The 1st Attack!! 1
弟が、異世界に呑まれた。
その時私は兄、弟と協力して三人、庭の掃除をしている所だった。昔から、ごきぶり退治でもおねしょを報告するのでも、気乗りしない事は三人揃って頑張る、がルールだったからだ。何故そんなルールかというと、私達が三つ子だからだ。名前も私が長女で花奈、長男が幹也、そして次男が葉介という風に、三人仲良くコーディネートされている。
長男幹也は、三十分違いの私の兄だ。おっとりしていて、少し線が細い。柔らかくて細い髪が将来のハゲを心配させるけど、色白で、わりと美少年っぽい。トーマの心臓の主人公に、ちょっと顔が似てるかなと思う。大抵いつも本を読んでいて、ものすごく勉強が得意だ。世が世なら世界を掌握していたに違いない。多分今の世でも、ノーベル賞を三つ四つは取るだろう。と、私が言うと幹也は笑う。私のテスト対策は幹也がしている。
次男の葉介は、十五分違いの私の弟だ。すぐ『だるい』とか言って昼寝ばかりしている。なのに何故か中の上の成績をキープしているし、小さい頃からやってる剣道でも、大会ではなかなか良いところまで行く。多分悪知恵が働くのだろう。顔も、少女漫画のヒーロー役と言ったら分かりやすいと思う。よく分からない。整ってるけど、あんまり特徴がない。特徴が無い割にはオーラがある、と私が言うと、葉介はちょっと嬉しそうにする。可愛い奴だ。私の補習対策は葉介がしている。
長女の私はと言えば、とにかくひたすら愛嬌があるのが取り柄だ。つまりそういう事だ。二人の兄弟に手伝ってもらっても、何故か成績は伸び悩んでいるし、昔から取り組んでいる合気道には試合が無いので実績もつかない。兄弟は『花奈はすぐ拗ねて諦めるからだ』なんて言うけど、とにかく察して欲しい。これが、私達三兄弟。
実は幹也が一番上なのは間違いないとしても、二番目が誰かという事は、物心ついた頃からの議論の種になっている。
うちの母さんが自宅分娩に挑んだ際、その時頼んだ助産婦さんがちょっと耄碌していて、最初に産まれたのが男の子…幹也だった事は確かめたのだけど、二番目が女の子だったかそれとも男の子だったか…つまり私だったか葉介だったか、確認するのを忘れたのだ。ちなみに私は絶対に私の方が葉介よりも上だと思っているし、お姉さんぶりもする。
今年十七になったけれど、私達は産まれる前から一緒だったし、これからもそうだろうと思う。何しろ、私達は三つ子なのだ。
私は葉介は、庭を掃いていた。いや、一応掃くのだけは掃き終わっていた。テニスコート一枚分は軽くある庭だから、落ち葉の量もそりゃあ相当の物だ。正直45リットルの可燃ゴミの袋を三つ作ったし、もうこのへんでいいだろうって私達三人とも思ってるけど、実はうちの庭には池もある。錦鯉は泳いでないから大した池じゃないけど、これが綺麗にならないと庭の掃除は終わらない。
というわけで、池の底をさらうのも三人でする事になった。志願者がいなかったからだ。そりゃ当然だけど。幹也は今頃玄関の辺りと表を掃いているはずで、私達は幹也がこっちに戻ってくるのを、ぼーっと待った。私達は池の掃除という本番を前にして既にくたくただった。
「―――なぁ花奈。もう俺と花奈でやっちまわない? 俺、もう幹也を待ってるのもだるい」
私は小さなモンシロチョウを担ぐアリの行列を観察するのに忙しかったから立ち上がらなかったけど、葉介はもう竹箒をぽいと投げ捨てて、着ていたジャージの裾をぐいぐいまくっているところだった。
「花奈、ザルとアミ」
