Single Attack of M "灯台の天使"
幹也の脳みそがいったいどうなっているか、みたいな感じの番外です。
読まなくても完全に支障ありませんし、ちょっとサイコで俺TUEEEですので、いやな予感がしたら逃げてください。
ハンニバル・レクターは創作上の人物だ。精神科医で、悪魔的だが紳士的でもあり、最先端の科学、古今東西の歴史文化にも造詣が深く、動物的とまで言ってよい驚異的嗅覚を持ち、精神的動揺からはかけ離れ、香りや、音楽や、ナイフや、ワインなんかに対する自分の美意識に著しい誇りを持っていて、美食のついでに人を喰う。
レクターは心の中に記憶の宮殿というものを持っていて、そこで自分の記憶を整理する。そして、その宮殿のどこかに妹の記憶を大切に閉じこめている。
たぶんレクターは、その閉じこめた妹の、宮殿中に散らばる残骸、残滓のようなものを無意識になでたりさすったりしているうちに、人を虐げたくなるのだろう。小説でそう書かれていたかどうかは記憶にないけど、そういうことだろうと俺は思っている。
実を言うと、似たようなものを俺も生まれながらに持っている。宮殿ではないけれど。
俺もレクターも、心の中に世界を持ち、その世界を好きなように飛び回ることができる。記憶術としての側面はその際に起こる副産物でしかない。重要なのは、心の中の世界が確固としているならば、その世界に大切なものをそっくり自分の好きなようにしまっておけるという点のみだ。
俺の世界は、家の和室に三つ並んだベビーベッドから始まる。ベビーベッドの脇をすり抜けていくと、トルコ調の白いタイルのアーチがあって、その先は海だ。二歳と七歳の時の海が広がっている。
波の音、汐の匂い、砂の熱さ。十年以上前の体験も感覚として残せるってことは、ちょっとした能力らしい。たとえば花奈は、体験する端から忘れていく。あれはあれですごいと思うくらいの速度でだ。
真っ白な太陽が照らす、世界中の国旗が描き込まれた卵ボーロの砂浜を翔ぶように駆けていくと、いくらもしないうちに灯台にたどり着く。真っ白くて、十メートルくらいの高さがあって、ほっそりとして優美な、自慢の灯台だ。
内壁を伝う螺旋階段が昇っていった先には、角のない丸い部屋が一つある。というか、その白い灯台にはその部屋一つきりしかない。
その部屋には天井の高さまである、壁沿いにめぐらされたどっしりした本棚と、すてきな出窓があって、出窓には昼夜を問わず、羽根のない天使が二人腰掛けている。
もっと具体的に言うと、天使は幼稚園の時の鼓笛隊の格好をした葉介と、七五三の赤い振り袖を着た、花奈の姿をしている。現実の弟妹の成長に合わせて天使も成長するけど、着ている服だけは変わらない。
思考実験のお約束で言えば、天使じゃなく悪魔がセオリーだろうけど、ここは俺の心の世界だ。文句を言うやつなんていない。
「こんばんはなんだね、幹也」
開け放たれた出窓から入るお日様の光と潮風に吹かれながら、振り袖を着てる方の天使が首を傾げた。
「そう、こんばんはなんだ、今日は」
俺はうなずく。
鼓笛隊の天使が出窓から慣れた仕草でぴょんと飛び降りて、出窓に銀色のすばらしいレースのカーテンを引く。すると、みるみるうちにカーテンの向こう側の世界は黄色く照らされ、やがて赤い夕焼けに包まれ、夜の闇が広がっていく。
心の中でなら気候や時間も操れるのだと気づいたのは、中学の頃だ。理論上は当たり前の話かもしれないが、慣れるまではけっこう骨が折れた。しかし苦労しただけあって、なかなかの効果がある。
灯台で夜を呼ぶときは、俺が悩んでいるとき。そういう定義付けをした。その甲斐あって、世界が夜になるのと同時に、俺は気持ちをクリアにして、薄暗い中でじっと考えに耽ることができる。そういう癖がついた。心の中の世界だから、ほんの少しシステムを組んでやるだけで自分のなにもかもをコントロールできるようになる。
あっと言う間に星くずが散らばった夜空を眺めながら、本棚の一番右の一番上の方の本……つまり、俺が重要と認めた記憶の中で最新のものという意味だが、本棚から抜き出して積み上げたそれらの記憶を椅子にして、まず俺達は甘い紅茶を飲んだ。甘いものは脳の働きを活発にする。それは心の世界でも同様だ。
