第50話 失恋
深呼吸をひとつ置いてから、俺は席に座り直す。
カナメは正面ではなく、さりげなく俺の隣に腰を下ろした。
背に温かい手のひらが触れ、上へ下へと静かにさする。布の擦れる音が近い。
上着越しに指の腹の圧が伝わり、強張っていた肩の筋がほどけていく。
耳の後ろが熱い。けれど、今はその手のひらに身を預けた。
「……まとめると、俺の〈第四の目〉を使ってる間は『視える』し、声も拾える。使ってない間は、認識できない。なにやってもこっちからは触れないけど、そっちからは触れる。ここまでは検証済みだ」
レベル8ということで戦闘力はどうか?
〈第四の目〉で見たかぎりは攻撃力1と、とても戦闘で役立つように見えなかった。戦闘用スキルも皆無。いまのところ、なんのための存在かわからない。カナメいわく、呪熱を緩和してくれたとのことだが……。
もしかしてこんなんでもパーティメンバーに加算され、〈群衆補正〉の対象になるのか?
俺は少しばかり不安になる。
「お前が見た情報では、こやつは我が才能の一部、と。なにがなにやら……」
「ほんとだよ。いまのところ妙な存在としかわからんかった」
カナメの手が一瞬止まり、また動き出す。
彼女は視線だけ左腕の袖へ落とし、やがて小さく息を整えた。
「黒蛇よ。お前は何者だ? 思い出せはせぬか?」
カナメの問いに、空気がわずかに重くなる。
俺は視界を赤く染め直し、黒蛇の声を拾うことができるよう整えた。
《……以前申し上げた通り、拙は自身が何者かよくわかっておりません。なんとはなしに、女体化の呪いにかかわっていると自覚するのみでした。ですが──この御仁の言葉が今や腑に落ちます。主が男神の呪いにより女体化したことで、女神と男神の力が交わり、拙が生まれ出でた。不思議なことに、それが正しいことなのだと、心が自覚しております》
「──俺の目で、秘密にされた部分を見たら、何かわかるかもな」
言いながら、胸の奥が詰まる。
先ほど確認した情報には、〈男神の気まぐれ〉を『視た』時と同様の表示があった。
〈現在のレベルでは開示不能(レベル8要)〉。
一体何が隠されているのか。
俺は視界の色を元に戻す。鈍痛がこめかみから引いて行った。
考えが口を突いて出る。
「もしかしたら、カナメの女体化を解く条件が、あの隠し情報に埋まってるかもしれない。女神に頼る以外の道が、まだ残ってるのかもな」
「……なるほど」
カナメは短く応じ、視線を落とした。
天井灯の光が彼女の頬をかすめ、まつ毛の影が長く頬へ落ちる。
やがてカナメが顔を上げる。
唇を強く結び、潤みを帯びた深藍の瞳がまっすぐ俺を射る。
「ならば、お前にはぜひ、レベル8になってもらわねばな。申し訳ない、が」
逃げ場を失った鼓動が、皮膚の裏側で跳ねた。
「……っ」
視線をわずかに外す。呑みこみきれない言葉を俺は舌の上で転がす。
もう一つの確かめるべき問いを、頭の中で何度も繰り返してから俺は音にした。
「カナメ」
「ん?」
「カナメも──淫魔王と戦うつもりか?」
沈黙のとばりが下りる。俺とカナメの距離が遠のいた──そんな気がした。
壁掛け時計の秒針が、ひと目盛りだけ乾いた音を刻む。
閉じた赤竜革の魔導板帳が灯りを吸い、縁の縫い目だけが細く光る。
舌の奥が乾き、俺の喉仏はひとつだけ上下する。
胸骨の裏で鼓動が行き場を探していた。
隣に座るカナメはすぐに答えない。
膝頭の上で親指と人差し指を合わせて離す──その細かな反復だけが続く。銀の前髪が一本だけ頬に触れては戻る。
俺は赤竜革の魔導板帳の縫い目に触れかけた指先を引き、拳を握り直す。ここで目を逸らせば、すべてが曖昧になる──その予感が皮膚の内側で広がる。
「……無論」
カナメがゆっくりと言葉を置く。
うつむいた顔を上げて、彼女は俺の瞳を見返す。
「我は、〈女神の祝福〉の担い手なのだろう? ならば戦う定めにある。この才は和国の男子の規範となるためのものと思っていたが、違ったのだな」
カナメが正面の壁を見上げた。つられて俺も地図を見る。
四大国と和国に仙島。この世界を彩る国家に、彼女は想いを馳せている。
壁掛け時計が短く刻み、室内の時間を細く繋いでいく。
まるで己に言い聞かせるかのように、彼女は言葉を継ぐ。
「この世に生きる同胞のため。そのために我は祝福されて、生まれてきたのだ。きっとな。いまならわかる。──モブよ」
再びカナメの視線が俺に戻る。
深藍の光がこちらを射抜く一瞬、言葉より先に彼女の唇を塞ぎたい衝動が、俺の喉元までこみあげる。
俺は背筋を粟立てながら、拳を握る力を強める。
微笑みかける彼女の顔を、じっと見つめた。
「我は必ずや、淫魔王とやらを討ち果たそう」
柔らかな声音が、耳を通り過ぎていく。
覗きこむ深藍の瞳から、俺はそっと目を背けた。
両足に力が入らない。
右手で胸骨の上を押さえ、俺は前のめりに体勢を整える。
