空間の大きさに比べて照明の数が圧倒的に少ないんだ。だから、カメラのフラッシュ機能を使って、一瞬だけ、映し出される空間の中をカメラに収めるんだ」
「分かったわ」
月乃はリュックの中からデジタルカメラを取り出し、構える。
眩い閃光が刹那的にシアターホールという名称がついた空間の全貌を映し出した。
何枚かの写真を撮っている最中、月乃は違和感を覚えたらしく、
「あれっ?」
と訝しげに呟いた。なんだ? 訊ねる。
「何か、小さな影のようなものが見えたような……」
私は辺りを見回す。
天井や岩壁に開いた無数の穴から、一瞬、何かが横切った。何だ? 私は凝視する。懐中電灯の光線を、また影が横切った。
「コウモリだ・・・…問題ない」
私は、蒼湖風穴に生息する生物達の資料を思い出していた。
キクガシラコウモリ――夜行性で、昼間は洞窟や民家等で休む。体長は、約6センチから8センチ。主にコガネムシや、カゲロウなどの昆虫を食す為、人に危害を加えることはない。冬眠から目覚める頃合いなのだろう。洞窟にコウモリがいることなどこれといって珍しい事ではないのだ。影の正体が分かって月乃は安堵したらしかった。
時間の流れを忘れる。私達は、永遠に途絶える事のない水音を耳にしながら、歩き続けた。
ドリームホール、美和ホール、石切場、三神殿、森の間――
そして、私達は、地底湖に辿り着いた。
――照明はここまでです。ここから先は、設備がまだ整っていないみたいですね――
沙弥からの無線が入る。
透けるような蒼い湖。底は見えない。
石灰岩の畔で、私達は茫然とその光景に見入ってしまった。
「もしかして、瑠夏はこの中に――」
月乃が言った。
どこまでも透明な水面が照明の光を受け、蒼に変わる。
ここまで、辿りついたのはいいが、それまでの道のりで、瑠夏の遺体など無かった。が、収穫が無かった訳ではない。〔三神殿〕という区域で、私達は不気味なものを間の当たりにしていたのだった。
巨大な石柱が三本――三神殿と呼称される所以は恐らくそこから来たのだろう。そして、天井から突き出た牙――地表から生える牙。再び私達は巨大な生物の口の中にいた。
その時だった。
私達が、ここがかつて自殺の名所であったという事実を確信することが出来たのは。
――人よ! これ、人の骨よ!
月乃の持つ懐中電灯の光線が指し示す場所。
地表の岩の表面は艶やかに光っている。天井から落ちる水滴のせいだろう。そして、その地表の上には、人の骨が埋没していた。
何十年も前に死んだ人の亡骸が、鍾乳石の中に埋まっていたのである。それは、余りにも哀しい絵だった。
無数の石筍に取り囲まれた、静寂なる骸は生々しい姿で眠っている。
――どうして死体を回収しないんだ?
――きっと、貴重な資料だと思って、あえて放置しているのよ。
――こんなの見た事がない……人が鍾乳石の中に埋まっているなんて。
私達は、骸の前で、そのような話をしていた。
この鍾乳洞の中には、回収されていない遺体がある。その遺体は、長い年月の中で、鍾乳洞と一体になり、埋没されている。そして、天井から溶け落ちた石灰岩の雫が延延と、その死体の上に降り積もり、彼らの姿は、いつかは見えなくなるのかもしれない。
ぞっとした。誰も知らない場所で、消えていく恐怖――哀しい。
だが、瑠夏がそうなっていることは、皆無だろう。彼が消えたのは二年前だ。解けた石灰石が再び固形化するにはかなりの年月がいる。
だとすれば――
ここしかないのだ。
この果てしなき蒼の世界――
地底湖の底に、彼の骸は――
「瑠夏……」
そう言って、月乃は膝をついた。
「――月乃、諦めるしかないよ。現時点では、ここが洞窟の最深部だ。湖の底に、更なる空間が広がっているらしいが、どうやって、この底に辿りつけと言うんだ? 泳いでか? もう、無理だ。それに時間がない。後、二時間で、来た道を戻らなきゃならない。今日のところは引き返そう」
「いや、いや……せっかくここまで来たのに」
「わがまま言うなよ」
「冷たい人ね。人ごとだと思って」
「冗談じゃない。人ごとだと思っているなら、こんな場所まで君と来たりしないさ」
「……ごめん」
月乃は重い体を起こした。
河川を流れる水音が煩い。私は雑音の中で、踵を返す。懐中電灯の光が弱くなっている。万が一に備えて予備の電池を持ってきて良かった。
再び、来た道を戻る。
結局、瑠夏の死体を見つける事は出来なかった。いや、諦めるのは、まだ早いか。彼らならいつか見つけてくれるかもしれない。
天照プロジェクト――
三月二十日、彼らは地底湖の向こうに調査を進める。その時に、あるいは――
「瑠夏……どこにいるの?」
月乃は帰る途中、幾度となく、そう呟いていた。
そして、ドリームホールまで、辿りついた私は、無線機から唐突に聴こえて来た、雑音を訝った。
イヤホンを通して、
――ザ……ザァ……けて……けて……――
という意味不明な音が鳴った。
何だ?
