第5話~第6話
◇(5/6) 英雄と私◇
私は今、帝都〈フレイムハルド〉の高級宿の一室で荷物整理をしていた。
壁は磨かれた赤褐色の玄武岩で彩られ、天井からは火晶石の燭台が温かな光を落とす。
真鍮の格子窓の向こうでは鍛冶場の火柱がときどき夜気を染め、乾いた風が香油と燻し革の匂いを運んできた。
私は窓を閉め、そのまま長椅子に腰を下ろす。
飴の糖で固まった袖口の灰青の麻シャツと、色の抜けた苔緑の前掛けが小さく跳ねた。
厚い赤の絨毯は踏むと柔らかく沈み、指先で触れた長椅子の竜革は熱の名残をほんのり宿している。
焦げ茶のワークスカートの生成りの当て布が、椅子の縁で擦れて小さく鳴った。
現炎帝フレイア・バーニング二十一世の名で手配された客人宿の一室。
机には皇帝印の押された書簡、壁には帝紋の織物。
窓辺の二人掛けの長椅子に座るは私ひとり。
私は膝の上に置いた魔法の携帯袋の中身を眺め、もやの向こうにある物品のチェックを続ける。
今夜が、私とダークの別れの夜。
私はダークの旅路の助けになるものを選定し、魔法の携帯袋に詰めていた。
──あの日、ダークは一つの街を救った。
アドリ地方の温泉都市〈アドリス〉に淫魔族が襲撃してきた時、私とダークも街に居合わせた。
淫魔族は一定レベル以下の女を魅了する。
そして彼らの長である淫魔王は、全ての女性を従えるとも言われていた。
近頃、淫魔族と女性特効モンスターの襲撃が絶えないのは、二代目の淫魔王が生まれたからだと、噂されていた。
『あ、ああ……!?』
『ちびっ!? ──オレ様の料理番に、何しやがるっ!!』
淫魔族──インキュバスたちの〈魅了〉が目に見えない糸になって、私に絡みつく間際。
ダークは人目をはばからず力を奮った。
血みどろになりながらもダークは戦い続け、街を襲う淫魔たちをひとりで滅ぼした。
その後の段取りは驚くほど早かった。
ダークと私は、白布の腕章を付け青いシスターヴェールを被った検査官たちに連行された。
そして女神教と冒険者ギルド、炎帝フレイアの立会いの下、ダークは宿命の子──レベルの下がらない才能〈女神の祝福〉の保有者と認定された。
これからダークは、四百年前の英雄ランズ同様、淫魔を滅ぼすための旅に出る。
四大国の保有する四属性ダンジョンをめぐり、守護精霊の信認を得る。
最終目的地である魔大陸へと渡り、淫魔王と対決することになる。
かつての英雄ランズはどうだったか。
私が見た絵本『英雄ランズ物語』では──レベル10になった英雄ランズは、淫魔王を倒した後、帰らぬ人となっていた。
私は魔法の携帯袋の布を強く握り締めた。
火晶石の明滅の中、大粒の涙が布地に染みを作っていく。
扉が二度だけ鳴る。真鍮の格子窓の影がわずかに揺れた。
私は袖で涙の跡を押さえる。
携帯袋の紐を結び直して、立ち上がった。
扉を開けると、熱を含んだ夜風と一緒に、薬草と石鹸の匂いが流れ込む。
ダークが立っていた。濃紺の詰襟コート──胸元の真鍮のトグルがひとつだけ留められ、襟裏には小さな帝紋のピンが光っている。
額に落ちた白銀の髪の一房が青い瞳の縁できらめいた。
「……暑いな。預かれ」
言うが早いか、彼はトグルを外して肩からコートを滑らせる。
私は両手を差し出して受け取った。濃紺の布は思ったより重く、裏の薄い毛織が指先に柔らかい。
コートを机に丁寧に畳んで置いた。
濃紺の重みを、少しだけ私が預かった気がした。
扉が閉まる音が背後で短く響き、廊下の足音と祈祷の小声が遠のく。
