The 4th Attack!! 9
私が誘拐された次の日からの話をしよう。戦争が激化し、私たちが襲われ、ナルドが翼竜に変身し、アジュが裏切り(表返り?)、サングリアの事情とやらを聞かされた次の日の話だ。
駐屯地の中はぐちゃぐちゃだった。まずは私がどうなったかから話そう。
幹也のおかげでアジュたちのところから労せず帰ってこれた私だけど、人魚の呪のせいで足が開かないから、裸足じゃなかったとしても歩けないし、おぶってもらうことすらできない。
幹也は頭脳派だから、私のことをお姫様だっこで運ぶのは無理だ。というわけで、私は幹也に靴を借りて(幹也は靴下があるから大丈夫だって言った)転移門から駐屯地までウサギ跳びで帰った。おかげで筋肉痛だ。
幹也は今は、この世界について情報収集してるそうだ。地図を何種類も何十枚も集めたり、顔見知りになったらしいミュゼを質問責めにしたりしている。
幹也は、私が口も利けない、歩けない状態にされたことをものすごく怒っていた。なんでそういうことになったのかを、口と口がぶつかったことだけを隠して話したら、もっと怒った。クラージュを暗殺する計画を何時間もたてていたけど、たいへん丁寧な計画書を書き終わるとそれで満足したらしく、また情報収集に戻っていった。幹也は実行力に欠けているから、まあ、平気だろう。
…………口と口がぶつかったことがバレたらどうなるか分かんないけど。
気の毒なのはナルドだ。あのグロい変身シーンからして何となく察せられるけど、ナルドの変身は自由自在なものじゃないらしかった。つまり、ナルドはまだ竜の姿をしたまま、人間に戻っていない。
このグラナアーデでも人間が翼竜に変身するってことはまず信じられない事態らしく、ナルドは隠れて休まなくちゃいけなくなった。でも一応、元々謹慎処分ってことになってたから、外へ一歩も姿を見せなくても不自然では、まあ、ない。
肝心なときに寝こけていて、私をまんまと誘拐させてしまった上、ナルドを『あんな風』にしてしまったことで葉介はものすごく落ち込んだらしい。
スペース的な問題で、ナルドが寝ているのは一番真ん中の奥、なんにも置いてないテントのところだけど、葉介もそこに毛布を持ち込んで、夜も朝も竜の姿をしたナルドに付き添っている。付き添っているからって何ができるってわけじゃないけど、ナルドはうれしそうだ。
問題はクラージュだ。いつもならこういうことが起こった場合、すぐさまこっちへ駆けつけてきそうなものなのに、彼はウサギ跳びで帰宅した私の人魚の呪を解いた後、たった一言「本当に、すみませんでした」と謝ったきり、一度も姿を見せなかった。
駐屯地に敵兵が忍び込んでいるわけだから、事後処理とかが大変で、こっちに顔を出してる暇もないんだろうけど、これじゃ幹也の暗殺計画もまるで意味を成さない。
ふとした時に、今はもう自由になった足をばたばたさせると、『咳をしても一人』っていう誰かの俳句が思い出される。別にひとりじゃないけど、心境的にはそんな感じだ。
人魚の呪のことは、そりゃあ最初はムカついたし悲しかったけど、でもそれは、身動きのとれないクラージュが私をどうにかして守ろうとした苦肉の策だったんだから、今ではしょうがないって分かってる。
もう怒ってなんかいないんだから、ちょっとくらい様子を見に来てくれたって罰は当たらないんじゃないかと思う。そのくらい思ったって、わがままにはならないはずだ。
でも、クラージュは来ない。
ベルは謹慎中だ。私たちみたいに身を守るために謹慎の体裁をとってるとかじゃなくて、マジの謹慎だ。
何でも、前回の負け戦が相当腹に据えかねていたらしく、ジュノの護衛の仕事を放り出して、強いやつと戦うために単身前線へ飛び出して行っちゃったらしい。バトルマンガか。
ミュゼも(そうは見えないけど)書類上はベルの直属の部下扱いだったそうで、とばっちりを食って始末書を書かされたとか。
忍び込んできたあのサングリアの敵兵たちは、黒い袋に入れられて、倉庫みたいなところに置いてあるらしい。忍び込んできた人数と、袋の数があってるのかどうかは分からない。体中から湯気を立てていた人はどう考えても助からなかったんだろうし、おしっこを漏らして笑ってた人くらいなら、もしかしたらアジュが私をさらう時、一緒に助けてつれて帰ったかもしれない。
とにかく、侵入者の目的は『不明だが、阻止された』ということになった。
