Single Attack of Y 2"恋せずは人の心もなからまし"
主のいなくなったテントの机は、珍しくきれいに片づけられていた。いつもは髪をとめるゴムみたいなやつやら、ハンドクリーム、日焼け止め、その他ごちゃごちゃしたもので埋め尽くされているのにだ。
机の上にはメモが一枚ぺらっと乗せてあった。まりもっこりのムカつく顔の真ん中に、『冷蔵庫の中をチェック! ☆花奈&幹也☆』とだけ書いてある。
俺は仕方なく冷蔵庫を開けた。真ん中の一番目立つところに、プッチンプリンが置いてある。幹也が日本から持ち込んだものらしい。
そういえばプッチンプリンは三連のはずだが、ここにあるのは一つだけだ。残りの二つは花奈と幹也が既に食ったのだろう。『ボクヲ プッチン シテ タベテネ オイシイヨ』という花奈の字のメモが貼りつけてある。
もちろんプッチンなんかするわけがない。そんなテンションじゃない。俺は上下左右からプッチンプリンを観察して、三枚目のメモを発見した。
メモはプリンの裏底に貼りつけられている。プッチンするための小さなトゲのすぐ脇に、『ハズカシガラズニ プッチン! プッチン スルマデ モンハンノ ハコハ ミチャダメヨ』とあった。
俺は迷わずプリンを元あったところに戻し、ベッドへ行って出しっぱなしになってたPSPソフトの箱を開けた。中にはモンハンじゃなくダンガンロンパのソフトとメモが入っていて『プッチン……(´・ω・`)』という見透かしたコメントの下に、『ナルガクルガを討伐した後、古文の教科書の314ページを開け!!』とある。
めんどくせえ。俺はさらに、次のメモを探した。教科書をパラパラめくると、314ページは巻末付録の百人一首一覧であることがわかる。
今度は、『立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む』という中納言行平の歌の隣に、『待っててね 待っててくれれば すぐ帰る 写真の裏は 要チェックだぞ』と走り書かれていた。
「…………」
だんだん萎えてきながらも、俺はふらふらとT字に並べられた四つのテントのうち、中央のテント……つまり自分のテントへ戻り、その机の上に置いてある写真立てを手に取った。写真立てのそばには見慣れないハローキティの封筒も置いてあったが、まずは写真立ての裏をチェックだ。
木製フレームの写真立てに入っているのは、家族の写真だ。背景はうちの庭で、死んだじいちゃんと、母さんと父さんが後列に、俺と幹也を両脇にとっつかまえて機嫌よさそうにしている花奈が前列に、三人ずつ並んでいる。
この半年の間に細部まで記憶してしまったその写真を、俺は改めてしばらく眺めた後、おもむろに写真立てをひっくり返した。
まず目に付いたのは、貼りつけられていたメモ用紙よりも、そのメモに描かれていた奇怪な何かだった。俺は写真立てからメモ用紙を引きはがし、じっくりとその何かを観察する。
縦方向にぎたぎたに切り裂いて伏せた紙コップに少しだけ似ている何かの下に、むっちりした何かがあって、むっちりした何かから爪を持った腕らしきものが伸ばされている。つまり、なんだかさっぱり分からない。
というか、花奈がいったい何を描きたかったのか、俺だから多少分かるようなものの、よそ様では特徴をとらえることすら困難だろう。
のっぺりした謎の怪物らしきものの下に、コメントとごちゃごちゃした文字が書いてあった。
「『楽しく解読せよ。 ヒントはコレ!』…?」
書いてあったのは、以下この通りだ。
ちょくっとわくへいくくのたくめにさくんくぐりあくまでいくっくてきまくすく。くひとくりくでくくくおるくすばくんくできくるくくよくね?
くあくじくくゅくのくかのくじくょをくだくくっくかくんくして、くげくるだくがくんくくどくとくさんくぐくりあくのくこくうたくくいくごくうくにぎくゃくふくんくとくいくくわせるくよくくてくいでくすく。こくうくごきくたくいく。
くくらくーじくゅもくだけくどみくんなくくがくげくんきくなくいくらしくいくのでくしくんぱくいでくす。おくみまくいくくにくいくってくあくげくてくね。
ぜくっくたいくさくんくにくんくでくかくえくろくくうくね。
くかなく みくきやく
「……まあ『く』がやたらと多いし避けて読むか…」
鉄板だ。『く』をひたすら頭の中で削除しながら、小さく声を出して読み上げる。すると、一行目はこうなった。
「ちょっとわへいのためにさんぐりあまでいってきます。ひとりでおるすばんできるよね? ………?」
意味がまるで分からない。俺はさらに読み進めた。すると、最終的な内容はこうなった。
ちょっとわへいのためにさんぐりあまでいってきます。ひとりでおるすばんできるよね?