振り返って私はダークの側に寄る。
背は出会った頃よりも、頭ひとつ分伸びていた。
見上げた時、ダークが大きな雪白の亜麻シャツの第一留めを指で外しているのを見つける。
次いで、墨黒の細身のパンツの埃を彼は手で払う。
艶を落とした黒の短靴が火晶石の明滅を拾った。
「遅かったね」
「検査だの宣誓だの──退屈極まりない」
いつもの響き。
けれど、声の底には鉄の摩耗みたいな疲れが混じる。
私は身をよけ、彼を窓辺に招き入れた。
「荷は?」
「ここにあるよ。必要な薬と替えの杖、地図と……飴玉。三種」
ダークの問いに私は答える。
長椅子の上の携帯袋を指で示すと、ダークは唇の端だけで笑った。
一歩身を寄せて、私の頭に大きな手を乗せる。
戦いと共に増えた杖だこのざらつきが髪に触れる。根元から静かに撫で下ろされる感触に、胸のわだかまりがひとつ消えていく。
「世話をかけたな」
「──っ」
喉の奥で小さく音が漏れる。
まるで今生の別れを告げられた気がして。
考えるより早く、私は彼の懐へ飛び込んでいた。
亜麻シャツが頬に当たる。
布越しに伝わるのは均された呼吸と規則正しい鼓動だけ。
私は腕を強く回し、彼の背へ指を食い込ませた。
「……どうして、あなたが行かなきゃいけないんだろう、ね」
「ちび──」
「私と、逃げようよ、ダーク。誰も私たちを知らない場所へ……」
私は額を彼の胸に押し当てたまま、息を吸う。
石鹸と清涼な薬草油の香りが鼻を満たし、喉の奥まで冷たく広がる。
溢れだした雫は、亜麻の繊維に染み入っていった。
英雄ランズは帰らなかった。
厳しい戦いに身を置くことになるダークが、そうならないとどうして言えようか?
胸の内で言葉が擦れ、心臓の音が少し速くなる。
私は喉をしゃくりあげ、湿った音を奏で続ける。
息が短く切れて、肩が彼の腹に小さく当たった。
「ついて行きたいよ、ダーク。置いてかないで。私、もうあなたがいなきゃ、生きていけないの。私の手の届かないところに、行かないで……。お願い、ダーク……」
ダークは短く黙り、私の後ろ髪をゆっくり撫でつけた。
彼の右指がうなじをかすめ、もう片方の腕が背に回って私をさらに引き寄せた。
見上げると、濡れた碧眼が灯りを映して深くなり、まぶたの影が静かに落ちている。
「いまのオレ様には、お前を守る力が足りない。──いまは、オレ様から離れるべきだ」
初めて彼がこぼした弱音。
言葉が胸の奥に沈んで、底から締め付ける。
火晶石の灯が低く唸り、真鍮格子の影が床で細く伸びた。
握りしめていた裾に、私の指がしわを刻む。
「やだよ、嫌だよ……」
声に合わせて肩が細かく震え、亜麻の胸元に涙の濃い花がひとつ増えた。
喉の奥がつまって息が浅くなる。指先が彼の背の布を必死に摘まむ。
目尻に溜まった雫がこぼれ、頬の温度だけが取り残される。
短く首を振る私に、ダークは諭すように言った。
それは、いままで聞いたどんな声よりも、穏やかな音で満ちていた。
「ミルク」
「──ッ」
私は反射で顔を上げる。
潤んだ視界の向こうに、ダークが柔らかな微笑みをたたえていた。
笑っているのに、目はまっすぐで、逃げ場を作らない。
彼の右親指がそっと顎下に触れ、私の顔を持ち上げる。指先の冷たさが、泣き顔の熱を少しだけ均す。
「……オレ様は、ランズなんかと違う。面倒ごとを全て片付けて、きっと生きてお前の下に帰ってくる。それまで、待ってくれるな? なあ、ミルク──」
乾いた喉がひとつ鳴り、胸の鼓動が数拍だけ速まる。