「――今の聴こえたか?」
暗闇の中で、私は月乃に問うた。
「ええ。何かしら?」
月乃の無線機にも同じような雑音が入ったらしかった。
沙弥に何かあったか。
いや、その可能性は少ない。小屋の中は安全の筈。私達がいるこんな風穴の中よりは遥かに。
しかし、この周波数を使っている無線機は、私と月乃と沙弥の三人だけだ。なら、やはり無線を飛ばしたのは沙弥ということになる。
まさか。
私の全身に戦慄が走る。もしや、輝光が、私達の所業に気づいたのではないか? 私は歩幅を広げる。
「ねぇ、どうしたの? そんなに急いで」
「分からないのか? 沙弥の身に何かあったんだよ」
「え? どうして?」
「もしかしたら、彼女のお父さんが、僕達のやっている事に気づいたのかもしれない。この周波数で、無線を使っているのは、僕達三人だけだ。沙弥に何かあったんだよ」
「そんな……」
雑音の中に混じった沙弥の声音。「逃げて」というようにも聴こえた。
第二層――第一層を抜けた先――
再び無線に雑音が混じる。
月乃の手を掴み、私は駆ける。駆ける。駆ける。目の前に、小さな穴が見えた。その時、勢いよく照明が落ちた。
周りが一瞬にして闇に包まれる。
「なっ、何?」
月乃が叫ぶ。錯乱状態。襲いかかる焦燥。
「大丈夫だ。出口はもう見えてる」
足場が悪いせいか、思うように走れない。それでも私は走った。
出口まで続く岩道を抜け、出口を飛び出た瞬間、私は絶句した。
「な、何でよ……」
月乃が震えながら問う。
目の前に、輝光がいた。
灰色の着物に黒い帯。寝巻き姿の彼は、沙弥の手を引き、阿修羅のような形相で、私達を睨みつけていた――
第四章
〔1〕
自我を失った様な鬼の形相で、我が娘を睨みつける輝光。彼は、掴んでいた沙弥の手を離し、彼女の長い髪を勢いよく引っ張る。痛い。離して。という沙弥の悲痛な叫びも、輝光には聴こえていなかったようだ。
どこまでも非情で、冷たい双眼が、沙弥の歪んだ表情を見据えている。私達は自覚した。決して犯してはならぬ罪を犯してしまったのだと。私達のせいで、沙弥が――
「貴様ら、どういうつもりか知らんが、自分たちの行った事を理解しているのか?」
私は言葉に詰まった。
「な、何よ。別にゲートを開けたからって何だっていうのよ」
月乃が困り果てた私に助け舟を出すように言った。いや、単に開き直っただけか。月乃の反攻を不快に思ったらしい輝光は更に赫怒している様である。
「沙弥、お前は馬鹿者だ。こんな憐れな子供達のせいで、山の大神様は怒っておられる。貴様らは規律を犯したのだ。金庫を開けただけではなく、私の言いつけを破り、他所者を二人も、風穴内に入れた」
「お父さん。聞いて。月乃さんには恋人がいて、その人が、風穴の中に――」
「黙れ!」
輝光の罵声が響く。
「何よ! 話ぐらい聞いてあげてもいいじゃない! 馬鹿は貴方のほうよ。 その子は私を助けてくれただけなのよ! 悪いのは全部私なの。だから――お願い。 離してあげて」
月乃は懇願した。自分のせいで、私達を巻きこんでしまったと思いこんだのだろう。
輝光は、沙弥を突き飛ばす。
バランスを崩した沙弥は、地面に倒れた。彼女の啜り泣く声音が、私の鼓膜に忍ぶ。
もはや、人格を失っているようだ。何が彼をそこまで怒らせているのか、今一理解できない。
「あの――規律って、何ですか?」 訊ねた。私には、まだ知らない事が、知るべきではない村の戒律のようなものがある気がしたのだった。
「――私達は、また神の逆鱗に触れた。愚かな、若者二人のせいで、また人が……」
輝光が暗い天を見上げそう言った。
輝光は、滔々と話を続けるのだった。
「私は何も知らなかったのだ。ここに来て、冬籐家の婿として、迎えられた私は何も知らないまま、この家のしきたりに従った。それがそもそもの誤ちだったのかもしれない。風穴を観光地として盛り上げる為に、神木の伐採が決まり、私も潔く、それを了承した。そして、いざ、木々達が伐採された、その直後から、大勢の他所者達がここに足を踏み入れるようになった。それが悲劇の始まりだったのだ」
「その話は、知っています。皐月さんから、話を聞いて――自殺者が出たんですよね。あなた達はそこで神の怒りに気づき、あの慰霊碑を作った」
「話にはまだ続きがある。プロジェクトによって、多くの自殺者の亡骸を発見した私達は、自らの誤ちを反省し、もう二度と悲劇を繰り返さない為にも、あの慰霊碑を建てた。しかし、それは単なる戒めであるに過ぎない。村人の不安を抱かさない為に表向きには、神の怒りが鎮まったということにしてあるのだ」
