第六話(7)
「ねえ、彼女。ちょっとでいいからさ、付き合ってよ。一人より楽しいよ?」
茶髪にハワイアンな水着。色黒にタンニングをキメて焼けた肌と、胸には金色のネックレス。
ある意味このビーチがお似合いの住人が、観光客らしい水着姿の女性に声をかけていた。
女性は、肩に届くくらいの髪。少し濡れ髪だったが、それが妙に色っぽい。唇のピンク色は、この砂浜に時おり落ちている桜色の貝殻に似ていた。
ナンパ男は、強引に女性の肩を抱く。女性は迷惑そうに身をよじった。
ビキニタイプの胸もとは、少し心もとないけれど、きれいな曲線で、そこから延びるウエストは男からすれば同じ人間とは思えない。さらに下の腰へのラインはショートパンツで隠されているが、ウェストのくびれを強調するかのように丸みを帯びていた。年のころは十五、六くらいの……。
「ぼ、ぼく男なんで……」
「またまたぁ、そうやって邪険にしなくってもいいじゃん。おごるからさあ」
ナンパ男が彼女に顔を寄せる。うん、こういうのを鼻息が荒いっていうんだろう。
って、ナンパ男の相手は莉緒じゃないか。
莉緒が細い眉を寄せて困惑している。男にそういう目を向けられるのは、たぶん初めてだよな。学校だと、男子たちには、莉緒は男というフィルターがかかっているから。
「はる兄、りお兄がナンパされてる!」
「ああ、気づいてるよ」
この事態はさすがに想定していなかったというか、想定したがそんな漫画みたいなことあるか? と除外した事態だ。
りこも、どっちかというとめずらしいハプニングに遭遇した、くらいのテンションだ。
「ちょっと、ふたりとも助けてよう」
男の“そういう目”というものに、これまでフィルターで守られていたから、どうにも困ったという様子の莉緒が、ちょっとかわいかった。まあ、ほっとくわけにもいくまい。
ナンパ男の視線と、ぐいぐい寄ってくる顔の近さ。よく考えると“他人の男”というのは、怖いものかもしれない。
「りこ、こういうのは女子が行ったほうが、角が立たん」
「ええ、わたし? 中学生のいう事なんて聞いてくれるかなあ」
「いいから行け」
りこの小さな両肩を押す。事の成否はお前の双肩にかかっているんだ。
「えーと、家族旅行で来ているので、そういうのはご遠慮ください」
バレー部とはいえ、153センチのりこが大の男を堂々と見上げる図は、ナンパ男もさすがに周囲の目を気にしたのか。はたまた、子供っぽい少女と、家族旅行という言葉で毒気を抜かれたのか、ナンパ男はさっさと諦めてくれた。力ずくでナンパするやつはさすがにいないか。
俺たちは、最後に三人で軽く泳ぎ、三人で並んでホテルに戻った。
この旅行の目玉は、父さんと母さんが奮発したリゾートホテルだ。最初は、子供の頃の思い出でキャンプという話題から始まった高知旅行だったが、俺たちが子供のころに使ったキャンプ道具は、古くて傷んでしまったから処分したんだってさ。そこで代わりに父さんが提案したのがこのホテルだった。
ビーチへは、ホテルの宿泊者用の通路も整えられている。(だから、ビーチへは子供だけで。両親はホテルでくつろいでいた)
奮発したのは、部屋のチョイスも、だ。なんと温泉家族風呂付き。お高そうな部屋だ。
ベッドルームと、和室と、リビングという、部屋数だけでも随分豪華である。
昨日、ホテルに到着した俺たち兄妹。部屋の探検を済ませると、今度はホテルの探検へと乗り出した。敷地も広くて、昨日だけでは探検しきれていない。それくらい、観光地を歩き回らなくても楽しめるということだな。ま、外を歩くのは明日からのお楽しみ。
父さんは、現在単身赴任で神戸にいる。新神戸駅に新幹線で降りた俺たちを、父さんが車で拾って高知まで移動したのが昨日。日頃の疲れか、今日は母さんとのんびりしていたみたいだ。
部屋のシャワーで潮水を流したあと、りこが再び探検に出掛けるという。なんて元気なやつだ。半日泳いで俺はくたくただ。莉緒もせっかくだから出てくる、と、りこと二人出掛けて行った。父さんと母さんも、夫婦水入らずで出掛けているみたいだし、これは一人ゆっくりごろ寝ができるな。
和室に大の字に転がる。新しい畳の井草がいい香りだ。
りこの中学最後の試合が終わり、莉緒が所属する吹奏楽部のコンクールも無事終わって、ふたりも気を抜いて楽しめているのではないだろうか。
あれこれ考えながら、いつの間にか寝入ってしまっていた。
それは、いつかの夢の中の光景だった。
薄暗闇に、その目は輝いて、とても綺麗なのに、傷めつけられた心を、諦めの境地に投げ捨てたような瞳をしていた。
なんど涙を流したのだろう、眦から落ちた涙のあとが、心の痛みを訴えていた。
俺の胸も痛んだ、とても強く。とても強く、何とかしてやりたい、そう思うのに……。
もう、どうもしてやれなくて、白いほほを両手で挟むと、その唇に口づけしていた。
口づけ、してしまった。
すると、驚いた瞳で、俺を突き放そうと押し返すのに、その手は止まって、唇を離すにとどまる。
その瞳が、この後はどうすればよいのかと問うように、俺を見つめ返す。
(だいじょうぶだから……)
俺はもう一度口づけした。
(もう、だいじょうぶだから……お前を傷つけるやつは、もういないから……)
口づけを繰り返して、わからせる。
もう、おまえには味方しかいないのだと。
だから、大丈夫なのだと。
その吐息が、俺の頬に触れたのを、俺は覚えている。
薄暗闇に、俺を見下ろす瞳。
畳の上にぺたんと座って俺を見ている……。
「兄さん?」
「ん……」
莉緒が、寝ぼけていた俺を覗き込んだ。
「目が覚めた? 電気つけるね」
パっ、と蛍光灯の白色光が目に入る。
「うぎゃ~。灰になる~」
「はいはい。吸血鬼さん、日の光じゃないから大丈夫ですよ~」
く、莉緒もこれくらいの冗談を言うようになったか。
……ではなくて。
さっきの夢は……。
俺には、唇に残った感触が、本物かどうかを知るすべはなかった。吐息がかかる、リアルな感触があった。
「ついさっき、みんな夕食会場に行ったよ。兄さんなかなか起きないから、僕が待ってるって言ったんだ。僕、少食だし。いっしょに行こう?」
「う、お、おう。わるい」
俺は、心臓がバクバクしていて呼吸が苦しかった。心臓発作じゃないけど、何かそれに近いくらい驚いているかも。
「りこったら、『キスすれば起きるんじゃなーい?』 だって。馬鹿だよねぇ」
莉緒は部屋の入り口で靴を履きながら、明るい口調でお喋りしている。旅先だからか、テンション高め。
「はは、そうだな」
俺はと言えば、夢の余韻が醒めない。いかん。これはひとまず忘れよう。莉緒と、みんなを待たせちゃいけない。
ふと、廊下で先を歩く莉緒の耳が目に入る。真っ赤だ。
日焼けしたのかな。
「りお、どうした? 耳まで真っ赤だけど」
「えっ……ええと、だいじょうぶ。なんでもない……から」
ちらりと振り返ってそう言った莉緒は、俺と目が合うと再び前を向き直って目線を逸らす。その頬は、高級ホテルの廊下のほのかな照明に照らされて、なんだか色っぽかった。