俺が紅茶を飲んでいるあいだに、天使は口々に言った。
「花奈はグラナアーデの連中も助けてやりたいんだな、幹也」
俺はうなずく。
「葉介もそうなのよね、幹也」
またうなずく。
「じゃあ、助けてやったほうが手っとり早いな」
「ちょっとした手間だものね。花奈と葉介をがっかりさせてしまうことに比べたら、ほんとにちょっとした手間だもの」
また、うなずいた。
「でも、そうするとゲルダガンドの連中も助けてやる羽目になる」
「そうね、それはしゃくだわ」
「なによりも、ちょっとヤバいやつがいる。クラージュだ。あいつはだめだ」
「あまり花奈と葉介に近づけてはだめよ、幹也」
まあ、ムカつくことは確かだけど、大丈夫だと思うけどな。
「いいや、危ないね。これを見ろよ」
鼓笛隊の天使は自分が座っていた本の山から一冊辞典を取り出した。中には駐屯地中をめぐって情報収集をしてた時にまとめた記憶が入っている。
呼び起こされたのは、クラージュの様子を見に行ったときの記憶だ。
医務室にいたクラージュは、その人形めいて整った顔を青ざめさせて、震える声を絞り出すようにして俺に聞いていた。
『花奈さんは………』
それきりだった。花奈の名前だけ呼んで、それ以上はなにも、口に出すことはできないとでもいうような態度で、しかし確かに、俺にすがっていた。ほぼ初対面の俺に。
記憶の俺は『別に、元気だよ』と答えている。するとクラージュのまなざしがますます揺らめいた。実際対面していた時にはなかなか観察できなかった表情だ。
「変な目だ」
「うん、変な目ね」
振り袖の天使が相槌を打つ。
「やっぱあいつはもう近寄らないでおこう。君子危うきに近寄らずというし。幹也と葉介と花奈の中で、君子と呼べるのは幹也だけなんだから、気をつけてやる義務が幹也にはある」
「どうせ戦争を終わらせてしまいさえすれば、深くつきあうこともなくなるものね」
結論がでると、もう天使たちはクラージュに固執しなくなった。
立ち上がっててきぱきと本を床中に並べて、時々指さして互いに相談しあったり、俺に話しかけたりした。
「ここにいてもすることはない。さっさととんずらさせてもらおう」
「行く先は?」
「もちろん、サングリア」
「アジュは信用していいんじゃない。だって私たちと敵対する理由がないもの。
でもサングリア側に肩入れするなら、ゲルダガンドにも少し気を使ってやらないとだめだわ。鉱の姫はゲルダガンドがしている犯罪行為の証拠なんだから」
「犯罪になるかは分からない。異世界から人をさらってきてはいけませんなんて法律、この国にはないんだから」
「悪かったわね、言い換えるわよ。ゲルダガンドがしている、倫理にもとる行いの証拠なんだから。
もし鉱の姫の秘密をばらすことになった時も、サングリアは敵国が異世界から人をさらっているっていう罪を暴き、捕らわれている女性を救おうとしただけって大義名分ができてる。それを暴露されて困るのはゲルダガンドだけ」
「財力で大きく勝るとはいえ、これじゃゲルダガンドが危ういな。平和的に和平を取り結ぼうとするなら、ちょっと立場が弱すぎるかも」
「じゃあサングリア側で多少パワーバランスを調整してやる必要がある」
俺たちがゲルダガンドをかばってやらなくちゃいけないの? なんだか癪に障る。
「確かに癪だけど」
「そのへんの調整は花奈に任せよう。幹也じゃ無理だ。花奈はいろんなことを恨みに思ったりしないタイプだから。適当な落としどころを作ってやれば、花奈がそこへゲルダガンドもサングリアもまとめて突き落としてくれるさ。幹也は、花奈の気が逸れないように見張ってればそれでいい」
「和平の話がある程度進んでたってことは、多分ほかの問題は解決済みか、折り合いのつけようがあったってことのはず」
「とにかく花奈には鉱の姫関連のことだけ任せておけばいいね」
アジュの彼女っていったいどこにいるんだろう。目星くらいはつけときたいな。