「してある……?」
「ゲートを作ったのは人が入らぬよう……向こう側に行ける人間は、選ばれし人間だけだ。私と、この村に住む一握りの人間しか、向こう側に行ってはならぬ。もし、入れば彼のように――」
そこで、輝光は言葉を一度切った。が、再び、口を開いた。
――神谷瑠夏のように死ぬ――
耳を疑った。何を言っているのだ。意味が分からない。
「ど、どういう意味よ! 回りくどい言い方してないで、さっさと話しなさいよ。私、知ってるんだから、プロジェクトは、瑠夏の死を隠蔽してるってこと!」
それは、あくまで、私達の推測に過ぎない。今にも輝光に掴みかかろうとする剣幕の彼女の手を掴み、私は、「瑠夏の死を隠している心算はないようですね?」と訊ねる。
輝光は静かに顎を引いた。
隠している事は他にあるということか。私は輝光の言った言葉を逆手に取ることにした。
「どうせ、死ぬなら、この村に纏わる話を、全て知りたい……教えてくれませんか」
「つくづく愚か者だ。貴様ら――
――山の大神の逆鱗は鎮まった。いや、それは私達がそう思い込んでいたに過ぎなかったのだ。慰霊碑とゲートを建てた、その翌年の事、また、人が死んだ。 その人物は、プロジェクトに参加した人間だった。ゲートの向こう側で、丁度、三神殿の辺りで、自らの首にナイフを突き刺し、死んでいたよ。あの男は、私に無言で、金庫を開け、鍵を取り出し、宵時に、ゲートの向こう側に侵入し、そこで、自害した。丁度、今の貴様らようにだ。なぜ、彼が突然、死んだのかは知らない。だが、一つだけ分かっていることがある。それは、貴様らのように他所者だった。昭和六十一年当時、プロジェクトに携わる人間の大方はこの村以外の地域から集った面々だった。大神の祟りを畏れた村人たちは進んでこの地に足を踏み入れたがりはしなかったのだから。私は風穴の責任者として、然るべき措置をとると同時に風穴内の全貌を解き明かすことで、村人たちの安全を守ろうとした。そして、恐るべき神などいないことを証明しようと天照プロジェクトを設立した。そして、それは二年に一度、行われている。だが、一体どうしたものか、神は一向に怒りを鎮めようとはしない。毎年のように奇怪な死を遂げるメンバー達。私は怯えた。そして、一時はプロジェクトを解散しようとも考えた。だが、私以外の仲間たちがそれを拒んだのだ。消えた同胞の死に応える為にも、我々は調査を続けていかねばならぬと。そして、等々、プロジェクトに参加している他所者が息絶えた。そこで、神の怒りは終わった。
「人が死ななかったという事ですか?」
「そうだ。私達は歓喜した。ようやく神の復讐が終わったと思った。これで安心して調査を続けられる。そう思ったのだ。しかし、それはあくまでも私達の思い過ごしだった――二年前に行われたプロジェクトに、久し振りに物好きな若者がプロジェクトメンバーに参加した。彼は洞窟好きだと言っていた。生粋のミステリーオタクだともな。私は、最初、彼の入隊を拒んだのだ。だが、彼の余りの熱意に押されて、私は首を縦に振ることにした。もう神の怒りは終わったと思っていたのだから――しかし、彼は、死んだ」
私の額から、冷たい汗が落ちた。血の毛が引いた。
月乃は、表情を強張らせたまま、固まっている。
「向こう側に入る他所者は、死ぬ……」
「山の大神は、人の死を欲しているのだ。要するに生贄というものだ。私欲を満たす為に神木を伐採した愚かな人間達の死を喜んでいる。村人たちが、こうして、日々を平穏に過ごしているのも、毎年、他所者達の命が消えていくからなのかもしれないと、私は考えるようになった。そう、年々プロジェクトメンバーが遂げる謎の死の真相も全てそう考えると、合点がいくのだ。私達は、彼らの死と引き換えに生かされているのだとな」
「そ、そんな……」
「瑠夏の死をもってして、漸く貴方はそれを理解した。だから、プロジェクトメンバーに他所者を迎え入れるのを拒絶したんですね?」
「その通りだ。だから、私は、貴様らの願いを頑なに拒否したのだ。しかし、沙弥は……」
沙弥は、虚空に視線を泳がせている。自分の犯した罪の重さに耐えれなくなってしまったのだろうか。
「知らなかった。私、知らなかった……」
そう幾度となく呟く沙弥。