あじゅのかのじょをだっかんして、げるだがんどとさんぐりあのおうたいごうにぎゃふんといわせるよていです。こうごきたい。
くらーじゅもだけどみんながげんきないらしいのでしんぱいです。おみまいにいってあげてね。
ぜったいさんにんでかえろうね。 かな みきや
「………バカか!!」
読んでるうちに、描かれていた謎の怪物はもしかして『くとるふ』なのではないかと思うに至り、俺は思わずメモを床に叩きつけていた。
フザけるのにも程度というものがある。なにがくとるふだ。程度の低い暗号なんかつかって、お茶目な感じを演出しやがって。クラージュがらーじゅになってるじゃねえか。ツメが甘い。行き当たりばったりすぎる。
何より、ちょっと和平に、だと? まるで醤油買いに行くみたいに、サングリアまで?
そして……一人で留守番? 幹也と花奈は本当に俺を置いて二人だけで行ったのか?
その事実は、俺の心を多少ではあるが傷つけた。
花奈と幹也にとっては一瞬の出来事だったかもしれないが、俺にとっては花奈と幹也に無事再会するまで、半年間のブランクがある。その間それなりに心細かったし、会えたときにはそれなりにほっとしたのだ。
俺は仕方なく叩き捨てたメモを拾い、机に置いた。そして、置いてあったハローキティの封筒を開けて、中の手紙を読む。
手紙はうちの母さんからのものだった。隅っこの方にぽつんと家の実印が押してあるのは、父さんが押したものだろう。父さんも何か一言書けとか何か言われて、でも書けなくて、苦し紛れに印を押している姿が目に浮かぶ。
プリンは好物だ。贅沢を言うなら、味はパステルのなめらかプリンの方が好きだが、母さんは俺たちに三連プリンを与えたがり、俺たちの方も文句を言わずにむさぼった。いわゆる思い出の味というやつである。
モンハンだって好きだ。幹也がヘビィボウガンか狩猟笛、花奈が片手剣でサブが弓、俺がメインを太刀に時々ハンマー、この組み合わせでよく狩りに出かけた。
一学期の期末テストも近かったはずだ。俺は古文が苦手で、なかなか試験勉強もはかどっていなかった。日本を離れて半年たった今は、もう、助動詞のことなんか忘却の彼方だ。この世界にとどまり続けるならば、もはや必要のない知識。
そして、家族の写真。母さんの手紙。全て、俺の郷愁を誘う罠だ。
「…………」
俺はその場にうずくまり、さざなみを立てる心が静まるのをひたすら待った。
こんなむごい真似をするのが、何故俺の兄妹なんだと、筋違いな恨みの湧きあがるのが収まるまで。
もちろん分かっている。むごい真似をしているのが、俺の方だとは。育ててくれた恩も忘れて、こんな埃っぽい、雷と重力と血で荒れに荒れた土地に住み着いて、何も言わないまま、ここの時間で半年も戻らない俺が悪い。
もしたとえば、紅玉鉱脈に選ばれて池に吸い込まれたのが花奈か幹也だったとしたら、そして花奈か幹也かが、俺と同じように帰りたがらなかったとしたら、俺だってこんな風に相手の弱みにつけ込んででも、家に帰らせようとするだろう。だが。
言われるまでもない。俺だって、帰りたくないわけがない。
だがここでの知り合いを、見捨てることなど出来ない。花奈は誘拐犯呼ばわりだが、今まで何度も亡命を考えた俺が結局実行に移さなかったのは、こいつらが根本的にいいやつらばかりだったためだ。
俺だって帰れないのは辛いのに、兄妹は容赦なく俺の感情に訴えかけてくる。状況が許さないなんて事情は、毛ほども考慮に入れてくれない。しかし感情と現実の板挟み、棒の引き合いになっては、この俺だっていつかは参ってしまうだろう。
いや、既に参りかけている。苦難にある一国の財政を直接に左右するこの紅玉鉱脈という能力を、何故この俺が得たのか……何故俺が、俺の意志に反して、他人の国のために尽くしてやらなくてはならないのか。
…………いや。
俺は拳を作り、目を閉じて一度深呼吸をした。そうして、俺のどす黒い被害者意識を封じ込める。
まずは、理性的になるべきだ。
何故俺だったのか、紅玉鉱脈とはそもそも何なのか、それについて思いを馳せるのは後でも出来る。
今はただ、『紅玉鉱脈に選ばれたのや、一人残されたのが俺でよかった』と思うべきだ。
年齢不相応に幼いところのある花奈や幹也では、たとえナルドが支えてくれたとしても、一人で過ごさなくてはいけなかった半年間に、ぽっきり心が折れていただろう。俺でよかったのだ。