葉介は掃除を始める為に池の水源である地下水の蛇口をぎゅっと締めに行った。私は言われたとおり、ザルとアミを取りに行く。こうして、私と葉介が一度離れたのがよくなかった。――葉介を、助けに行けなかった。
私がのんびり物置を探っているちょうどその時、ざばーんという巨大な水音と葉介の悲鳴が聞こえた。なのに私はその時ただ、(あ、葉介の奴池に落ちたな)としか思っていなかった。かわいそうな葉介。私がザルとアミとタオルを持って池へ戻ると、私なんかが想像もしていなかったような事態が葉介を襲っていたのだ。
つまり、黒いうねりだった。池の水面が盛り上がって、ぬらぬらと黒光りしながら触手らしき物を伸ばしている。まるで塩をぶっかけられたミミズのような、もののけ姫のタタリガミのような、とにかくそういう感じのぬめっとした物が、葉介に襲いかかっていたのだ。もう水の出ていない蛇口を握りしめたまま、葉介はしばらくふんばっていたけど、サンがタタリガミになったおっことぬし様に飲み込まれていくように黒いうねりに吸い込まれ、葉介の姿は見えなくなった。
「逃げろ花奈!」
それが葉介の最後の言葉だった。駆け寄る間も無く黒いうねりは葉介ごと、池の底へ消えた。池には静寂が戻り、葉介は浮かんでこない。池の深さは30センチ程度だっていうのにだ!! 私はもう一人の頼れる兄弟に助けを求めるべく絶叫した。
「みっ、幹也ぁーーーーー!!! 葉介が池に落ちたぁーーーー!!!!」
「拾ってやりなー」
「幹也ぁーーー!!! ミミズがぁーーーー!!!!」
「俺ちょっとお隣行ってミカン貰ってくるねー」
「幹也ぁああああーーーー!!!!!」
事態がよく分かってない幹也の呑気な声が遠のいていく。
とにかく幹也の言うとおり、葉介を拾ってやらなくっちゃならない。私はザルを放り出し、アミで池を探った。
「葉介ぇーーー!! 葉介ぇええええー!!!」
やっぱり、膝も浸からない程度の深さしかないはずの池は底なしになっていた。どんなに深くアミを差しても池の底には辿り着かないし、嫌がる葉介を引きずり込んだはずなのに、何故か私には黒いうねりは襲いかかってこない。
「!!」
だけど、必死になれば良い事があるものだ。ほとんど半狂乱になりながら思いっきりアミでかき回していると、突然手応えのようなものにぶち当たった。何度かごんごん突いたけど、池の底という感じではない。何か、人と同じくらいの固まりだ。
もしかしたら気を失っている葉介かもしれない。でなければあのミミズかもしれない。とにかく私は思いっきりアミでその固まりのような物を突っつき回した。途中で、何かに、がづんっ、と引っかかった後、アミに何かが掴まったような手応えに変わる。私は思いっきり踏ん張って、アミを引いた。
ぜえぜえ言いながらアミを引っ張っていると突然手応えがなくなって、私は後ろにつんのめる。アミの先に葉介はいない。途中で力尽きて手を離してしまったのだろうか。うちの大事な葉介の代わりに、何か小さな物が引っかかっている。私はそれを確認した。
軍隊の記章のようだ。それも、めっきでない本物の金で出来ている記章。親指ほどのサイズなのにずっしりくるその記章は、ごく小さな宝石が幾つも幾つも埋め込まれていた。サファイア、ルビー、エメラルド、トパーズ、ダイヤモンド。そして真珠、アクアマリン、オパール。私が名前を知ってるのはこのくらいだけど、多分他のも全部本物だ。絢爛豪華なのに悪趣味と感じないのは、記章そのもののデザインがネクタイピンみたいにシンプルなのと、宝石がごくごく小さい、1ミリくらいの物だからだろうか。でも勿論うちの池にこんなものが落ちているはずがない。それに、何でこの記章は濡れていないんだろう?