謹慎中のため自分のテントに閉じこもっていた私が、何故誘拐されたかという説明をしようと思うと、当然紅玉鉱脈について説明しなくちゃならなくなるせいだ。……と、ミュゼが言っていた。
しかし、いつもこういう事情を説明してくれていたのは、クラージュだったはずだ。なんでミュゼなのか。
考えなくちゃいけないことも多いけど、ふくらはぎぱんっぱんになっててしばらくは動きたくない私を、ジュノがわざわざ呼び出したのは、誘拐事件があった次の日の朝だった。
幹也に付き添ってもらいながら、唇をとんがらせてやってきた私を、ジュノは、見た目にはいつもと変わらない様子で出迎えた。いや、出迎えてはいない。私たちがテントの幕を跳ね上げたとき、執務室代わりのテントの奥に鎮座した、執務机の向こう側からちらっとこっちをみただけだ。
「花奈、こいつ誰? 花奈と葉介の何?」
その反応が気に入らなかったらしく、私の後ろに立っていた幹也が、聞いた。幹也が白々しい笑顔を浮かべているだろうってことが見なくても想像できる。
「ジュノ。ここで一番偉い人。葉介の上司。私の知り合い」
幹也だって、家の池からこの世界へ落下してきた関係上、ジュノとは初対面じゃないはずだけど、そこのところをつっこむとややこしいことになりそうだったので、私は端的に答えた。
ジュノも小事にはとらわれないと決めたらしく、幹也の暴言も無視した。
「説明を受けよう」
「はあ………」
ジュノのこの言い方だと、私が説明したくて仕方ないみたいな風に聞こえる。偉い人はこういうとこ癇に障る。
しかし黙りこくってても仕方ない。私は話し始めた。もちろん、話していいこと、悪いこと、取捨選択して。
戦いの行く先よりもアジュの彼女よりも、優先されるべきなのは、葉介の身の安全だ。
サングリアが鉱の姫の秘密を知ってるってことはもう隠しておけない。でも、鉱の姫の全員が女の子だと思ってるってことを踏まえ、葉介の正体は隠し、紅玉鉱脈は『ミキ』っていう実在しない女の子だと思ってるはずだってことを私は言った。
……しかし、あの時は殊勲ものだと思ってたけど、今となってみるとやっぱり『ミキ』はまずかったかもしれない。まさか、幹也がこっちに来るとは思ってなかったからだけど、私が説明しながら左手で幹也の手を握ると、幹也は軽く握り返してきてくれる。私はそれに勇気づけられて、話し続けた。
屍兵の軍団『澪標』と正規の軍団『花菱』は別の人が指揮していて、私が浚われたのは『花菱』の方。『花菱』はわりと、愉快な仲間たちって感じだったけど、『澪標』の方はサングリア側としても持て余しているということ。
アジュの正体について。アジュが異世界人だってことはなんとなく察せられていたらしく、ジュノもことさら驚いたような表情は見せなかったけど、『日本語が読めた』ことを伝えると、さすがに考え込むそぶりを見せた。だって、アジュがいるとこっちの暗号か何かがあっけなく解読されちゃう危険性があるってことだものね。
葉介とアジュの彼女との人質交換をもくろんでいたあたりは、悪いけど隠させてもらった。アジュだってクラージュに彼女が鉱の姫だって暴露してたから、ちょっとカンを働かせればすぐバレちゃうかもしれないけど、少なくともこの件に関しては私はアジュの味方だ。葉介がさらわれさえしないなら。
捕まってる間はサングリアのテントからは一歩も出なかったから、私が提供できる情報ってせいぜいこんなところだ。
私がだいたいのところを話し終えた頃、ジュノはちらっと目を私たちの足下に向けた。さりげない仕草だったけど、私たちもジュノの視線を追う。
「……あれ、剣だ」
ジュノと私たちの視線の先には、一本の白々と光る銀の長剣がある。両手で使うものらしく、柄が長い。一点の曇りもない、鏡のような刀身を持つ剣だ。どっちかっていうと、実用品というより、儀礼用という感じだ。
「何これ? 鞘がないね」
だしっぱなんてお行儀が悪い。その剣を手に持って、私は首を傾げる。わー重たい。ジュノは簡潔に答えた。
「クラージュの腹に刺さっていた」
「へー………って、え?」
今、ものすごいことを聞いちゃった気がする。気持ち悪いものをさわってしまった時みたいに、私の手から力が抜けていく。
「え? え? なにそれ、ふつう死ぬんじゃない? ねえ幹也」
落とすと危ない。私はあわてて手の剣を握り直し、幹也を振り返ると、きょとんとした顔の幹也が頷いた。
「あー、そういえばそうだったね」