「一つ、サングリアが方々にスパイを忍び込ませているはずなのに成果が得られないってこと、二つ、わざわざ紅玉鉱脈を誘拐する計画を立てなくちゃならなかったこと、三つ、半殺しにされたアジュが、どうやって誘拐犯たちからとどめをさされる前に逃げ延びたか、を想像して重ね合わせると、その状況が成立する条件がそろってるのはたった一カ所、このへんだけになる」
「つまり、南のリューナが怪しい。ゲルダガンド国内じゃ、荒野シュツルクを除いてはほぼ唯一の無法地帯だ。
ほら、典型的なリアス式海岸だ。身を隠せるような岩場と小島と入り江の宝庫になっていて、多くの海賊がここを根城にしている」
「ここまでは事実ね。ここからが私たちの想像」
「つまりゲルダガンドの目も、隅々までは行き渡っていないってことだ。瀕死になってたアジュが、ゲルダガンドの追っ手を振り切れるのは、リューナぐらいだろ」
「確かリューナは海賊が多いんだったわね。サングリアの私掠船がその中に紛れ込んでいて、アジュがうまくそれに取り入れたとしたら、アジュがサングリアに身を寄せた理由にもなるわ。考えてみたら、この世界になんらのコネクションも持たないアジュが、サングリアの軍隊でスパイをやっていること自体、不自然ともいえるわ」
「まあ、そこらへんはアジュ本人に聞けばいいことだ。ほっとこう」
「まって、まって。アジュとアジュの彼女がリューナで召還されたってことは分かったかもしれないけど、今アジュの彼女がここにいる証拠にはならないわ」
「それはそうだな。どうしよう」
それは、葉介のことがヒントになるんじゃないかな。葉介はこの半年、ずっと荒野シュツルクで暮らしているけど、何か理由があるはずだ。
駐屯地にスパイが忍び込んでいると分かっても、花奈をおとりにしたとはいえ、葉介をテントの中にしまいこんで隠すだけだった。葉介をシュツルクから動かせなかった理由がきっとある。
「理由って?」
わからないけど。
「サングリアまで出かける前に聞いておかなくちゃいけないわね」
重要な手がかりだもんね。
「そういえば、葉介はどうする?」
しょうがない。ここに置いていく。紅玉鉱脈である葉介をサングリアに連れていって、もし和平がご破算になって、その勢いで命がねらわれたりなんかしたら俺と花奈じゃ守りきれない。
「アジュとアジュの彼女は戦士なんだから自分の身くらいは守れるはずだしね」
「自分の身が守れなかったから半死半生の目にあったわけだけどね」
そこらへんは俺たちが気にかけてやることじゃない。アジュがなんとかするでしょ。
「そりゃそうか。ところで、この駐屯地のうまい抜け出し方だけど………」
『幹也? ねえ、幹也』
そのとき突然、ずーっと遠くの方で花奈の声がした。天使たちはすぐに姿を消し、俺の意識も心の深いところからみるみるうちに浮上していく。
「ねえ、幹也ってば」
「うん……」
俺はゆっくりと目を開ける。
目の前には、ベッドに横たわる俺の目の前に膝をつくようにして、三つ子の妹が心配そうに首をかしげていた。
「もうお昼ご飯なんだけど……どうしたの? 寝てた? 怖い顔してたよ」
「うん。ちょっと……夢見てた」
おばかの花奈には説明するのがめんどくさくて、俺は、寝ぼけて悪い夢を見ていたことにする。
花奈はそう、とちょっと心配そうな顔になって、俺の頭を「いいこいいこ」と撫でる。葉介ならいやがって振り払うところだが、あいにく俺はそこまでタマが小さくはない。甘んじてそれを受けた。
「じゃ、お昼食べよう。葉介は食べるかな。あんまり気落ちしてないといいんだけど……」
「そりゃ無理でしょ。今落ち込まないなんて人として以前に男として俺はどうかと」
「人以前に男なんだ……」
「そりゃそうでしょ」
目とこめかみをこすりながら、俺はゆっくりと身を起こす。
俺は目を開けたまま夢ばかり見る、内向的な子供だった。
今でもそうだ。夢ばかり見ている。
いつか……たぶん近い将来、必ず離れることになる俺たち三つ子を、少しでも長くつなぎ止めておく夢を見ている。
あの白いきれいな灯台の出窓に、ほどなくして天使が小さな灯りを灯してくれるだろう。俺はそれを目印に進むべき道を見定められる。
俺は花奈の頭を撫で返した。
「お兄ちゃんに任せときな」
伏線だった部分の解説と、幹也の頭のおかしさの説明でした。