intoroduction
ある日の夜、サングリア側の国境地帯・ラプラリアのメイロゥは、与えられた一人用のテントをそろりそろりと抜け出した。目指すのはもちろん、アジュのテントだ。アジュのテントはまだランプが灯っているのが外からも透けて見えている。
そろりそろりとメイロゥは、テントの垂れ幕にほんの少しだけ隙間を作り、そこから顔を半分だけ覗かせた。
「……アジュさん」
アジュは藤を編んだベッドの上で半身を起こし、本を読んでいた。きっと『グラナアーデのヘンな法律』とか、箸にも棒にもかからないような、どうでもいい、ちょっと笑える本だろうなとメイロゥは見当をつける。アジュは役に立たない知識を集めるのが好きなのだ。
メイロゥに気づくとアジュはしおりも挟まずに開いていた本を閉じて、にっこりした。
「おや、メイロゥさん。今日も夜這いですか?」
メイロゥはこっくりうなずいた。
「……入ってもいい?」
「もちろん、どうぞ」
メイロゥがアジュの寝込みを襲い、彼のベッドに突撃するのは日常茶飯事と言ってよい。しかし、いつもはノックすらしない彼女が、今夜だけはもじもじと顔だけ覗かせ、伺いを立てているのには理由がある。
招き入れられたメイロゥはベッドに潜り込むと、倒れ込むようにアジュに抱きついた。メイロゥに押し倒される格好でアジュは仰向けに横たわり、彼女の背を撫でる。
「アジュさん、だーいすき」
「私もメイロゥさんが、だーいすきですよ」
「ほんとに?」
「ほんとですよ」
五月の爽やかな風と、かすかにまじる花の香り。それが、メイロゥの知るアジュの香りだ。メイロゥはそれを胸いっぱいに吸い込んだ後、声をひそめて話し出した。
「あのね、アジュさん……」
「はい」
「み、見せたいものが……あるんだ」
「見せたいもの?」
テントに入ってきた時点で、メイロゥは手ぶらだった。わずかに首をかしげるアジュに、メイロゥはさらに声をひそめて言う。
「その……か、かわいい…ブラをね、つけてきたからね……? アジュさんにほめてもらおうと思って…」
「じゃあ、見せてください」
アジュは慈しむようにメイロゥを抱きしめ、背中を撫で続けている。メイロゥの心臓が高鳴った。アジュへの恋心と、そして一抹の不安からである。
アジュからほんの少しだけ離れ、メイロゥは自ら着ていたパジャマの裾をめくって見せた。白い腹とおへそがランプの灯りを反射してこぼれ出す。メイロゥは裾を鎖骨のところまでまくり上げてそこで止めた。
メイロゥが着けていたのは黒い下着だ。細かい花の刺繍とレースの装飾が全面に施されているが、よくよく見ると生地がうっすら透けていて、その下の柔肌が見えそうで見えなくてちょっとだけ見える。今年で二十四歳になる彼女が、今更ちょっと背伸びも無いが、コンセプトとしてはそういう感じの下着だった。
はしたない格好のメイロゥは恥じらって顔を赤らめたが、アジュは優しい微笑みを浮かべたまま感想を述べた。
「すごい。凝ってるんですね」
「………」
「特にここのところの刺繍がかわいいです。レースも品がある」
「………」
「……メイロゥさん?」
メイロゥは表情を曇らせた。ほんとにブラを褒められても、嬉しいけれど困る。でもブラより中身を見てなんて言えないし、複雑である。
メイロゥは、言葉にできないことは体当たりで表現する主義だった。メイロゥはパジャマをめくりあげたままアジュに再度抱きつき、体重をきゅうと恋人に乗せる。そして、勝負下着に包まれた胸をふにふに押しつける。
「メイロゥさん……」
アジュはするりと背中を撫でていた手を移動させ、ブラのホックに指をかける。メイロゥの胸はまた高鳴った。今度は、アジュの恋心と一抹の期待からだ。口から心臓が出そうだった。
