第六話 ひまわりの夏(1)
吹奏楽部の練習を覗いたことは、そういえばあまりなかった。
まあ、あまり見学に行ける雰囲気でもない。個人練習のときは、学校のあちこちで部員が楽器を携えて吹き鳴らしているけれど、そこにお邪魔するのは、集中を途切れさせてしまうので気が引ける。全体練習の場合は、部外者がお邪魔するスペースがないのが実情、というわけだ。
夏休みに、莉緒が俺の姿を学校で見たらびっくりするだろうから、ちょっと様子だけ覗いて帰ろうと思っていたのだが。
「兄さん、どうしたの?」
見つかってしまった。
心底不思議そうに、莉緒は俺を見ていた。
まあ、帰宅部が、しかも俺のような人間が夏休みに学校に居れば驚くわな。
丸尾と井出の件は、みんなにもお願いしたが、莉緒には伏せてある。
あの一枚の画像。修学旅行で撮られて拡散されてしまったあの画像が、再び莉緒の心に影を落とさないように。
莉緒の顔だけ見に来た俺は、空いている一年の教室で練習している姿を見つけたのだった。
個人練習の手を止めて、莉緒も廊下に出てくる。
教室には同じ楽器の部員が何人かいたが、行動は比較的自由みたいだ。
「悪いな、練習の手を止めさせてしまって」
「なにか、あった?」
「いや、実は担任の五味渕ちゃんに、仕事の手伝いを頼まれてな。その帰りだ」
俺は誤魔化した。
「へえ、めずらしいね」
もう帰るよ、がんばれよ、というと、莉緒は嬉しそうに手を振った。
ほんとうに、最近の莉緒の笑顔には影がない。
それでこそ、だ。俺はそのために頑張っているのだから。
◆◇◆◇◆
合宿所は山の上で、市街地よりは標高が高く、吹き抜ける風もあって、多少涼しい。学校の体育館では、夏場にハードな練習は難しい環境になってきた。
そんな、合宿所の建物の日陰に勇吾と、りこが向かい合って立っている。
りこはきっと大丈夫だ。でも、あの子は人の気持ちにものすごく揺さぶられるから、心配には違いない。
“お兄さん、今大変なことが……” 送信。
“今それどころじゃないんだ” と、すぐ返事が来て、私はマナーモードの振動すら危うい気がして、慌ててそれも消した。
私は特派員の使命として、物陰から二人の様子を見守っていた。
体育館での練習の合間に二人で外に出るのを目で追って、何かあるという直感がわたしを尾行させた。
勇吾の真剣な姿をみているうちに、のぞき見をしている後悔が胸に滲む。
でも、それでも、勇吾がどんな風に告白するのか、その結末を、私は知りたかったのかもしれない。
◆◇◆◇◆
スマホに小さな着信音がした。俺は慌ててマナーモードに変える。音量が小さくて助かった。ついでに、見えてしまったメッセージにひと言返しておいた。
“今それどころじゃないんだ” 送信。
勇吾くんに呼び出されたらしいりこは、落ち着かない様子で来たるべき言葉を待った。さしもの、りこもこの状況が何を示すのか、分かっているようだ。
「休憩時間に、悪い」 勇吾くんが言った。
「う、ううん」
りこの短めの結ばれた髪が、襟足の上で、子犬の短い尻尾のように揺れる。
「練習、がんばってるか?」
「うん、ちゃんと、やってるよ。ケガもね……」
「ケガ、だいじょうぶなのか?」
勇吾くんが、焦ってりこの言葉にかぶせる。見てるこっちがハラハラするくらいに、彼の緊張は伝わった。勇吾くんの声は、ときどきひっくり返って、気の毒なくらいだ。
緊張するのはわかる。だって人生の一大事だ。俺には告白した経験なんてないけど。
「ケガは大丈夫!」
「ほんとは、もっとゆっくり話せる時間に、言いたかったんだけど……」
「うん……練習のあととか、意外と一人になれないよね。消灯も早いし」