確かに、私は輝光にこの風穴の興味があり、ここを舞台にした小説を書きたいと言った。精神誠意、熱意を伝えれば、ゲートを開けて貰えると思ったからだ。だが、それは逆効果なのだったとこの時、知った。私の熱意に満ちたあの演技は二年前の瑠夏の映し身だったようだ。
デジャブだとでも思ったのだろうか? 輝光は。
月乃は私の隣で小さく震えている。
死を畏れているようだ。
「大神は、人の魂を欲している。人を死に誘う――」
「生き残る術は無いのですか?」
「生き残る術……それは、私のようになるしかない」
「と、言うと?」
「元は、私も他所者だった。何食わぬ顔で、冬籐家の婿養子としてやってきたのだからな」
「戸籍を移す……」
「死にたくなければ。だが、確かな根拠はない。私とて、このような事例は初めてのことだ」 言って、輝光は沙弥を睨みつける。
沙弥は小さく震えている。
私はというと、震える事すら出来なかった。死への自覚がないからというよりかは、彼の話が余りにも御伽話のように聞こえ、今一、自分の置かれている立場が理解出来なかったからだ。
その点では、怯えることが出来る沙弥と月乃のほうがよほど利巧なのだろう。
しかし、山の大神などという存在が本当にいるのだろうか?
小さな入口から他所者を飲み込み、口内に生えた自然の牙によって、喰い殺す――
あの透けるような美しい湖で、人々の心を虜にする癖に、なんと身勝手なのだろう。それが神と崇められる所以なのかもしれないが――
「期間はいつまでです?」
「そんな事、分かる筈無いだろう。さっきも言ったがこんな事例は初めてだ」
私は震える月乃の肩をポンっと叩く。彼女は双眼を見開き、今にも泣いてしまいそうだった。
「小説家――貴方、怖くないの?」
怖い。怖いさ。
「笑ってるけど」
月乃の指摘で、私はつくづく自分の馬鹿さ加減を知った。笑っているのだ。私は。それが恐怖から来たものかは知らない。そして、いつから、月乃が私の事を「小説家」と呼ぶようになったのかも知らない。
これは、作られた物語。
これはフィクションであり、私達はその作り話の中で動きまわっている架空人物に過ぎ無いのだ。そう考えると、なんだか笑えてくるのだった。――難儀な職業病である。
ここからは本当に未知の世界――生きるか死ぬかの二者択一である。
これはプロセスであり、終りではない。
物語は続いていく――
「出来る事をやろう。僕達はまだ、生きてる――」
月乃は顔を上げる。
「貴方って、馬鹿ね」
そう言って口元に弧を描く月乃。
「ねぇ、最後に教えてくれない? 瑠夏の死体のある場所」
月乃は、訝るような目付で仁王立ちする輝光に問いかけた。
「知らん。が、今回の調査で明らかになるだろう。大かた地底湖の底で見つかるやもしれん」
朝日が昇る。ジグソーパズルのような木々の木漏れ日が、私達の目を細めた。
「死ぬのが怖くないのか?」 輝光が訊ねた。
首を横に振った。
「正直、分りません。馬鹿ですから」
私達は生きてる。あぁ、生きてる。
〔2〕
拝啓
この手紙が、父や母に届く頃、私の身に何が起こっているのか、私ですら、今だに分からずにいます。これから、私にどのような出来事が待ち受けているのか、正直、考えるのも恐ろしい。それでも、私は後に引き返すことなど出来ません。これから、私が話す事を、父や母はきっと馬鹿な妄想話と罵ることになるかもしれませんが、私は全てを語ろうと思います。ここに記す事は全て事実だと受け入れて貰える事を心から願っています。
私が今、居る場所は滋賀県、蒼湖風穴という鍾乳洞です。ここはかつて自殺の名所と謳われた呪われし場所なのです。村人たちは、この地の守り神であった神木を数多く伐採してしまい、山の大神の怒りを買ったのです。山の大神は、まず、多くの他所者の魂を、風穴内に導き、そこで、自害させました。風穴は忽ちの内に何十人もの命を喰らったのです。そこで風穴内を調査しようと、天照プロジェクトという調査隊が結成されました。洞窟調査のプロ達が集った事により、風穴内の構造は解明され、大神からの呪いは解き放たれる筈でした。しかし、大神は怒りを鎮めませんでした。プロジェクトに参加した人間が次々と洞窟内で奇怪な死を遂げていく。呪いは終わらないのです。そんな噂を知らなかった私は、ある一人の女性と出会ってしまったのです。彼女は、洞窟内に消えた恋人を探したいと願っていました。私は、憐れな彼女を救おうと思い、知恵を絞り、風穴の奥へと、踏み入ってしまったのです。ここまで、お話すれば、もうお分りでしょう。私は犯してはならない罪を犯してしまったのです。風穴の責任者の言いつけを破り、無断で、閉鎖空間を探ってしまった。彼女と共に……。私は、死ぬかもしれないのです。山の大神の怒りに触れてしまった為に。俄かに信じられない話でしょうが、事実、この風穴内では、多くの犠牲者の白骨死体がありました。私はそれを目撃しました。私は、もう、貴方方の元へ帰れないのかもしれない。だから、この手紙を書こうと思い立った次第です。