ぷつん、とわずかな衝撃とともに、胸のしめつけがゆるむ。体をわずかにこわばらせるメイロゥを、アジュはやんわりとたしなめた。
「あまり乱暴に扱うと、せっかくの下着なのに型くずれしちゃいますよ」
「そっちの心配っ!?」
メイロゥははじかれたようにアジュから体を上げ、勢いよくつっこんだ。アジュはのんびりした口調でメイロゥの腕からパジャマを抜く。
「見えないところにもおしゃれに気を使わなくてはいけないから、女性は大変ですね。こんなに素敵なデザインなら、あえて見せたくなるメイロゥさんの気持ちはとてもよくわかります」
パジャマの次はブラだった。肩紐が落とされて、ブラがするりとメイロゥの腕から抜かれる。メイロゥは慌てて腕で胸を隠すが、それを前にしてアジュは、ためつすがめつブラの方をを見下ろして首を傾げた。
「……これ、どうやって畳むんですか?」
「あ、それほとんど畳めないの。貸して」
メイロゥは裸のまま勝負下着だったものを受け取って、ストラップとホックだけまとめ始める。
「こらこら。そんな格好でいると冷えちゃいますよ。暖かくして……」
アジュは手のひらを当てて、メイロゥの背中や腕や肩を包んで暖める。その仕草は慈しみがこもっていたが、色気らしきものはほぼ無いに等しい。
元通りパジャマを着せ着けられて毛布で肩まで包まれると、乙女なメイロゥはどこかへ行ってしまった。とん、とん、と優しく手首で拍子をとってあやされると、あっと言う間に眠気が襲ってくる。
重たくなる瞼を一生懸命持ちあげながらメイロゥは最後の抵抗としてアジュにぴったりと体をつける。
こんなに誘惑してるのに、なんでえっちな雰囲気にならないのかなあ。
メイロゥは悩んでいた。
* * * * * * *
暗い迷宮をやっとのことで脱出し、ソワレは闇夜にとけこんだ。
グラナアーデとはこれで完全におさらば、ここはラクシア、ソワレの故郷たる世界だ。
二人でラクシアへ行くと約束したはずのラグルとは、はぐれた。
というより、ラグルに先駆けて時空の穴に飛び込んだソワレを、ラグルは追いかけて来なかったのだ。
約束したはずなのに、と思えば少し悔しいが、ソワレに故郷があるように、ラグルにも故郷がある。無理強いはできない。
『時空の穴に一度入れば、決して引き返そうとしてはいけない』という、サングリアの重力魔法使い、プラネタの言いつけをよく守り、結局ソワレは一人で故郷の土を踏んだのである。
まずは仲間たちと合流しなくてはならなかった。ソワレたちのパーティは必要最低限の人数しかいない。
『竜人』の神官戦士、『機械人形』の射手、『水の民』の魔法使い、そして『人間』の斥候兼剣士がソワレ。このうち一人でも欠ければ、戦闘の均衡は大きく崩れ、パーティメンバー全員の命が危険に晒される。
ソワレがグラナアーデに行ってしまっていた後のパーティは、無事迷宮を抜け出すことができただろうか。来た道を引き返すだけなら『機械人形』の彼女が、ソワレの代わりを務めてくれただろうと思うのだが……。
「……ああっ、心配だぞ!! あいつらソワレがいないと何にもできないから…」
頭を抱えて見もだえるソワレの背後に、素早く大きな影が近づいた。オートで行われたソワレの『危険関知判定』は1のゾロ目。つまり世にも恐ろしい『絶対失敗』である。
「……どこのどいつが何にも出来ないんだって? このおてんばかしまし小娘が」
かすれたバリトンの、凄みのある声がするや否や、ソワレの頭のてっぺんにものすごい衝撃が走った。目から火花が出そうだった。拳骨を食らわされたのである。
「いてーー!!!」
悲鳴をあげて頭を押さえ、勢いよく振り返ったソワレを見下ろすのは黒い竜人、あだ名はトカゲ先生ことタイプライトだ。筋骨隆々の肉体を黒と灰色の鱗で覆い、その上には更に頑丈な全身鎧を身につけ、翼と尾を持ち、右手には剣、左手には巨大な盾の姿で、小さなソワレとの身長差はほぼ1メートル近い強面である。
