第48話 決意
春シーズン第六週の二日目、晩。
今夜は半月が浮かぶ。
薄い乳白の光が芝の面を撫で、ところどころに露を拾ってきらりと弾かせた。
踏みしめるたび草がたわみ、靴底の下で柔らかな抵抗が返る。冷えた空気に青葉の匂いが混じり、肺の奥が澄む。
この世界でも、月は衛星だ。
設定資料集によれば、元の世界──俺たちの宇宙から流れ込んだ「思念」が、この小宇宙の在り方を決めたという。
結果、小宇宙は太陽系と似た天体を目指したとのことだ。
書物で読んだ因果が、いまは頭上の円で静かに裏づけられている気がする。
この世界を律する二柱の記述も、俺はまだ覚えている。
太陽の化身──女神エアラ。
月の化身──男神アラオン。
二千年前にかの二柱が地上に生まれ、二柱が力を合わせて生命を創造した時、この世界の人類史が始まった。
月を仰げば、白金の縁の向こうに男神の横顔が潜んでいるような気がする。
昼の陽光の熱には、女神の息づかいが混じっている気もする。
荒唐と笑えばそれまで。
だが、今夜はその寓話が妙に肌に合う。
俺は他愛のない考えを巡らせながら、夜道を歩き続けた。
しばらくして、俺は外套の内ポケットから懐中時計を取り出す。
時計の蓋を指ではじく。
──約束の時間だ。
俺は踵を返し、家路を急いだ。
◆□◆
玄関に入ってすぐ、俺は気づいた。
外靴が消えている。
内側には五足の上履きが玄関と逆向きに並んでいた。
「……は?」
もしかして全員帰った? そんなことある?
脚に力が入らない。腰から下がなくなったような心地になる。
鼓動が急にせわしなくなり、耳の内側で数を刻み始めた。
廊下へ飛び出す。
木床で靴下が滑り、よろめきながら俺は前へ進む。
ダイニングルームの前までたどり着く。勢いよく、扉を開けた。
「──」
カウンター席に、カーラ、カナメ、アリス、マリー、ルールルーの姿。
五人そろってこちらを振り向いた。灯りに照らされたグラスの縁が、彼女たちの前で淡く光っている。
アリスはしてやったりとにやけている。
カナメも袖口で口元を押さえて、肩を震わせていた。
マリーはにこやかに指を組み、ルールルーは無表情で体を傾ける。
申し訳なさそうにこちらを心配しているのは、カーラだけである。
顎先を汗がつーっと落ちる。張り詰めていた緊張がほどけ、膝から力が抜けた。今日いちばん焦った自覚がじわりと遅れてくる。
「も、モブくんっ」
カーラが立ち上がって駆け付けようとする。
俺はそれを右手を上げて制した。
心拍がようやくゆるむ。
俺は扉の縁に片手を置き、喉の渇きをひとつ飲み下した。
部屋の端に五人の外靴が置かれているのを、俺は見つける。
「やってくれたな?」
じろりとアリスをにらむ。
彼女はどこ吹く風と、軽やかに言い返してきた。
「あなたの言い分にムカついてたから、ちょっとした仕返し。おもしろかったでしょ?」
「おもしろいわけあるかぁ! めちゃくちゃびびったわ! 寿命、三日縮んだぞ!」
「お前のうろたえ姿、我は愉快だったぞ!」
「てーめっ……」
俺は立ち上がり、膝についたほこりを手の甲で払う。
カウンターの反対側の壁掛け時計を見やった。
次いで、俺は五人へ向き直る。
「そういうことで、いいんだな? もう引き返させないぞ?」
カナメたちは互いに目配せして、脚の長い椅子から順に降りた。靴下が床を軽く叩く。俺を囲むように、彼女らはにじり寄る。
俺は扉を背に一歩も動かず、彼女らを迎える。
最初に前に出たのはアリスだった。
黄金の瞳が俺をじっと見つめている。彼女の顎がわずかに上がる。肩を引き、胸の前で指を組んでほどく。──決意を形にしてから、彼女は一歩、俺との距離を詰めた。