信じたい、でも怖い。
二つの気持ちが胸の内側で擦れて、火花のような痛みが瞬く。
窓の外で夜警の角笛が遠く短く鳴り、時計の針のように決意が時刻を指す。
「出会ってくれて、ありがとう」
ダークの素直な言葉。
私がうなずく間もなく、彼は続ける。
抱き留める腕から、体温が静かに伝わってくる。
「好いてくれて、ありがとう」
彼の口角がわずかに緩み、頬骨に灯りの線が優しく浮く。
「世話をずっと焼いてくれて、ありがとう」
ダークが私の頬を右手で触れる。
温かい手に私は身を委ねる。
高鳴っていく鼓動に、身を溶かした──。
「……お前が好きだ」
影が落ちる。言葉の重さに、世界が一瞬だけ静かになる。
ダークの唇が、私の唇と触れた。垂れ落ちた銀の髪が頬をくすぐり、涙の筋に優しく触れていく。
今はただ温もりが心地よい。
私は目を閉じる。それでも、雫は溢れ続けた。
部屋はゆっくりと静まり、やがて二人の呼吸だけになる。
言葉はもう、要らなかった。
その後、ダークは長い旅の果てに淫魔王を打ち倒し、世界を救った。
けれど、彼は帰還しなかった──……。
◇(6/6) ダークと私◇
菓子店の前で、列が伸びている。私はその光景を硝子越しに見つめる。
手もとの温めた大理石の台に、私は糸を引いた飴を落とし、羽根の形にひらりと置いていく。薄い羽は光をつかんで、透きとおった青にきらめいた。
店内の壁の釘には、濃紺の詰襟コートが掛かっている。
毎朝、埃を払って掛け直すのが習いだ。布地を手の甲で滑らせると、真鍮のトグルがからりと鳴る。その音は、胸の奥のどこかと同じ高さで響く。掛け直したコートの裾が、朝の風にわずかに揺れた。
青いシスターヴェールの検査官が『英雄凱歌祭』の掲示紙を店の入り口に貼っていく。
「新作は“氷の花”って言うんですか、ミルクさん?」
「ええ。今日も、売り切れると思いますよ? お早めにどうぞ」
検査官の女性に私は微笑んで応じる。
戸口の小さな鈴が風でこすれ合う。
まだ開けていない扉の向こうで子どもが背伸びして硝子に額を押しつける影が伸びた。
──二十三歳となった私は今、帝都近郊の街で菓子職人として働いている。
ダークとの生活でレベルが上がり、囮生活で培った体力は重労働な菓子職人の暮らしにも活きていた。
かつて囮で走り抜けた脚は、いまは粉袋を運ぶためにあり、腕の筋は銅鍋を振るためにある。肘の内側に残った固い豆が、重労働の一日を変わらず支えてくれる。
『焔の宮廷』『雪化粧』『苔むす』──私が名づけた飴のフレーバーは、この国の人達の舌にうまく馴染んだらしい。
元いた世界の菓子を模したものも、ここでは新しい顔をして受け入れられた。
新商品を出すたび、朝はこうして行列になる。
小さな台に紙箱を積み上げ、包み紙の色を三色──赤、琥珀、薄緑──交互に並べると、棚が祭りの旗みたいに明るくなる。
女神教が「ダークが淫魔王を討った」と宣言してから、半年が過ぎた。
夜の鐘は定刻どおりに鳴り、門は早く閉まらない。
冒険者ギルドの掲示板からは“緊急”の札が減り、代わりに祭りの手伝い募集が増えた。
街角の噂話は甘い菓子の値切りに移り、あの甘く腐った果実のような〈魅了〉の匂いは、いつの間にか風から消えた。
世界は静かに、平和になっている。
濃紺のコートを、毎朝掛け直す手つきだけが、私の中で時間を巻き戻す。
◇◆◇
夕暮れ時。
硝子戸を薄く紫が洗い、通りの影が長く伸びる。
外の街路では、楽師が演奏を再開したらしい。