「ええーー!!!? なにそれ、いつ!?」
「さあ? 俺が花奈を迎えに行くときには、既に刺さってたけど」
「ちょっとーーー!!?」
そういうことは言っといてほしい。私が非難をこめて見やると、幹也は照れ笑いをした。
「ごめん、興味なかったから」
「ああ…幹也ってほんとに天然だよね」
幹也はせっかく頭がいいのに、ちょっとぼんやりしてるところがある。
それはともかく、なにはともあれ、クラージュが刺されたなんて、それは一大事だ。私に会いに来てくれない、なんて言ってる場合じゃない。
「それ、クラージュは大丈夫なの? 無事なの?」
「無事だからお前の人魚の呪を解いたのではないか」
ジュノは心持ちうんざりしたような口調で答える。……そういえば確かにそうだ。
「刺したのはアジュなんだよね……」
私はその抜き身の剣をぎゅっと抱いてため息をついた。ほんとに、嫌になることばっかりだ。
葉介は家に帰ってこられない、ナルドは動けないし、アジュとクラージュ、私の友達が互いに殺し合い、目の前のジュノだってまだ包帯がとれていない。
「ねえジュノ、何かみんなが傷つかないですむ方法はないの? まだ戦いは続くの?」
「……いや、もう終わる。あくまでもこの地での戦いは、だが」
「え!?」
すがるような思いでつぶやいた私の言葉は、一応の形で肯定される。私の望んでいた形でではなかったけれど。
「シュツルクはまもなく水期に入る。我が黒曜軍はこの駐屯地を放棄する」
「放棄っ!?」
声を裏返らせてしまった私に、この世界のことについて勉強済みの幹也が説明してくれた。
このシュツルクの大地の地下には巨大な空洞があって、そこに水がたまり、地底湖を形成している。その地底湖の水が、様々な要因によって温められて膨張した空気に押し上げられ、一気に地上へ噴き出してくる季節があるのだそうだ。
多分に石灰質を含んでいる白い水は、シュツルクの大地を3メートル以上の水深で埋めつくし、水期の間、荒野は汚れた死の湖になる。
駐屯地の巨大な壁と高台の転移門以外、石でできた建造物がなかったのはこのせいだったのだ。
世界ふしぎ発見で特集されそうな土地だなあと思いながらふむふむと聞いていると、そんな暢気にしていていいお話じゃないことが分かってくる。
「荒野シュツルクが湖シュツルクと化している間は、我々はサングリア側の国境地域『ラプラリア』へ戦線を押し戻す任務に当たることになるだろう。この地での戦いは激化する。
リューナでは一人、鉱の姫が脱走したと聞くし、首都の真珠鉱脈も状態が思わしくないそうだ。この上紅玉鉱脈の身に危険が迫ったとなれば、もはや我々のみの手に委ねられる問題ではない」
「………」
うわあ、聞きたくない。嫌な話されるに決まってる。
でも、遮れるわけがない。私は右手でアジュの剣を握りしめ、左手で幹也の手をぎゅっとつかみながら、死刑宣告を受けた。
「お前たちは日本へ帰れ。葉介の身柄はこの俺が責任持って信頼出来る場所に預けようが、もはやお前たちまでは身柄の安全を保障しきれない」
左手に幹也、右手にアジュの剣を握って、私はふらふらとジュノのテントを出た。
帰れって言われちゃった。うかつだった。こっちに来たばっかりのころはちゃんと警戒してたのに、つい油断した。私はこの黒曜軍にとって単なるよそものだったのだ。クラージュの制止も振り切って好き勝手に動いた私が、追い出されないわけがない。
「花奈、大丈夫?」
私と手をつないだままの幹也が気遣わしげにうつむく私の顔をのぞき込むけど、私はかろうじてうん、と頷くのが精一杯だった。ショックが大きすぎたのだ。
私、何の役にも立てなかった。
ナルドは人間やめちゃうし、ジュノもクラージュも怪我をしていて、アジュは裏切り、アジュの彼女は捕まっている。多分他の鉱の姫たちだってそうだろう。サビアンたちだって、自分たちとは全く別の権力者に好き勝手にやられて、これからいったいどうなるんだか分からない。戦争は終わらないし、葉介も家に帰れないまま、私と幹也は二人だけで日本に帰らなくちゃいけない。
このまま物語はバッドエンドなの? もう出来ることなんかないの?
一瞬頭をよぎった怖い予感に、しかし私は首を勢いよく振った。
いや、そんなのだめだ。絶対にだめだ。このまま葉介や、この世界で出来た友達たちを見捨てなくちゃいけなくなるなんて。なんとかしなくっちゃいけない。でもどうすればなんとかできる?
