タダより高いものはない
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近所に新しい店ができた。
看板にはデカデカと、
「タダや!」
と書かれている。
……ん?
気にはなるが、怪しい。怪しすぎる。だが、「怪しい」と「無料」が並んだとき、人間の足はなぜか「無料」の方に向かう。これは本能だ。俺は悪くない。
近づくと、入口に貼り紙。
『全品無料! お支払いは"まごころ"で!』
意味がわからん。だが、嫌いじゃない。
店内を覗くと、人の気配がまるでない。照明だけが煌々と点いている。まるで誰かを待っているように。
――試しに入ってみて、ヤバそうなら出る。
そう心に決めて、足を踏み入れた。
「いらっしゃいませー!」
明るい声。だが、振り返っても誰もいない。天井のスピーカーが、録音された歓迎を繰り返しているだけだ。
……まあいい。
店内は意外にも品揃えが充実していた。日用品、食品、雑貨。どれもパッケージに小さく「SAMPLE」と印字されている。どうやら全て試供品らしい。なるほど、タダにはタダの理屈がある。少し安心した自分が悔しい。
カゴを手に取り、気づけば山盛りにしていた。タダの魔力は偉大だ。
レジらしき端末の前に立つと、画面にこう表示された。
『個数制限のため、会員登録をお願いします』
……出たな。
名前、住所、電話番号、メールアドレス、生年月日、職業、年収、趣味、好きな色、よく見るSNS、最近の悩み――
どこの国勢調査だ。
カゴいっぱいの戦利品を見下ろし、舌打ちしながらも指を動かした。タダには勝てない。人間の尊厳なんて、無料の前ではサンプル以下だ。
登録を終えると、画面が切り替わる。
『※本品はあくまでサンプルです。安全性の保証はございません。ご不安な場合は使用せずに廃棄してください。当店は"置き場"を提供しているに過ぎません』
………。
急に、全部がどうでもよくなった。
「もういいわ!」
俺は怒鳴った。カゴを端末の横に叩きつけ、踵を返す。
すると、どこからともなく声が降ってきた。
「キャンセルは――有料です」
…………は?
画面を見ると、こう書いてある。
『会員登録完了後のキャンセルには手数料が発生します』
背筋に冷たいものが走った。タダの店で、金を取られる。これが「タダより高い」の正体か。
震える手で、カゴの中から一番害のなさそうなゴムボールを一つだけ掴んだ。これだけ持って、さっさと出よう。
出口に向かう。自動ドアが見える。あと三歩、二歩――
――ビィィィィッ!!
ブザーが鳴り響いた。
体が凍る。足が止まる。万引きなんかしてない。タダだと言ったのはそっちだろう。なのに本能的に後ずさりしていた。気づけば店内に引き戻されている。
奥から足音。
ドスドスと重い足取りで、大柄な男が現れた。
「お客さん」
低い声。
「"まごころ"、いただくの忘れてましたわ」
男はゆっくりと――丁寧に――両手にゴム手袋をはめた。
パチン、と左手。
パチン、と右手。
ゴム手袋というのは不思議なもので、はめる人間が笑っていなければ、この世のどんな刃物より怖い。
「な、なんでもする……なんでもするからぁ……!」
情けない声が出た。自分の声だとは思いたくなかった。三十五年生きてきて、ゴムボール一つ握りしめて涙目になる日が来るとは思わなかった。
沈黙。
そして――ガシャン、と壁が開いた。
中から出てきたのは、一体のロボット。
胸の前に札を掲げている。
『ドッキリ!』
…………。
膝から崩れ落ちそうになったが、ロボットは続けた。札がくるりと裏返る。
『次の店員は、あなたです!』
こうして俺は、「タダや!」の新しい店員になった。
仕組みはこうだ。客が来る。無料に釣られ、登録させられ、ブザーに怯え、ゴム手袋に屈し、最後にドッキリで回収される。そして「次の店員」として、次の獲物を同じ恐怖で迎える。
永久機関だ。人件費ゼロ。まさに、タダ。
誰が始めたのかは知らない。前の店員も知らなかったし、その前の店員も知らなかったらしい。ただ仕組みだけが、粛々と回っている。
俺は今、奥の控室でゴム手袋のはめ方を練習している。
パチン。パチン。
入口のセンサーが反応した。新しい客だ。
画面には、さっきその客が登録したばかりの個人情報がずらりと並んでいる。名前、住所、年収、好きな色、最近の悩み――全部、タダで手に入った情報だ。
俺はニヤリと笑った。
――さあ、どうやってこいつを次の「店員」にしてやろうか。
どこかでスピーカーが鳴る。
「いらっしゃいませー!」
タダより高いものはない。
だが、人は何度でもタダに手を伸ばす。
そしてその手は、いつの間にかゴム手袋をはめている。
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