どうか、私を救おうなどと思わないでください。もし貴方方まで、洞窟内に入ってしまえば、その時は、どうなるか。
もう二度と光を見ることはできないのかもしれません。
最後の最後まで諦めないから、どうか、私が、貴方方の元へ帰れるように祈っていて欲しい。
敬具
平成一七年 三月一一日 御影吉秋
◆◆
私は両親の元に一枚の手紙を送ることにした。もう二度と会えないかもしれない、父と母に。月乃に手紙を書いた瑠夏も、このような切なき想いに浸っていたのだろうか。
小屋のデスクの上、便箋に黙々と文字を綴る私の姿を月乃は悄然と見据えていた。深夜二時を過ぎた頃、私は小屋から少し離れた場所にある、寂れたポストの中に、封筒を放り入れた。いつ大神の怒りが、私達の身に襲い掛かるか、推測することも出来ない。ただ、漠然とした恐怖と不安に苛まれる事しか私達には出来ないのだ。沙弥は、昨日から、ずっと、笑顔を見せない。何も知らない観光客の接客をする時も一切笑わないのである。沙弥は、私達をゲートの向こう側に入れた事を酷く後悔しているようだ。
沙弥は、輝光に懇願し、私達に小屋を好きに使っていいという許可を取ってくれた。どうせ死にゆく運命なのだから、気が済むまで、何泊でもするがいいと、輝光も私達を村から追放するような事はしなかった。私と月乃は、その言葉に甘え、夜の小屋を好きに使わせて貰う事にした。いつ、どうやって、私達は、自分自身の命を絶つ事になるのか。はたまた、そんな事が本当に可能なものなのか。私は死ぬ気なんて更々ないというのに。私の意識すらも支配し、自殺に導くということか。私は支離滅裂とした考えを巡らせた。相手は神。勝てる筈など無いと知りながらも、私は足掻こうと思った。
ポストに手紙を入れた、私は、深夜の砂利道をひっそりと歩いていた。
九日後には、風穴内の調査が行われる。
それまで生きることができるのか。
私の足音と、どこからか聴こえる虫の声だけが響いている。すると突然、私以外の足音が、聴こえるのだった。私は立ち止まり、辺りを見回す。右手に視線を投げた時、仄かな丸い光が見えた。その光は、沙弥の家のほうから静かに迫ってくる。砂利を踏みつける音に合わせるように小さな光が、少しずつ、少しずつ、大きくなっていく。
桜色のパジャマを着た沙弥が懐中電灯を手にしながら、私の方へ歩み寄ってくるのだった。
「心配になって、眠れません」
「……寒いから、小屋の中で話そう」
私達は肩を並べ、小屋の方へ歩き始めた。
風呂から上がってまだ間もないのか、沙弥の髪から、シャンプーの香りが漂って来る。柑橘系の優しい匂いだった。
小屋の裏口を開くと、月乃がデスクに顔をうつむせて眠っていた。私は、毛布を彼女に掛けた後、部屋の中央部にあるテーブルの前で腰を下した。沙弥は、私と対面するように向かい側の椅子に座る。沙弥は一向に私と目を合わせようとしない。気まずいのだろうか。
「君は何も悪くない。言っておくが、僕は死ぬ気なんて無いから。君が暗い顔していると、本当に死んでしまうように思うから」
「ごめんなさい。私、こんな事になるなんて思ってもみませんでした」
「謝る必要なんてない。君を巻きこんだのは、僕と月乃だ」
「でも、私が止めていれば、こんなことにはならなかった……」
「本当にそう思うのかい?」
「え」
「君が、僕達を止めたとしても、僕と月乃はきっとまた別の方法で、ゲートを開けようとしたに違いないんだ。月乃は諦めが悪い性格みたいだし、僕だって向こう側に入ってみたいと思っていた。君に貰った写真を見たら、余計にね……。だから、本当に君は何も悪くないんだよ。馬鹿なのは、僕と月乃だった。それだけ」
言って、私は陽気に笑って見せた。
私の笑い声を聞いて、安堵したのか、ようやく沙弥は表情を綻ばせた。
「僕達は死なないよ。神様なんて居ない。それを証明してみせる」