しかしソワレは臆さず、その要塞のような竜人の体にぎゅっと短い腕を回して抱きついた。
「無事だったか、トカゲ!」
「よせ。くっつくな。……それはこっちの台詞だ。お前がいなくなってからどれだけ経っていると思っている?」
ソワレの体をべりっとひっぺがし、タイプライトは牙を剥き出しにして凄む。
「ええと……二週間くらいかー?」
ソワレは首を傾げたが、いぶかしげにしたのはタイプライトも同じだ。
「いいや、二日だ。……まあいい。後衛組が酒場で待っている。あと一日戻らなければ、お前の捜索依頼を他の冒険者パーティに出さねばならんところだった」
「そりゃ悪かったなー」
「………」
反省の色のないソワレに対し、タイプライトの拳が再度振り上げられた。サイコロの転がる音がどこからともなく聞こえ、タイプライトの『命中判定』とソワレの『回避判定』の値が比べ合わされる。
「おりゃっ」
今回はソワレの『回避判定』が勝った。タイプライトの拳は空を切り、ソワレは得意げに胸を張った。
「じじいの攻撃なんか何度も食らわされるソワレじゃないぞー!」
ソワレは回避型前衛で、いわゆる『当たらなければどうということはない』という戦闘スタイルだ。鱗、鎧、盾の防備に加え、神官戦士として自ら回復も行うタイプライトに比べれば、防御力は明らかに見劣りするが、こと器用さ……回避に関しては、パーティ随一である。一度も二度も食らわされるソワレではない。
タイプライトも、ソワレに二度も三度も食らわせられるとは思っていなかった。タイプライトはソワレの台詞を、必要な部分だけ否定する。
「俺はまだ七十だ」
七十と言えば、二百年生きるリルドラケンにとって、ようやく一本立ちの年頃である。彼にとって齢十歳のソワレなど、『タマゴの殻も取れていない』赤ん坊同然である。
「……本当に心配したぞ、ソワレ。新たに『斥候』のパーティメンバーを募集するなど考えたくもない労力の無駄だ」
そっけない言い方でタイプライトはソワレの頭をぐしゃぐしゃ撫でる。それで、彼のねぎらいは終わった。
「……この近辺に『ノスフェラトゥ』が出没するとの情報がある。うかうかしている暇はない。村一つ消滅するかもしれん。おまえがいない二日間に状況はかなり変化している」
ソワレは首を傾げた。
「こんな田舎にノスフェラトゥが出るなんて初耳だな。そいつをソワレたちに倒せって?」
今のソワレたちのレベルでは、正直なところ、荷の勝ちすぎる敵である。今目の前に『ノスフェラトゥ』が現れたら、ソワレは『運命転変』……彼女の奥の手でも何でも使って、マッハで尻尾を巻いて逃げるだろう。タイプライトもそれを認めた。
「生きては帰れん依頼になるかもしれん」
「……………」
ほんの一瞬黙りこくったあと、ソワレはことさらに明るい声を出した。
「……ま、立ち話もなんだし。とりあえず酒場に帰るかー? トカゲー?」
「ああ。そうするとしよう……って、おい。よせ。登るな」
ソワレが至極当然の顔をして、タイプライトの体をよじ登ろうとする。肩車させようと言うのだ。タイプライトは至極当然の迷惑顔で、ソワレを尻尾と羽根で振り落とそうとする。
「トカゲのケチ! いいだろたまには!」
「やかましい、このおてんばかしまし脳たりん小娘が!」
「いいだろー! 減るもんじゃないだろー! ソワレなんか軽いだろー!」
「よせと言っている!」
「トカゲー! トカゲせんせー!!」
『回避判定』『しがみつき判定』『防御判定』『よじのぼり判定』『回避判定』。
サイコロの転がる音がせわしなくする中、ソワレは彼女の体験した冒険の話を、年の離れた友人に語り出す。
ラグルと過ごした一週間、そして花奈たちと過ごしたその次の一週間を。