ひとまず記章を脇に置き、私はもう一回池をかき回した。すると、わりと浅いところで……多分1メートルくらいのところで、今度は、石っぽい感触の壁に当たった。もちろん、池の壁面ではないだろう。それを何度か突っついていると、アミがくいくいと引っ張られる。私は今度こそ葉介が手を離さないようにじっくりゆっくり力を込めてアミを戻したけど、やっぱり葉介はくっついていない。代わりに、手紙のような物がかかっていた。私は迷わず広げた。
「…………」
よく読めない字だ。変体仮名の文書ならもしかしたら沈んでる可能性がなくはないけど、明らかに日本語でもアルファベットでもアラビア文字でもギリシャ文字でもハングルでもない。紙も、紙すら普通じゃない。普通のA4用紙のような真っ白い紙ではない。うっすら黄みがかって、手触りはわら半紙に近かったけど、多分それよりもっと上等の紙だ。何より普通じゃないのは、池から引きずり出したのにやっぱりこの紙も、全然濡れていない事だ。
私はとうとう確信した。
「異世界だ……!」
うちの葉介は、異世界に呑まれたのだ。そうとしか考えられない。うちの池は異世界に繋がっていた。アンビリーバボー。つまり、弟が水死しているという最悪の可能性は消えたわけだけど、私はしばらくへたり込んでいた。ほっとするやら、混乱するやら、どうしたらいいか分からなくなってしまったのだ。弟が溺死してなくて本当に良かった。でも、弟が目の前で異世界に行っちゃった場合、姉は一体どうしたらいいんだろう。でも、いつまでもぼーっとしてるわけにはいかない。弟のピンチなのだ。
私はとにかく異世界で必要そうな物をこっちから仕送りしてやる事にした。私のモットーは備えあれば憂いなし、だ。今そう決めた。
まずは食べ物だ。芋虫ばっかり食わされる世界だったら、葉介はやせ細って死んでしまう。私は縁側から家の中へ飛び込んで、まず目についたポテトチップスの袋を池へ投げ込んだ。浮力が強すぎるかなと思ったけど、ポテチの袋はちゃんとずぶずぶと池へ飲み込まれて見えなくなった。私はもう一回台所へ行って、飴玉の袋やらバームクーヘンやら柿の種やらカップラーメンやら、とにかく手当たり次第にがんがん池へ投げ込んだ。ついでに賞味期限が切れそうになってた卵のパックと牛乳も、ペットボトルのなっちゃんも池に投げ込んだ。野菜も摂らなくちゃいけないから、増えるワカメと、庭の家庭菜園ゾーンからナスとトマトとカボチャをたくさんもいで、それもぶっ込んだ。水しぶきが私にかかる。
物置で目に付いた、おじいちゃんの遺品である釣り竿もぶち込んだ。これで何か釣ってくれれば、差し当たって飢える事はないだろう。釣り道具のボックスも、全部放り込む。おじいちゃんごめん。葉介の為なの。ついでにサランラップとアルミホイルも、アジシオコショーとうすくち醤油も入れてやった。持っておけば何かに役立つだろう。主に料理に。葉介一人でもちゃんと自炊してくれる事を祈る。
それから武器だ。まずは葉介の木刀と竹刀を投げ込む。防具も抜かりなくぶっ込む。防具は抱えるとちょっと…いやかなり臭かった。クワと、高枝ばさみも入れる。とりあえずはこれで凌いで欲しい。
後は、後は……。私は救急箱を抱えてきて、池に入れた。ついでに家庭の医学も。乾燥するといけないから、リップクリームも投げてあげた。化粧水と乳液と日焼け止めも、多分葉介は使わないだろうな、と思いながら私のを入れてやる。
そこでやっと思い出して、ブラシと洗顔フォームと歯ブラシとクリアクリーン(アップルミント)も入れた。パンツとかの下着類と、あったかい冬物の服と、涼しい夏物の服と、ついでにスニーカーをジップロックの袋にパックして、これもガンガン投げ込んでやる。あ、洗剤もいる。お歳暮でもらったアタックの詰め合わせも投げた。葉介一人でもちゃんと洗濯してくれると良いんだけど。夜冷えるかもしれないから、毛布も三枚入れてやる。
他に何か必要なものあるかな、と私は必死で頭を巡らせた。とにかく手当たり次第に入れてやらなくっちゃならない。
私はもう一回物置に戻って、今度は父さんが単身赴任中に使ってた、小さい冷蔵庫を引きずって来た。投げた食べ物の保存に困ってるかもしれないからだ。でも冷蔵庫を池へ蹴り込んだ後で気付いたけど、異世界で電気が使えるかどうか実に怪しい。私は考えた末、延長コードとキャンプで使う発電機も投げ込んだ。これで何とか色々頑張って欲しい。色々。