遠い弦の音が、温い空気に一本、細い道を引いて、店の奥までそっと入り込んでくる。焼けた石畳の匂いに香辛料の粉が混ざり、灯り始めた松明が油のにおいで夜を呼ぶ。
「……」
英雄ダークを讃える歌が、戸口の隙間からふっと差し込む。
歌詞のひと節が、私の胸を空しく通り過ぎ、鍋の縁で弾けた砂糖の音に紛れて消える。
戸口の札を「準備中」に返し、閂に手をかける前に、女主人が帳場から顔を出す。歳は私と変わらず、すでに二人の子供を育てている人だった。店の裏手に住まいがあり、両親に子の面倒を見てもらいながら働いているとのこと。
「ミルク、そろそろ店じまいにしようか」
「はい、天板は冷ましておきます」
女主人に私はうなずいて返す。
私は“氷の花”を薄紙で覆い、銅鍋に布をかける。
木べらを水に浸すと、甘い湯気が一度だけ胸に返ってくる。
女主人は勘定箱の小銭を音の高さで数える。
からり、からり。いつもの閉店の音階が夜に溶けていく。
店じまいも終わりかけたとき、戸口の鈴がひとりでに小さく震えた。
風が変わった──と思う間もなく、フードを深めに被った旅人が、硝子越しに立っている。
顔は影に沈んで見えない。
濃紺の外套の裾が砂色の風に細く揺れ、真鍮の留め具が月の最初の光をかすかに受けた。
私は軒先に出て、背の高い旅人に話しかける。
「すみません、もう──」
閉店だと告げかけて、私は言葉を飲む。
旅人の指が軽く上がり、「ひとつだけ」と合図を送る。私は扉を背にして一歩踏み出す。軒先の影が体を包み、空気がすっと涼しくなる。
「“焔の宮廷”を、ひとつ」
低く抑えた声。
私は、その聞き間違いようのない声を聞いて、足元から力が抜けた。
地面に座りこむ。
鈴の余韻より静かなのに、胸骨の裏を確かに叩く。
視界がぼやける。
顎先に雫が伝い続ける。胸が張り裂けそうになる。
「……おひとつで、よろしかったでしょうか?」
いつの間にか身に着いた習慣が、私に余計なことを口走らせる。
なんでこんなことを聞いちゃったんだろう。
恥ずかしさで顔が熱くなる。
声がかすれて、自分のものじゃないみたいだった。
旅人は包帯を巻いた指先を顎に添えた。
こちらをからかうそぶりはない。
しばし考えこんだ後、彼は穏やかな声音で告げる。
唇の端が、ほんのわずかに上がっていた。
「”ミルク”も付けてもらおうか」
言葉と同時に、旅人は前かがみになり、腕を伸ばす。
布で覆われた掌がランタンの光に浮かび、指の節が温度を宿して近づいてくる。
私はその手を両手で包む。
石鹸と薬草油の匂いが、庇の影でふっと濃くなった。
「うんっ……」
地面に大粒の雫が染みを作る。
握った手のひらの温かみが、軒先の夜に小さく灯る。
看板の鎖が風でからりと鳴り、通りの弦は次の調べへ移った。
◇■◇
年代記は簡素にこう綴る。
──英雄ダーク、二代目淫魔王を討ちて帰らず。女神教の凱歌録にも同様に記される。
しかし後世の史家の一部は、彼はあえて死を偽装したのだと解釈する。
英雄として飾られる日々は静かな暮らしを遠ざける──だから彼は、死を装い、名を置いたのだと。
近年、火の帝国からはるか離れた浮遊島──仙島で、風に磨かれた黒石の碑が見つかった。
並んで刻まれた二つの名──ダーク、そしてその伴侶ミルク。
刻みの浅さも、素朴な意匠も、まるで秘密の合図のようだという。
真偽は風に委ねられたままだが、二人が望んだ静けさにふさわしい。
英雄の名は歌の中に、二人の名は穏やかな蒼穹の下に。
- 外伝 英雄ダークの章 End -