「なめないでくれる? 私はマーケッタ商会の女よ? どんなリスクがあっても、それを凌駕するとてつもないリターンがあるなら、投資する。私の目が告げている──あなたと関わり続けたほうが儲かるってね。それに」
アリスは自身の首に巻かれたチョーカーに指先を伸ばした。
「あなたは、私の飼い主なんだから。──勝手に捨てるなんて、許さない」
黄金の目に射抜かれ、背が粟立つ。
俺は息をひとつ落とした。
「飼い主になったつもりはないんだけどな? もう外してもいいんだぞ?」
「嫌よ。けっこう気に入ってるの。ファッションとしてもね。もちろん、勝手に目の前から消えるのも、死ぬのも許さない。ずっと、面倒見なきゃ駄目よ?」
そう言って、アリスはウインクする。
一歩下がって、彼女は道を譲った。
続いて右手から二人。
マリーは胸前で指を組んだまま、ルールルーは帽子のつばを軽く押さえつつ、静かに前へ出た。
「あなたの側にいたい──モブ様の決意を聞いて、その思いは一層強くなりました。淫魔族は私にも因縁深い相手。どこまでも、私はお供いたします♡」
「ん」
「二人とも……」
出自が異質なマリーとルールルーは残ってくれるものと俺は信じていた。マリーについては今後の個人クエストでの敵対の不安が残るものの、選択を間違わなければ心強い味方のままいてくれるだろう。
俺は二人に、心からの謝意を述べる。
「ありがとう、心強いよ」
「いえいえ。愛するあなたのためですから。では──」
俺が頭を下げると共に、マリーとルールルーは引き下がった。しれっと赤裸々な発言をマリーが残す。
「え、え?」
「……」
「……」
カーラは聞き間違いかと思ったのか、周囲の反応をうかがい出す。
彼女の視線の先には、鋭いまなざしをマリーに向けるカナメとアリスがいた。
二人の冷たい視線もどこ吹く風と、マリーは笑みを浮かべて糸目をたたえる。
「ふふっ」
故意犯がすぎるぞこの子。俺は苦笑いする。
埒があかんと思い、俺はカーラに声をかける。
「……え~と、カーラ?」
「あ、は、はいっ!」
入れ替わるように、左手から大柄な影が一歩踏み出した。
亜麻色の髪の乙女──カーラ。彼女は両手の指先を合わせ、視線を落としたまま言葉を探す。
「わ、私も参加する。……もともと、強くなりたいと思っていたから、苦労するのは大歓迎だ。それに、嬉しいんだ」
カーラはおずおずと顔を上げる。俺と視線を合わせる。
琥珀の瞳の奥で、灯が小さく燃える。怯えと覚悟が同じ場所で揺れていて、その揺らぎが確かな熱へ変わりつつあるのが見えた。
「ここにいるみんなは、学年でも有数の実力者だ。そのひとりとして私も選ばれたことが、すごく嬉しい。もし君に声をかけられなかったとしたら……そっちのほうがずっと怖かった。ありがとう、モブくん。戦線を支える盾は、私に任せてくれ」
「ああ。こちらこそ、頼む」
以前、〈試しの山〉でパーティを勝たせたいと言って、先行した時の勇ましさが瞳の奥に見え隠れしている。
俺は一礼して、謝意を告げた。
頬を掻き、赤面しながら彼女は後ろへ下がった。
最後に。
銀の流星が、一歩進み出た。
俺は深藍の瞳を見下ろす。浅く息を吸い、額の銀髪を指で払ったのち、カナメは手を差し出した。
握手の合図。
俺たちが幾度となく行ってきた行為を繰り返せと、暗に彼女は言っていた。
俺たちは手のひらを重ねる。
互いの剣だこの固さが触れ合い、こそばゆさを覚えた。
なじみ深くなった感覚は、初めて出会った時のことを、俺に思い出させる。
『──今の我はこの国ではただのボーケンシャというやつだ。共に肩を並べて戦うもの同士、仲良くしてくれ』
『……わかった。こちらこそよろしく』
『うむ!』
奇しくも、あの出会いから俺の旅路は始まった。