大丈夫だ。俺は孤独に耐えられる。何より俺には、既に半年耐えた実績がある。俺以上に俺を知っている花奈と幹也が、俺が孤独に耐えきれると思ったから、二人とも俺を置いてここを離れたのだ。今更、兄妹の顔を見て、無益な里心をつけている場合ではない。
それよりこれから俺はどうすれば良いか考えるべきだ。どういう意図で花奈と幹也はサングリアまで突っ込んでいったのか、花奈と幹也のサポートをしてやれる方法はないのか……。
立ち尽くしたままじっと考えていた俺の耳にふと、隣の一番奥に位置するテントからか細い声が聞こえてくる。
「………葉介」
俺は慌てて奥のテントへ飛び込んだ。
「ナルド? 目が覚めたのか」
ナルドはこの二日、寝たり起きたりを繰り返して、食事も満足に摂れていない。
「水くらいは飲めるか? なんでも良いから腹に入れとけ」
俺は主計兵長からもらってきた、二つのでっかいピッチャーの蓋を開け、ナルドがそこへ顔を突っ込めるようにした。
片方はハチミツとリンゴとバナナとレモンのどろっとしたミックスジュース、もう一方には普通の湯冷まし(つまり俺でも飲めるただの水)が入っている。
本来翼竜はふつう、清潔な木製の桶に鼻を突っ込んで水を飲むが、そんなことをナルドにさせるわけにはいかない。というか俺が見たくない。
俺はミックスジュースと水のピッチャーをそれぞれ指して、
「どっちが良い?」
と、ナルドの上顎の上まで持ち上げたが、ナルドはゆっくりと首を左右に振る。
「水分だけでも摂っとかないともたないぞ」
また話しかけたが、それでもナルドは答えなかった。俺は多少、意外な気分になる。たかが返事をしなかっただけ、とは思わないでほしい。ナルドが俺の呼びかけに返事をしないことなんて、今まで一度もなかったのだ。
ナルドは前々から、俺にとってはものすごく従順な『従者』だった。それこそ半年前、孤独感と不信感のあまりに粗野な態度をとった俺に対してすら。
「ナルド?」
「何かがあったのですね」
ナルドの大きな背を撫でてやると、ナルドの瞳の色が、光の加減か、わずかに昏くなる。そしてナルドの鉤爪が俺の胸へ伸びていき、肋骨のちょうど真ん中に触れた。
「………葉介の心が、凪いでいくのが分かります。今までにないほど」
「分かるの?」
すっとナルドの目が閉じられる。ナルドの瞼の上には鱗がない。縮緬のような皺の入った、赤く柔らかい表皮が露わになる。
「分かりません。分からないから、分かります。
私は、葉介の従者ですから、今まで葉介が悲しいのも、怒っているのも、嬉しいのも、楽しいのも分かりました。
でも、今は分からない。今のあなたは、悲しんでも怒ってもおらず、嬉しくも楽しくもないから。だから、葉介、あなたがもう決めてしまったのが分かる」
そこでナルドは一度、息を吸いなおした。
「葉介は、この戦争が終わったら地球へ帰ってしまうのですね」
俺は、息を呑んだ。ただの一言もごまかしの嘘を言ってはいけないし、ナルドを傷つけてもいけないのだと直感したからだ。
俺はナルドリンガへ……俺のための従者という名前しか持たない、健気な女の子へ、心をこめてこう言った。
「そうだ。俺は家に帰る」
受け身も無気力も卒業だ。状況に流されてるだけの自分を、善意の人間だと勘違いするのも金輪際、やめだ。本当に善い人間っていうのは、まず何よりも自分を想ってくれる家族を大事にするものだ。自分の尻も拭けないような人間が、誰かを守るなんて思っちゃいけない。
俺はナルドへ向かって深く頭を下げた。
「今まで悪かった。俺、お前に甘えてばかりだった」
「葉介」
俺の言いたいことがほとんど言えていないうちから、ナルドは悲鳴をあげ、俺の言葉を遮る。
「いいえ、葉介。私には葉介以外の主人はこの世にいません。私は紅玉鉱脈の従者です。私は葉介にただ従属するためだけのもの、葉介と共にあることだけが喜びなのです。お願いです葉介、私から葉介を取り上げないで」
ナルドの声が泣いている。涙こそこぼれていないが、長い鼻先をぎゅっと俺に押しつけて、ナルドはすすり泣いた。
このままじゃまずい。俺の言いたいことが伝わらない。
俺はナルドの顔を自分の胸から引き剥がし、大きな顎を両手で支えて正面からナルドの目を見据える。