「何とかしなくっちゃいけないねえ」
テントに戻ってからもじっと考え込んだままの私に、私のベッドに並んで座った幹也ののんびりした声が呼びかける。
「そうなの。何とかしなくっちゃいけないの。でもどうやってすればいいか…」
何となく握ったままにしていた幹也の右手を両手でもてあそびながら、私はぶつぶつつぶやく。私の手をぎゅっぎゅっとリズムをつけて握り返して、幹也はますますのんびり言った。
「まずは問題点を洗い出してみようか」
「問題点? そんなの問題ばっかりだよ!! 葉介は帰れないし、ナルドは人間に戻れないままだし、クラージュはひきこもり、ジュノもおなかに穴があいてて、ミュゼは頼りになんなくてベルはサイヤ人化、サングリアの人たちだってもう戦いたくないって行ってるのに、なぜか戦争は終わんない!
アジュの彼女だけじゃなくてさらわれて捕まってる人はいっぱいいるみたいなのに、私たちは葉介すら助けられないまま帰んなくちゃいけないんだよ!!」
聞き終わると幹也はうんうんとうなずいた。
「なるほど。葉介は帰れない、戦争は終わらない、俺たちは帰らなくちゃいけない。この三つが問題なんだね」
「ええっ!? なんで!!」
挙げた問題点のほとんどをばっさり切り捨てられて、私は目を白黒させた。幹也は無邪気に首を傾げる。
「だってそうでしょ? ナルドのことも、ジュノもクラージュもミュゼもベルもアジュってやつも、それぞれ大変かもしれないけど、ぜーんぶ自己責任か、他人事じゃん。花奈が気にかけてやる必要ないよ」
「いや、だって……少なくともナルドは葉介のために人間やめたわけだし…」
それに、ナルドは仮に人間に戻れたとしても、男の娘化しているっていう問題は棚上げされたままだ。私に何か頼みごとがある風なことも言ってたし。
「その分葉介が面倒見てるし、ナルドだって恩着せがましいことは言ってないんでしょ。いいんだよ」
いいのかな……。釈然としないまま、私は幹也の言葉の続きを聞く。
「俺たちが解決すべき問題は三点に絞られた。このうち、戦争さえなんとかしてしまえば他の二つの問題点も解決しそうだ」
「ええっ!!? なんでなんで!?」
そんな簡単に話が進んでいいの? 私の声は裏返る。
「葉介は『戦争が終わらないと帰れない』。俺たちは『戦争が終わらないから帰らされる』。じゃあ、戦争終わらせちゃえばいいじゃん」
「そうかもしんないけど……でも、戦争をどうにかすればって、それが一番難しいんじゃ…」
爪をかみだす私に、幹也は突然とろっとした声でこう言った。
「ところでその前にさ、幹也大好きってゆって」
「え? 幹也大好き」
まあ確かに大好きだけど、こんな言わされてる感ありありの大好きで幹也は満足なんだろうか………
「戦争を終わらせよう。目的と手段を入れ替えよう。アジュの彼女を奪還するのに一口乗らせてもらう。その彼女を人質にして、ゲルダガンドに和平の締結を約束させるんだ」
満足だったらしい。幹也は自信満々の笑みを顔に浮かべ、こう宣言した。
「ちょっと…ちょっと待ってよ!! アジュは、アジュの彼女が見つからないから紅玉鉱脈をねらってきたんだよ? アジュの彼女を利用して葉介を助けるなんて、まず前提から成立しないじゃん」
幹也は唖然とする私の手をぎゅーっと握り返しつつ、幹也はにこにこした。
「それが成立してるんだな。いい? 順序よく考えてみなよ。花奈が紅玉鉱脈じゃないって分かった後さ、アジュが帰してやろうって言ってくれたんでしょ?」
「ああ……言ってた言ってた」
あれは、聞いてるこっちが心配になるような無造作っぷりだった。
「どうして簡単に帰してやろうなんて言って、引き下がったのかを考えてみようよ」
「え? それはアジュとサングリアの人らがたまたまいい人たちだったから……」
「あはは、花奈のおバカ。いつまでも頭空っぽのままにしとくとハムスターかなんかがティッシュ詰めて住み着くかもよ」
「えっ!?」
幹也はたまに、なに言ってるか分からなくなるときがある。今一瞬ひどいこと言ってたような気がするけど……多分気のせいだな。
幹也は何事もなかったかのように解説した。
「アジュは多分、目的を果たしてたんじゃないかな。わざわざ敵国の軍隊にまで潜り込んで手に入れたかった何かを、既に手に入れていた」