「でも――実際に多くの人の命が消えていきました」
沙弥は、おもむろに立ち上がり、冷蔵庫からペットボトルの緑茶を出し、それをグラスに注ぎ始めた。透明なグラスに褐色の液体がゆらゆら蠢いている。
私はそれを口元に運び、乾いた喉を潤す。
「確かに、人の命は消えた。けど、君は見たのか?」
私は不安げな表情の沙弥に問うた。
「何をですか?」
「人が死ぬ瞬間だよ。実際に山の大神が風穴に現われて、人々の意識を洗脳し、自らの命を絶つように仕向けた瞬間を、その眼で見たのか?」
「そんなの見れるわけないじゃないですか。神様は人間の目には見えないものですから」
「眼には見ることが出来ない得体の知れない者を、どうして君は簡単に信じる?」
「だって、だって、そう考える他ないじゃないですか。村の神木が切られた途端、人が死んでいった。プロジェクトに参加した、瑠夏さんだってそう。普通ならそんなことありえない。偶然とは思えない。何か人知を超えた存在の力と考えるのが普通じゃないですか」
「普通か・・・…」
私は考える。普通とは如何なるものか。大勢の人間が、そう思う。それが、普通という事。それが常識というもの。人間は常識が大好きだ。だからこそ、常識を超えた出来事や、ニュースが報道されると、人々は混乱したり、迷ってしまう。
津波、台風、地震――多くの自然災害を、昔の人は神の怒りと考えていた。しかし自然災害にはトリックが存在するのだ。科学は時と共に進歩している。どんな自然災害だって、科学的理論に基づいて起っているのだけだ。人智を超えた存在などありはしない。
だから、私は今回の事に関しても、何かトリックがあるではないかと思ってはいたのだが、確信は無かった。両親へ手紙も送ったのも万が一に備えてのことだ。
私は思い出す。ゲートの向こう側で見た、鍾乳洞に埋没した骸――確かにあれは、人の死体だった。しかし、分かったのは人間の骨格だったということだけで、自殺者ということまでは明瞭としてはいない。あの時は、洞窟の雰囲気にすっかり飲み込まれてしまっていた私であった。恐怖に心まで支配されていた私は、あの骸を洞窟内で死んだ人間だと思い込んでいただけなのかもしれない。私は、彼らが死ぬ瞬間を見ていないのだから。
「吉秋さん?」
虚空を見据え、思考の世界に入り込んでいる私の肩を沙弥が揺らす。私は我に返ったように沙弥の方へ向けて視線を定めた。
「どうしたんです?」
「いや、ちょっと考え事をしていただけだ。沙弥、これは、あくまでも僕の推測に過ぎないんだが、もし、もしだよ。この村に住む誰かが、山の大神の仕業に見せて、ゲートの向こう側で、人を殺していたとすればどうする?」
「え? どうするって……」
沙弥の瞳が氷結する。
「僕も、最初は、君たちの話を聞いて、驚いた。山の大神の存在にね。けど、あいにく僕は常識とか、普通という言葉を疑う気質のようでね、自分がこんな立場に置かれて初めて、冷静な考えが出来るようになったよ――」
私は小さく笑い声を漏らした。
「――僕が常識人だったら、小説家なんてやってないで、普通に会社員してるさ。普通の人は誰しも安定というものが好きだからね。敢えて競争の激しい業界に飛び込んだりはしない」
「山の大神という、常識が、私達の思考回路を支配しているってことですか」
「僕達には考える力がある。だからこそ、科学は進歩してきた。神など、いない」
「神は――いない……」
「それを前提として考えると不思議とね、頭が廻るのさ。この現象には、人間の手が携わっているような気がする」
「じゃあ、大勢の観光客や、プロジェクトに参加している他府県出身のメンバー。そして瑠夏さんを自殺に見せかけて殺した人間がいるっていうこと……?」
沙弥は戸惑っているらしかった。
彼女にとって、受け入れたくない事実であることは明らか。大量殺人の犯人が、この村の中にいると云う事は、冬籐家の人間も例外ではないのだ。
「疑ってるんですか。私達のこと……」
「そうは言ってない。ただ、一つの可能性として、言っているだけだ」
「ゲートを開ける事が出来るのは、お父さんだけ……。だから、一番怪しい人といえば――」
沙弥は言葉を切った。実の父親が、連続殺人犯などと考えたい愚か者はいない。
「怪しいのは、君のお父さんだけじゃない。プロジェクトに参加した人間、その全てが容疑者と言えるだろう。要するに洞窟内の構造に詳しくて、金庫の番号さえ、知っていれば、いつでも中で、人の命を奪うことが出来る。それこそ、目撃者はどこにもいない……」