「前から思ってた。ナルドお前、その従者っていうのほんっとーにやめろ」
「葉介?」
「俺とお前は、その、なんつーのか………」
何と言ったものだろう。ここで口ごもらずにいられれば良かったのだが。あーとかうーとか唸った末、俺はこう言う。
「友達だろ」
「ともだち……」
ナルドはぼんやりとした返事しかしない。
まさかこの年になって、友達のなんたるかについて語り合わなきゃいけなくなるとは思わなかった。こういうのは花奈向きであって、俺向きでは断じてないのにだ。若干気恥ずかしいのをこらえるために、俺は少し大声になって言う。
「友達は例えどこにいようが友達のままだ。世界を隔てて離れようと、あっちからこっちへ移動するだけで半年も時間が過ぎ去ろうと、友達は友達のままだ。なんでお前はそんなにビビってるんだ。
お前女だろ。俺は男だから何とでもなる。そんな風に人間やめてまで俺のためになろうとしなくていい」
こんなに言葉を尽くしても、ナルドはまだ、茫洋としていた。翼竜の目には、白目がない。光を吸い尽くして、今度は変に明るい色をしたナルドの瞳からは、感情はまるで読みとれない。
「男だったら…なんとでも? ………私が、女だから、葉介を守れない。……でも、男だったなら……私が人間の男だったなら」
「ナルド、食いつくところが違う。いいか、俺とお前は……」
「葉介と私は、お友達…」
俺は更に言葉を重ねようとしたが、それはかなわなかった。
俺が手を添えていたナルドの下顎から、真っ赤に輝く鱗が突如ばらばらとこぼれ落ちたからだ。
唖然とする俺の耳元で、さらさらと何かが崩れる音がした。重たく実ってうなだれた稲穂が風に揺れるような音が。そして立て続けに、根雪の上を踏んで歩くような軋みの音、太い枝に強く力をかけて、乱暴に折り取ったような音。
「ナルド!!」
俺はナルドの名を高く叫びその巨体を両腕に捕まえたが、ナルドの変化は止まらない。
ナルドの頭蓋骨と尾が縮み、鉤爪は抜け落ち新たに爪が生え、発達していた筋肉も見る間に痩せ落ち、皮膚を突き破りそうに張り出していた痛々しい太い骨と翼も縮んでいく。頭部の鱗の隙間からナルドの赤いくせっ毛が飛び出し、髪に押し退けられるように鱗が剥がれ落ちた。それと同時に鱗の下から白く丸い頬が現れ、俺にも見慣れたナルドの顔が形成されていく。鱗は、身じろぎするたびぽろぽろとこぼれ、床に真っ赤なガラス片のような鱗の円が出来る。
やがて、ナルドの変身は終わった。ゆったりと白い瞼を上げ、ナルドはこちらを見る。
服は着ていないが、ぎょっとさせられるようなことはなかった。赤い鱗がナルドの顔を除いた全ての部分、薄い身体をきれいに覆い尽くしているからだ。しかし指の関節のところで鱗が剥がれ、その下から陶器のように白い皮膚が現れる。俺は慌てて着ていたTシャツを脱いでナルドの身体にかぶせる。
胸の膨らみが見えてしまいそうだ、と思ったのが杞憂だった。ナルドの胸は、まったく平らで、『ほとんど男と同じように見えた』。平らだからと言って見て良いということにはならないが。
「大丈夫か、ナルド! 痛いところは!?」
ナルドはやはり答えない。しかも、少しも慌てた様子がなかった。裸を見せることにも抵抗がないのかもしれない。ナルドは、軽く眉間に皺を寄せ、不安そうに俺を見上げる。
「葉介。これで私たち、お友達でしょうか?」
『これで』というナルドの言い方が何故か心に引っかかる。俺はナルドの手をとって握りしめた。
「前から友達だったろ」
これでよかったのだろうか。何か俺は、大切なことを見落としているのではないか。何かナルドの事情の中で、俺がすくいあげきれていないものはないだろうか。
「幹也が帰ってきたら、幹也とジュノに相談してやる。俺が家に帰っても、ナルドとしょっちゅう会えるようにしてくれって。お前がこの世界に身よりが無いなら、いっそ一緒に連れて帰ってやる。家は広いからお前一人くらいどうとでもなる」
俺がどんなに言葉を尽くしても、ナルドの表情はあまり変わらない。わずかにナルドは目を伏せて、つぶやいた。
「ありがとう、葉介。私、少しもつらくありません。むしろ暖かいのです、葉介」
俺は失敗してしまった、という、根拠もない直感に怯えていた。
恋せずは人の心もなからまし 物のあはれもこれよりぞ知る(藤原俊成・長秋詠藻)