何かって………何だ? 私はきょとんと首を傾げた。幹也はあきれた声を出すけど、顔は笑いっぱなしだ。
「ちょっとは考えなよ。アジュがほしいものなんて一つに決まってるでしょ。サングリアでは論外で、ゲルダガンドの軍隊に潜入しなきゃ手に入らない、アジュには絶対必要なもの」
「うん……?」
いや、わかんない。私が照れ笑いを浮かべると、幹也はふう、とうれしそうにため息をつく。幹也はなんだかんだ言って、私がバカな方がうれしいのだ。
「地図だよ。それも、この上なく正確なのがね」
「地図? なんでそんなもの。どこにでもあるじゃん……」
「敵国に流れるような地図が、ちゃんとしてるわけないでしょ」
私の疑問はすっぱり切り捨てられた。幹也は私の手を離さないまま、よっこいしょと体を伸ばして、手の届くところにあった手帳を一冊手に取る。私は幹也からそれを受け取って、中をぱらぱらめくった。
中身は地図だった。分厚く、ちょっとしっとりとして吸いつくような感触の不思議な紙に、黒と青緑色の二色刷りで精緻な地図が記されている。
「さすがの花奈も、伊能忠敬くらいは覚えてるでしょ」
「失礼な。ギャグマンガ日和で読んだよ」
「わあよかった。花奈の頭にもセンマイ程度の価値のものは詰まってたんだね」
「えっ」
今度こそひどいことを言われた気がする……。
「いい? 伊能忠敬が初めて日本全国の正確な地図を作ったのが十九世紀初頭。ほんの二百年前だ。それも、作成には十年以上の時間がかかってる。最近の話を例にするなら、旧ソ連には普通の地図には絶対載せない秘密の都市が1994年まで存在したんだって。人工衛星がびゅんびゅん宇宙空間を飛び交ってるこの時代にだよ。地図って、花奈が思うより重要で、作成も難しいんだ」
幹也は丁寧に説明してくれた。よかった、ひどいことを言われたような気がしたけどそうじゃなかったみたいだ。
「アジュにも、彼女がどこに捕まっているか、おおかたの目星くらいはついているはずだ。だってアジュとアジュの彼女、それぞれ召喚されたのは同じタイミングなんだものね。
でも、じゃあそこへ改めて行こうとしたとき、十あるうちのどの山なのか、百あるうちのどの入り江なのか、千あるうちのどの家なのか、それをアジュ一人の記憶だけで特定するのは多分、難しい。やっぱり、できる限り正確な地図を手に入れて、絞り込まないと」
「なるほど……それで、わざわざ敵地潜入してまで…」
私はやっと納得いって、深々とうなずいた。
そりゃもちろん、紅玉鉱脈のことも何とか手に入れられればうれしいなって思ってただろうけど、紅玉鉱脈はあくまでオマケ。本当の目的は、地図だった。
それは、紅玉鉱脈との人質交換のためだけに何ヶ月もこの駐屯地に潜伏したというよりも、よっぽど納得できる理由に思えた。わざわざ、あんな目立つ髪の毛をターバンで隠してまで、アジュが単身乗り込まなくちゃいけなかった理由もこれで説明が付く。アジュは、ありとあらゆる文字が読める。もし地図が暗号化されていたとしても、アジュなら苦もなく読みとけるはずだ。
「これで地図が手に入ったんだから、アジュも動き出すはずだ。アジュの彼女を取り戻すためにね。そこに俺達も便乗する。それも、手みやげを持って」
「手みやげ?」
「さっきジュノが言ってたやつ。リューナから一人、鉱の姫が逃げ出したっていう情報だよ」
「あ! それってもしかしてアジュの彼女!!?」
「…と、言えるかどうかは分かんないけど」
私の早とちりをやんわり否定して、しかし幹也はなおも続ける。
「少なくともアジュは飛びつくだろうな。それに、逃げ出したのがアジュの彼女じゃなかった場合もやることは一緒だ。脱走した鉱の姫をゲルダガンドよりも先に捕獲して、人質にとって、和平締結のカードにしてやれ。コトがすんだら、サングリアに、アジュと彼女を送り帰すののついでに、その脱走した鉱の姫もその子の故郷に帰してもらっちゃう」
「……………………」
話がとんとん拍子に進みすぎて、なんだかついていけなくなってきた……。
「……幹也ってお兄ちゃんなんだね…」
なんとか無言になるのだけこらえて、しかし何言ってるのか分かんない私に、ふふん、と幹也は得意そうな顔で一言言った。
「当然」