そして――犯人が神と見せかけて殺人を犯す。
発見されるのは、二年後。
物的証拠となるような物も、天井から滴る水によって、腐っていく。瑠夏のように地底湖に放り込まれた者もいるかもしれない。まだ発見すらされていない亡骸も山ほどあるだろう。目撃者ゼロ。死体が消える殺人。未だに全貌すら明らかになっていない風穴。もし、未だ、私達の知らない空間が広がっていたとしたら、犯人しか知らないような空洞があるとしたら、そこには未だ発見すらされていない死体が眠っているのかもしれない。例え発見されたところで、長い年月と共に鍾乳石に埋没した彼らの骸は貴重な資料として、その場に放置されてしまう可能性も否めない。あの時、見たように。
ぞっとした。
殺した人間を消す――
正しく神の如き、業ではないか。
だが、今となっては、金庫の番号を知っている私にだって、その殺人事件を起こすことが出来る。今すぐにでも、目の前にいる沙弥を自殺に見せかけて殺し、洞窟内に運び、ゲートの向こう側に破棄すれば、誰もが、山の大神の祟りだと畏れるだろう。偏見こそ、思い込みこそ、最も人の判断を鈍らせるものなのかもしれない。
私は、今の私に出来る自身の考えを沙弥に述べたのだった。
沙弥は子刻みに震え出した。何か恐ろしい物を見てしまったかのように目を見開き、両手の平で顔を覆う。
「信じられない――私達は騙されていたというの……」
「恐らくは……だが、そう推測すると、理に適っているとは思えないか。神の存在を知りながら、神を冒涜した者がどこかにいる――」
「――じゃあ、瑠夏さんも例外じゃないんですよね……」
沙弥は、眠っている月乃の様子を伺いながら、言った。
どういう意味だ。
私は質問返しする。瑠夏は死んだ。地底湖の底で。何を言っているのだ? 沙弥は。
「だって、瑠夏さんの死体、吉秋さん達は見たんですか?」
私は、はっとした。
あれほど、思い込みという所業を罵りながら、私自身が先入観に囚われていたのだ。確かに私と月乃は、瑠夏の死体を発見することが出来なかった。
もし、瑠夏がどこかで生きていたとすれば――
月乃に手紙を送り、自分が死んだと彼女に思いこませたまま、帰らない理由。それは一つだ。瑠夏は今もどこかで生きていて、二年に一度のプロジェクトに参加し、他所者のメンバー達の命を奪い続けている。その罪が公にならない為にも、彼は生きながらにして死ななければならなかった。
瑠夏しかいない。瑠夏なら、誰にも知られずに、山の大神に成れる――
いや、待て。何かが可笑しい。
「見ていない。けど、その可能性は低い。瑠夏が、プロジェクトに参加したのは、平成十五年になってからだ。だとすれば、それ以前の犯行は不可能だ」
「でも、それだって、本当の事かどうか分からない。――平成十五年、瑠夏さんは、月乃さんに一枚の手紙を残し、姿を眩ました。もし彼がその以前からプロジェクトに参加していたとしたら?」
「瑠夏は大学生だぞ。よく考えてみろ、昭和六一年に人々の大量自殺は始まったんだ。当時、瑠夏はまだ、生まれていないか、幼い子供だ。だとすれば、やはり、この村に住む人間による犯行だと考えた方が無難だろう」
沙弥は静かに頷く。
死んだ瑠夏まで、犯人だと錯覚してしまうとは、沙弥は余程混乱しているに違いなかった。
夜は明けかけていた。山肌から、金色の光が洩れ、空が明るさに包まれていく。窓から差し込む陽光が、眠っている月乃の顔を照らし、彼女は、そっと瞼を開けた。
彼女が躰を起こした時、羽織っていた毛布が床にそっと落ちた。寝ぼけ眼の月乃の前に、沙弥は眠気覚ましの珈琲を一杯差し出す。ありがとう。月乃は小さく呟く。
空が、蒼一色に染まりきった頃、私は、月乃と共に、外に出た。
「役所は、この一本道を抜けてから、右手に曲がったところにあります。気を付けて」
沙弥は、私と月乃が車に乗り込む際、そう教えてくれた。
悪あがきかもしれない。それでも試す価値はあるだろうと思い、私達は戸籍を移す事にしたのだった。念には念をだ。
凸凹した道路を走っている途中、月乃は、助手席の窓から、斧川の緩やかな流れを静かに見続けていた。
車の中、車の震動に合わせて揺れる彼女に、私は問いかける。
「訊いてもいいか」
「何よ?」
「神谷瑠夏の事さ」
「もう話したじゃない」
「まだ知らない事がある。君が言っていた手紙の内容や、彼の母親の事だ」
