第五話(2)
誰かが、私の手を握った。握りしめ過ぎて血の気が引いて、冷たくなっていたことに気づかなかった。その手が握られて、あたたかいと感じた。
「柚羽……あなた、またついてきたの」
「だって、理々香ちゃん、会話の途中で突然ふらふらいっちゃうんだもん」
もう、と口にする柚羽の表情は、いうなれば、ぷんすか。
私って、そんな夢遊病みたいにふらふら出歩くのだろうか。
柚羽の楽観的な様子に、私の足は震えが止まっていた。
「井出、待ちなさい」
私はアニメのキャラみたいに、仁王立ちになって井出の行く手に立ちふさがった。
そのときだ。
「おい、そこでなにしてる!」
確か、二年の担任の五味渕先生だ。社会科教師なのに、体育教師みたいに体がごつい、角刈りの先生。
私のさらに後ろから先生はやってきた。
さすがに、人通りが少ないとはいえ、校舎のいくつかの窓から覗き込めば、丸尾と井出の乱闘は見えたはずだ。
誰かが職員室から先生を呼んでくれたのかもしれない。
「五味渕ちゃん、俺はただの通りすがりだぜ?」
藤原が五味渕を気安く呼ぶと、ぬけぬけと先生の横を通り抜ける。たしかに、丸尾が先に手を出して、藤原先輩はそれを防いだだけ、と言えるかもしれない。
だが、ひとまずは井出を逃してはいけない。私は、そんな使命感だった。いま思えば、安っぽい行動かもしれなかった。
◆◇◆◇◆
「葉月、画像ってなんのことだ」
生徒指導室に乗り込んだ俺に、五味渕が聞く。まだ問題はそこに至っていないようだ。先生は頭を掻いて、順を追って説明してみろ、と全員を見て言った。
桐原さんの説明で、五味渕は丸尾が井出を誘い出したと聞いていたようだ。順を追うとなれば、五味渕の目は自然と丸尾に向いた。
「僕は! 葉月……先輩じゃなくて、弟の方の、葉月莉緒くんのプリントが、ちょくちょく失くなる、という話を聞きました」
野球部員らしく、直立不動の姿勢で丸尾は言った。
桐原さんが、事態を察知し、手を汚してまで追求してくれたから、プリント事件は発覚した。そこまでは俺も耳にしている。
俺の後ろから桐原さんが生徒指導室に入ってきて手を挙げると、プリント事件について彼女は補足説明した。――五味渕は個別に事情を聞こうとしていたようだが、必要性を認めて全員を入室させた。
「それで、そのときは犯人が見つからなくて。でも俺は納得できなかったんです。それで、プリントを集めた体育祭実行委員の白石さんに話を聞いたんです。そうしたら……」
丸尾が白石という女子から聞き出したのは、井出が出場種目希望のプリントを書き直したいから、プリントを貸してくれ、と全員分のプリントの束を受け取り、そのうちの一枚を抜き取った、という一連の流れだった。
直したら、自分で提出しとくから、そんな井出の言葉を、白石さんは素直に受け取った。
当然白石さんは、井出は自分のプリントを抜き取ったと思っただろう。彼女は、後から気づいた。井出が抜いたのは、必ずしも自身のプリントではないかもしれないと。彼女は井出が持ち去ったプリントに書かれた名前を確認していなかったのだ。
莉緒のプリントが未提出と分かったときも、気の弱い彼女はそれを言い出せなかった。
「丸尾はその時、井出が葉月弟のプリントを抜き取ったと思ったんだな?」
五味渕は腕組みをして言った。
「はい」 丸尾は短く答える。
「だから、そんなの証拠じゃないだろうが!」
井出が怒鳴る。殴られた怒りの興奮が、まだ収まらないようでもある。
「それで、画像っていうのは何のことだ」
五味渕は引き続き丸尾を見ていた。
「井出は、さっきみたいに証拠がないだろうと俺に言いました。それだけじゃなくて、俺に、葉月莉緒くんに興味があるのかと聞きました」
――いやいや、証拠ないだろ? 俺は自分のプリントを書き直して提出しただけだし。それともナニ? お前、あの葉月莉緒に興味あんの?
井出の口の悪さと性格から察するに、丸尾が言われたのはそんなセリフだろうか。想像できるあたり、俺にも汚い部分があるのかもしれない……。
「そのあと、井出はだんまりでしたけど、俺にちょくちょく画像付きのメッセージを送ってくるようになったんです……葉月莉緒くんの写真です」
俺は、丸尾がやけに冷静に事の顛末を説明するなと感じ始めていた。
「最初は、普通の隠し撮りでした。体育の授業で、胸をやたらアップで撮ってて、最初は意味が分かりませんでした」
丸尾は、少し口ごもった。
「体育祭が終わったころから、だんだんエスカレートしました」
体育祭で、丸尾は隠し撮りの意味がわかったのだ。莉緒の、下着姿を見たのだから。
「送られてきたのは葉月の……いろんな写真で。最後に、あの画像が送られてきました……でも信じてください、僕は消したし、井出にも消せって言ったんです!」
その言葉は、半分は、いや半分以上が俺に向けられた言葉のような気がした。それは、丸尾くんにとって耐えがたい不名誉だったのかもしれない。
「はっ、画像は削除しても、どうせやることやったんだろうが! 気持ちわりぃんだよ」
汚い言葉で井出は罵った。
俺は、頭を真っ白にして、その言葉は忘れることにした。もし、身内をそうしたことで汚してやったと言われたら、たとえそれが空想でも胸糞悪いからだ。俺自身の内側で生じた思考、その仮定は、少し壊れているなと自分でも思う。
一拍の空白。
五味渕は、ぼりぼりと頭を掻いた。しんとした生徒指導室に響くくらいに。
「先生、私、生徒の間で出回っている画像の一部を持っています」
桐原理々香のその言葉に、俺は目を剥いた。
「葉月先輩、私が持っているのは、その、先輩が心配されているような画像ではないと思います」
彼女は、俺の感情がむき出しになった眼を見て、説明してくれた。理々香と柚羽は、俺にとって、莉緒に寄り添ってくれる、大きな存在になりつつあった。だから、彼女の説明に俺は安堵を覚えた。
「桐原、画像は必要ない」
五味渕は桐原理々香を手で制した。
「井出以外は解散していい。すまないが明後日、登校してくれ。あとで連絡する」
先生の宣言の後、ゆっくり瞬きするくらいの間、硬直した体をようやく動かして俺たちは生徒指導室を後にした。
「気持ちわりぃんだよ。生き物としてよ、ただそれだけだよ。ちやほやする奴もどうかしてるだろ?! 被害者ぶりやがって、迷惑なんだよ!」
井出が、誰に向けたかわからない捨て台詞を、俺たちの背中に向けて吐いた。
杉山さんが井出を遠ざけるように、部屋を一番最後に出て、扉を閉めてくれた。
丸尾くんが、頭を下げて去っていく。
「丸尾くん……ひょっとして、わざとか?」
俺は彼の背中に問いかけた。
彼はもう一度頭を下げて、帰って行った。