りこは、なんて答えるんだろう。そう思うと俺はなにかが怖かった。
「そうだよな。だから……大会の前にはちゃんと言っておきたくて」
勇吾くんは深呼吸すると、体育館での、りこへの声援のように、声を張った。
「葉月りこ! 好きだ! 付き合ってほしい!」
正々堂々、という言葉がふさわしかった。大きな声で、建物の影だけど、風を通す窓から、体育館の中まで聞こえていても不思議ではない。
――一時間前。
さあ、ようやく俺の夏休みが始まる……。
まずは部屋のエアコンを聞かせてごろ寝して……。
終業式の日に食べようと思っていたお高いアイスを食べ……。
――ゼぃ、ゼぃ……。
暑さと日差しに目もくらむ坂道を、俺は自転車で登っていた。
自転車でも行けるくらいの距離って、俺も思ってたよ。
アイスをうちの冷蔵庫に置き去りにして、りこのスポーツバッグを俺は運んでいた。
『ハル、りこの着替え合宿所まで持ってってやって? あんまり暑くて、洗い替え、足りなくなったんですって』
という、母の願いを叶えるため……。
『母さん、これから役場へ、お祭りの役員会に行かないとだから』
だから、車が出せないと言外に伝えられて、俺はママチャリを引っ張り出したのだった。
熱中症に気をつけましょうって、町内放送がかかる中、俺は家を出て、山の上を目指してペダルをこいでいる。
ロードバイクが何台かすいすい抜いていった。本能がそうさせるのか、ちょっとむむっとしたけど、張り合う気力も沸かない。
合宿所の正門から、どこに行ったものかと考えていると、建物の裏に隠れて行くその二人、勇吾とりこの姿を見てしまった。どこか、二人きりになろうとしている雰囲気があった。
そのあとをつけてしまった俺の心境は、許されるものなんだろうか。
勇吾くんの正々堂々の告白。体育館の中では、どうやら試合形式の練習が進められていて、誰にも聞かれていないのか、建物の裏はある種の静けさをまとったまま。
「勇吾……あの……あのね」
りこは、震える手で自分の体操着を掴んでいた。なにかに頼りたくて、視線が泳ぐけど、誰にもその手助けはできない。しちゃいけない。必死に、りこは……彼女は自分の言葉を紡いだ。
「勇吾の気持ちが、好き、ってことだって、こないだ私、ようやくわかったんだ」
「うん……」
「そういうの、自分に向けられたことって、初めてだったから。私ぜんぜん気がつかなくって。それでね、一生懸命考えたよ? どうしたらいいんだろうって。そしたら、気づいちゃった。勇吾に、同じ気持ちで返してあげられないから、私は悩んでるんだって。私には、勇吾が持ってるのと同じような気持ちを、他の人に向けてるんだって、気づいちゃったんだ」
勇吾くんは、下を向いて歯を食いしばってた。
「うん……うん。俺もこうなるだろうなって、わかってたよ。でも、言わないと、言っとかないと、前に進めないし。俺、勝手だよな。勝手に好きになって、勝手に告ってさ。大事な試合前にさ」
「ううん。ごめん。私の方こそ」
「葉月の、好きな人って、誰なんだ?」
勇吾くんの問いに、りこの表情が、泣き出しそうな顔で固まった。
しまった、と勇吾くんは思ったのかもしれない。
「はは、ダサいよな。俺には関係ないよな。俺がすっきりしたいだけなのに、葉月の好きな人を知りたいなんて、すげーかっこわりい。なにか、葉月と喋ってたくて、聞いただけなんだ……ごめん」
「言えない……言えないよ」
はらはらと涙が落ちる。
「ごめん、葉月……俺の言ったことは、気にしないでくれ!」
勇吾くんは、やっぱりいいやつだな。りこを泣きやませるために、振られた本人が不器用に慰めていた。