「そんな事、この事件に関係ないでしょ」
「いや、無いとは言い切れない様な気がするんだ」
そう言うと、月乃は、自分が持っていた鞄を唐突に漁り始め、一枚の手紙を取り出したのである。蒼い封筒には可愛らしい四葉のクローバーの絵が描かれていた。
月乃は、細い声で、その手紙を音読し始めたのだった。
その手紙の内容は、私が書いた手紙の内容に少しだけ似ていて、その文を書き綴った瑠夏の気持ちが何となく分かるような気がしたのである。
そして、今まで頭の中に掛かっていた靄の様なものが、どんどん晴れていく様な感覚に見舞われた。
「瑠夏は、片親だったのか。母親のそばに居てやって欲しいって、まるで彼女に身寄りが無い様な言い方だな……」
「そうよ。彼は母子家庭で育った。何故、父親が居ないのかは、私にも話してくれなかったけど。女手一つで自分を育ててくれた、母親をとても大切にしていた」
「そうか。段々、分かってきた気がするよ」
「何を?」
「いや、何でもない」
言葉を濁した私の横顔を、助手席の彼女はじっと見続けている様な気がした。
何故、さっき沙弥があんな事を言い出したのか。
何故、瑠夏が生きているかもという不可解な証言をしたのか。
そう考えると、辻妻が合う。
では、沙弥をこのまま放置しておくのは余りにも危険なのかもしれない。だが、彼女は未だ何もしていない。
――厭な予感がした。
〔3〕 三月一五日
早朝――
皐月は、風穴第一層目の中で、一人立ち尽くしていた。輝光が、体調を崩し、寝込んでしまったので、彼女は、彼の代わりに風穴内に異常はないかと確認しに来たのだった。
天気は雲ひとつない快晴だったので、特に土砂崩れなどの自然災害の虞はないだろう。皐月は二層目に続くハシゴを上った。そして、ゲートの前まで訪れた彼女は、訝しむが如き形相で、その光景に見入っていた。なんということだ。それは明らかな異常事態だった。
鍵が――開いてるのだ。
誰が開けたのだろう。輝光は、昨日から風邪で寝込んでいる筈だ。ならば、彼が先日、閉め忘れたのだろうか。
どうして、今の今まで気付かなかったのだ。このままでは風穴内に客を招く訳にもいかない。皐月は、徐にゲートの中へと足を踏み入れる。
照明が灯っていない為か暗い。皐月は、足元を確かめながら、徐徐に歩を刻んでいく。
その時だった。
背後で、何者かの気配がしたのだ。皐月は確かに聴いた。足元に乱雑に散らばった岩石を踏み荒らす不気味な跫を――
皐月は、ピタッと立ち止まり、振り向く。誰だ? 観光客ではないだろう。受付には沙弥がいる筈。ここに人が入って来れる筈はないのだ。
だとすれば、あの小説家の青年と女の子だろうか。それにしても、彼らはいつまで、ここを取材する心算なのだろう。
跫が大きくなっていく。一歩、また一歩と確実に自分の元に近づく音――
皐月は凝視する。ゲートの向こう側に立つ人影を。暗黒が、彼女の視界を奪ったのだ。第二層側、琥珀色の照明を背に受け、堂々と立ち尽くしているシルエットは、ゆっくりとゲートを開けた。
そして、影は地面にしゃがみ込み、バスケットボールほどの大きさはあろう岩石を持ち上げたのだった。奇怪な行動に走る人影に、皐月の不審感は一層高まった。何をしているの。そのような声を掛ける事は出来ず、ただ呆然と不審者の言動に見入るばかりであった。
瞬間、皐月はけたたましく叫ぶ。
影は、巨大な岩石を持ち上げ、そして――皐月の頭部を目掛けて岩を投げつけたのだ。皐月はその場で倒れ込み、再び地面を埋め尽くす石灰岩の表面に勢いよく頭部を強打し、意識をブラックアウトさせた。
影は、意識不明に陥り、頭から鮮血を流している皐月の姿を、じっと睨んでいた。躰を痙攣させている彼女を影は無情に、蹴りつける。まるで、生きているか、死んでいるのかを確認するかの如き所業であった。痙攣は、少しずつ小さくなっていき、やがて、彼女はピクリとも動かなくなった。
影は、再び身を屈め、岩石を持ち上げる。
無機質に地面に横たわる皐月の頭部目掛けて、影は持ち上げた岩石を放った。鈍い音が鳴ったかと思うと、影の躰に、血の飛沫が跳ねた。影はしばらくその残虐な光景を黙視した。
影は、骸の頭部にビニール袋を被せ、首周りできつく結んだ。割れた頭蓋骨から漏れる脳漿を溢さない様に慎重な手つきだった。
骸を抱え上げた影は、その後、闇に消えた。
また一人――尊き魂が巨大な獣に喰われた。