第六話(9)
莉緒が、そこにいた。
裸身に胸から腰までバスタオルを巻いてはいるものの、布地に隠されていない肩は、光をはじき返す肌があらわで、細く丸い。
ぴったりと巻き付けたパイル地のそれは、莉緒のスタイルをくっきりとさせていた。
そして、視線が下にさがりそうになって俺はそっぽを向いた。タオルに隠されているから、どうせわかりやしないけど、見ることすら許されない気がした。
「お、おじゃまするね」
俺が背中を向けると、莉緒は安心したように、洗い場を使い始めた。
「お、おう」
(先に入れって、順番に入るって意味じゃ、なかったのか)
「ねえ、兄さん」
「な?! なんだ?」
なんだか、うまくしゃべれない。
「せなか、流してくれるんじゃないの?」
「う? おう!」
意を決して立ち上がる俺に、莉緒は焦って返す。
「じょ、冗談だよ。うそうそ、ごめん。まさか、そんなにうろたえてくれるとは、思ってなかったから…」
莉緒の言葉は、耳に入っても脳みそが理解していなかった。
洗い場を使い終えた莉緒が、そっと足先から湯に身を浸けていく。ちゃんとマナー通り、巻いたタオルは外して。俺はもちろん顔を背けていた。
(こんなときは、タオルつけてくれてていいのに!)
目のやり場に困る。
「いい、お湯だね」
「おう」
「兄さん、さっきから、おうしか言ってないね」
「う……うん」
莉緒がこらえきれずに笑い出した。
ダメだ、男同士って言い張って風呂に入ったのに、こんなんじゃ、莉緒を傷つけてしまいかねない。俺は反省した。反省しなきゃいけないのに、頭が回らない。
「ねえ兄さん」
もはや、俺の口はパクパクと息を吐くだけだった。
「僕のからだが、いまどうなってるか、見たい?」
「り、りお……」
俺は顔をいま一度背けた。ちょっと待て、いつもの莉緒じゃないみたいだ。
体育祭のときみたいな、それでいてあのときとは違う別のスイッチでも入っちゃってるのか。
お湯から莉緒が立ち上がる音がした。しずくが湯に落ちる音が、ぴちょん、ぴちょん、と後を引く。
「あのとき、僕にあんなことしたのに……」
あのとき……俺は、莉緒に……。
俺は耐えきれなくなって、お湯にどぶんと潜った。
「に、兄さん!?」
ざばっとお湯から顔を上げると、莉緒の顔が目の前にあった。
「兄さんがのぼせたのかと思っちゃった……」
「悪かった! 俺が無神経に一緒に風呂に入るなんて言ったから、怒ってるんだろ?……謝るよ……」
莉緒の体を湯気が隠す。それも束の間、夜風が湯気を吹き飛ばして、俺は、ぎゅっと目を瞑った。そうしないと莉緒の体が、目に入ってしまうから。
「ううん。ごめん、ちょっとからかいすぎちゃった。兄さんの反応が、可愛くて……」
「か、かわいい?!」
目を瞑ったまま、俺は莉緒から距離を取ろうとしたが、莉緒がそれを許さなかった。
「そうだ、今日りこと手をつないでたでしょ」
莉緒が、俺の手を引っ張って自分のほうを向かせるものだから、俺は目を閉じたままでいるしかなかった。
「そ、それは…!」
りこと手を繋いでいたと莉緒が言うそれは、海水浴で岩場から帰ってきたときのことだ。莉緒はナンパされてたのに、気づいていたのか。ぎくりと焦るが、いや待て。なんで焦らなきゃいけないんだ。たしかに高校生にもなって中学女子の妹と、ふつう手は繋がないよな。
でもなんで、莉緒に指摘されて焦るんだ。
また莉緒がくすくす笑っている。
「兄さん、もう少し目を閉じたままでいてね?」
莉緒はそういうと、俺の手をとって運ぶ。
熱くて、柔らかい、そこへ。
自分の手のひらが包む柔らかいふくらみの感触の中に、また小さいふくらみがあって、俺はそれがなんであるかを一生懸命、頭の中で言葉にしないようにしていた。
「ん……」
莉緒の吐息が漏れる。
俺はひたすらに目をつぶって意識を逸らそうとした。そんな俺をよそに、莉緒は少し呼吸を整えて言った。
「旅行の前、月末だったでしょ?」
莉緒が話し始めたとき、俺の頭は、すっとクールダウンした。
「定期通院で、その日はカウンセリングの日だったんだ」
莉緒は、あの事件以来、身体的な点と心のケアと、両面で診療を受けている。
先日、莉緒と同行した時、身体面では一区切りと言われた。莉緒は一面においては健康で、取り急ぎの治療は必要ない。倉松医師は俺にそう告げた。
「兄さんと検診に行った日、倉松先生が、健康だって、言ってくれたよね」
莉緒は静かに続ける。
源泉のそそがれるちょろちょろという音だけが、莉緒の言葉の空白を埋めた。
「どこもおかしくないって。これからは、急がなくていいんだって。僕の気持ちで、これから将来、手術したり薬を使って体の性別を、僕の心に近づけることもできるんだって」
体の性別……。
「体の?」
俺の質問は、莉緒の気持ちと同じだったみたいだ。
「うん、体の」
莉緒は俺の疑問を繰り返した。
「じゃあ僕の心って、なんなんだろう……まだわかんないや……兄さんは、どう思う?」
莉緒の視線を感じて、俺は目を開けた。湯に肩までつかった俺たち。俺の手は変わらず莉緒に引き寄せられて、その胸の上にある。莉緒の鼓動が、手のひらに伝わった。
「兄さんは……どう思う?」
莉緒が繰り返す。ほほを赤くしているのは、海水浴の日焼けか、お湯のせいなのか。化粧なんかよりよっぽど綺麗で。同じ言葉なのに、その問いかけは俺の行動を促しているようにさえ聞こえた。
俺は薄暗闇の夢の中の感触をどこかで思い出しながら、りおに頬を寄せていく。
りおの瞳が揺れている。
そこで、俺の意識は暗転した。
「に、兄さん!?」
なんてことはない。のぼせただけだ。血が上って前後不覚になったのはほんの一瞬。俺は岩風呂の上に引き上げられていた。莉緒が引っ張るのとあわせて、半分無意識に自力で風呂から上がったのだった。
「だいじょうぶ?」
バスタオル姿の莉緒が、俺を心配そうに見つめていた。
「ごめんなさい、ぼくが長話したものだから」
「ん、もう大丈夫だ」
風呂場の石畳に寝かされて、すっかり冷まされた体を起こす。
そろそろ、父さんたちも帰ってくるかもしれないしな。
俺はそそくさと脱衣所で浴衣を羽織る。
「りおも、湯冷めしないようにしろよ?」
「はーい」
その答えは、いつもの莉緒だった。
ちょっと、安心した。俺はのぼせてダウンする直前、何をしようとしていたのか……。