「そう、か」
弱々しい声が漏れる。
俺は息を整え、もう一音、口に出した。
「……心強い、な」
振り絞った言葉に続けて、左手でももを軽く叩く。切り替えろ──そう自身に命じ、カナメのほうへ向き直る。俺は右手を差し出した。
「俺も頑張らないとな。早いとこレベル8にならないと」
カナメは一拍、差し出された手のひらを見つめ──しっかと握り返す。
指の根に熱が宿り、その力強さが骨まで伝わる。
「……うむ。頼りにしてるぞ、モブ。いつまでも女子のままではいられぬからな。淫魔王とやらは女子では太刀打ちできぬのだろう?」
「そう。戦えるのは男だけだって話だ」
俺はいま、ちゃんと笑うことができているだろうか。
カナメに不安を与えずに振る舞うことが、果たしてできているだろうか。
「そう言えば、質問もうひとつはよいのか?」
「ん? ああ、大丈夫。ひとつ目の質問で一緒に解消した」
「……ならばよいが」
「ああ。これからもよろしくな、カナメ」
「うむ!」
これまででいちばん強く、手と手が結ばれる。
握手を解いたあと、俺は簡単な夜食をカナメの前に用意した。
水稔米で作ったおにぎり三種と、和国から仕入れた白味噌で作った納豆汁は彼女の気に召したようだった。
食後、軒先まで見送る。
銀の尾が月下に消え行くのを、俺は見つめた。
◆□◆
明かりを落とした自室で、俺はひとり月を見ていた。
丸卓と椅子を窓辺へずらし、肘を乗せる。乳白の光が天板を薄く洗い、閉じた赤竜革の魔導板帳の縁だけが糸みたいに光る。
外では風が雑木林を梳き、窓枠がかすかに鳴った。
「親友としてカナメと向き合うって、決めてたのにな……」
二人で食べた夕餉の香りが、まだ部屋に残っている。
鍋から立ちのぼった味噌の香りを楽しむ余裕はなかった。
視線を部屋の中央へ移す。
もうひとつの丸卓の向こう。
さっきまでそこにいたカナメと、喉元に巻き付く黒蛇の影が、残像のように浮かんでは消える。
かぶりを振る。
もう一度外の月に、俺は目を向けた。
「……」
今日、俺は仲間を得るために目的を晒した。
週に二度、命を賭してダンジョンに潜る生活は、上級冒険者学校の生徒にとっても常軌を逸した生活だ。卒業時のレベルが4~5が通例の中、レベル10を目指すのだ。必ずや、超上級や神級ダンジョンへ踏み込む必要がある。
そんな危険と苦労を背負わせるのに、理由を明かさないわけにはいかなかった。
カーラ、アリス、マリー、ルールルーを説得するには必要な行いだったと、俺は納得している。
(だけど、それは)
引き込むための言葉は、同時にカナメを縛る。
責任感の強い彼女が、俺をひとりで淫魔王のもとへ行かせるはずがない。男に戻る道があるなら、彼女はどんな手でも探す。
短い付き合いでも、それだけははっきりわかった。
予定では、二年時の冬に俺はレベル8に到達する。
そのとき黒蛇から得ることができる情報は何か。
カナメが男性に戻る手段は、そこに記されているのか。
レベル8に到達すれば、神級ダンジョン〈天界〉にも入ることができるようになる。元の予定通り、女神の力添えを得て呪いを解く道もある。
(俺は、弱いな……)
とうに決めたはずの覚悟を、無為にしかけた自分に嫌気が差す。
カナメに男に戻ってほしくない。
いやしくも俺は、まだそう思ってしまっている。
だから醜くも、カナメの覚悟を確かめてしまった。
彼女の口から、戻りたくないという言葉を聞きたくて……。
とんだクソ野郎だと、俺は自嘲する。
(もう二度と、迷っちゃいけない)
淫魔王と戦ううえで、カナメほど心強い味方はいない。
ランズやダークの時代と違い、高レベルの男子が二人そろって前に立つことができる。世界を救う道は、彼らの時より近いのかもしれない。
(もし原作通り、カナメの代わりに俺が女体化していれば、こんな苦しみを味わわなくて済んだのかもな──)
カナメと出会い、共に戦い、友情を育んだ。
彼女の横顔に惹かれ、豪胆さに救われ、爛漫さに俺は心奪われた。
俺は、カナメに恋をしている。
だけど、それも今日でお終い。
「さよなら──」
胸の内で膨らむ恋心と情けない自分に、蓋をする。
今度こそ開かないように固く。
月光は白く、隙間風が窓辺のカーテンをゆっくり揺らす。
しばらくの間、月明かりの下に俺は身を置き続けた。
◆□◆
春シーズン第六週の週末。
俺、カナメ、マリー、ルールルーは〈試しの山〉でかつて遭遇した特殊徘徊魔物〈無垢なる大蛇〉の討伐に向かい、これを無事に仕留めた。
それを皮切りに、俺たちは週二回のペースで次々とダンジョンを攻略する。
登山道の朝霞、湿った坑道の鉱粉、地下湖の冷気──日々の匂いが装備に染み付いていく。学内の食堂で交わす杯は増え、校内の噂もまた増えた。
俺たちのパーティが〈ダンジョン狂い〉と呼ばれるようになるのも、さして時間はかからなかった。
第一部『出会い』完