お風呂に入れない日が続くかもしれないし、香水と制汗スプレーとすっきりパウダーシートも投げてやる。移動手段に困ってるとしんどいだろうから、三人お揃いのマウンテンバイクと、葉介がバイトして買ってた原付も引っ張ってって突き落とす。ヘルメットも忘れずに。
暇だとかわいそうだから、DSとiPodとその充電器もジップロックに入れて投げた。ちょっと考えて、私は葉介の携帯もジップロックに入れて池に投げ込む。それで、私の携帯から葉介へかけてみる。圏外だった。やっぱり異世界には電波塔が建ってないらしい。更に更に、もしかして葉介が異世界に行って、モテモテになる可能性も否定出来ない。親の寝室へ行って、コンドームを出してきてこれも投げた。父さん母さんごめん。コンドームの隠し場所娘が知っててごめん。
とにかく何でも入れた。テントセットとか、ビニールシートとか、腕時計とか、ピンセットとか、工具箱とか、ラジオとか、化粧品とか、ハンカチとティッシュとか、トイレットペーパーとか、手鏡とか、宴会用のマイクとか、メガネ拭きとか、コンタクトレンズの洗浄液とか、ライターとか、扇風機とか、風呂敷とか、中華鍋とか、包丁とか、まな板とか、味の素とか、カセットコンロとか、日よけのよしずとか、ペンケースとか、リヤカーとか、ヨガマットとか、温度計とか、ハンターハンターの最新刊とか、思いつく限り全部入れた。
最後に家族写真を写真立てごと池へ投げてやって、私はぜえぜえと上がった息を整えた。それから、頬の涙をぐいっと拭いた。手が泥だらけだったから顔にも多分、ついただろう。
「葉介ー、葉介ぇー…」
幹也はまだ帰ってこない。隣のおばさんは話が長いからだ。私は池の側で腹ばいになって、右腕を思いっきり池へ突っ込んだ。水のような感触はするけど、濡れてない。私は思いっきり腕を動かして、何かに触らないか探した。
しばらく何にも触らなかった。でもいつまでも辛抱強く腕を回していると、ふと私の手の平が、誰かに握られる。私は思わず叫んだ。
「葉介!!」
剣だこのついた、男性の手だ。私はその手を固く握り返し、今度こそ力の限りその手を引っ張った。だけど、葉介の手が私に答えてくれる事はなかった。ただ、もう片方の手で私の手の甲を優しく撫でただけだった。そして、私の掴む指を優しく剥がしていく。
「葉介! 葉介っ!!」
とうとう全部剥がされて、私の指はまた、何にも触らなくなってしまった。どんなに手をさまよわせても、何かに触れる事はない。
さっきまで葉介と握り合っていた右手を、私は見た。まだほんの少しぬくもりが残っている。たった今まで、弟と手と手がつながっていたはずなのに。
「………………」
私は起き上がって、木の枝を握った。たった一度振り払われたくらいで、こんな所でめげているわけにはいかない。拾った記章と手紙を引っつかみ、帰ってこない幹也へ木の枝で地面に伝言を残す。
『ちょっと葉介拾ってくる』
私は助走をつけて、池の中央へ飛び込んだ。何のためらいもなかった。弟がピンチなのにただぼーっとしているような奴は、姉ではない!
落ちている感覚は、ほんの一秒ほどもなかった。真っ暗な空間を抜け、足下から光が差す。
運動神経は悪くない方なので、大きな音を立てながらも着地もばっちり決め、私は辺りをぐるっと見回した。粗末な木の大きなテーブルがあって、そこへ私は着地したらしい。
その私が立っているテーブルを四、五人の男達が取り囲んで座っていた。それに葉介は混じっている。葉介は、さっきまで着ていたジャージなんかじゃない、もっとしっかりした軍服のような物を着ていた。それに、ほんの一瞬でかなり日に灼けたようだった。別に栄養失調に陥ってるような様子はないけど、髪の毛も服も埃だらけだ。
「葉介! 無事だった?」
私がテーブルに立ったまま葉介に聞くと、彼はあんぐり開けていた口を一回閉じて、また開き、こう言い放った。
「花奈? お前何で来たの?」
「…………」
心配して来てやったのに、その言い草は無い。
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