指の根元から体温が移る。心が絆されていくのを俺は感じた。
「──ん」
「うむ」
短い応酬は、あのときと同じで、それでいて少しだけ違っていた。
手が離れる瞬間、指先が名残惜しそうに触れ合った。カナメの頬に薄紅が差し、俺の胸の内側も熱を帯びる。
俺は小さく咳払いをする。
決意を宿した五色の瞳に、俺は改めて感謝を述べた。
「みんな、ありがとう」
「……パーティ人数の上限はどうするの? 六人いるけど」
アリスが視線を巡らせる。
彼女の疑問ももっともだ。六人編成はモンスターたちの〈群衆補正〉が適用され、危険性が向上する。パーティを二班に分けることも考えてもいい。
俺はあらかじめ練っていた計画を伝える。
「交代で回すつもりだ。基本、俺は週の前半と後半に一回ずつダンジョンに潜る。学校の指定がない限り、このメンバーと優先して組む。前半か後半かは各自の都合で調整してくれ。体調が悪い時は休む。相性の悪いダンジョンなら待機──その運用でいく。参加頻度は、偏らないようにするよ。……それと」
俺は腰帯に結び付けた魔法の携帯袋に手を伸ばす。
口を開いて、俺はかねてから準備していたものを取り出した。
黒赤装丁の魔導板帳を五冊、時計回りに配る。
カーラ、カナメ、アリス、マリー、ルールルーへ。彼女らが受け取るたびに留め金がちいさく鳴り、手のひらの中で重みが移った。
「パーティ用に用意しておいた。今後の連絡はこれで。直近一年の計画はもう書いておいたから見てくれ。細かい割り振りはまた対面で詰めよう。──明日の放課後、ここにまた集合でどうだ?」
円の各所で小さく首が動く。
板帳をそれぞれの袋へ収める音が重なり、場に落ち着きが降りる。
俺は一歩だけ重心を前に送り、片手を差し出した。
手の甲を上に。シャンデリアの灯りが指の節で細く反射し、五人の視線がそこで留まる。
「みんな、ここに手を重ねてくれ」
俺が言うや否や、動き出したものがいた。
カナメの柔らかな体温が乗る。
その上にマリーの手。次にアリス、ルールルーと順に重なっていく。
悔しげなマリーとアリスとは対照的に、カナメは目尻を緩めている。
最後に、出遅れたカーラが慌てた様子で一番上に手を置いた。
手のひらの中心に六人分の脈が集まり、六つの拍が、一拍に重なる。
「前に〈試しの山〉で組んだ円陣。それと似たようなのをやろう。決意表明ってことで、記念にな」
俺は五人に顔を寄せる。声を低く落として、言った。
「みんな。今日から俺たちは、志を共にする戦友だ。これから三年間、ダンジョンをねぐらにするような生活が始まる。辛いだろうけれど、どうか俺を信じて、ついてきてほしい。代わりに、みんなが困れば必ず助けに動くし、特別扱いもする」
「と、特別扱い!?」
「当然の権利ね。それぐらいはしてもらわなくちゃ」
驚きで肩を跳ねさせたカーラとは対照的に、アリスは涼しい顔で顎を引く。
「まあ♡ 楽しみです」
「ん」
「して、何をしてくれるのだ?」
「まあまあ。そいつは、あとのお楽しみってことで。──それじゃ、パーティ結成を祝って」
合図と同時に、重ねた手の力を一方向へ流す。
俺たちは一斉に腕を振り下ろした。
「よしっ」
張り詰めていた空気がゆっくりほどける。
俺は顔を上げ、彼女らを順に見回す。
カーラは胸元に掌を当て、呼吸をひとつ深く落とす。頬に残る上気が、円陣の余熱を物語っていた。
アリスは髪を払って小さく笑っている。
マリーも似たようなもので、口元を指先で隠しては、眉を少し跳ね上げる。
ルールルーは帽子のつばを指でわずかに持ち上げただけ──表情は平板なのに、目だけがやわらかくほどけている。音にすれば「ふふ」と聞こえそうな、微かな楽しさが瞳の奥に灯っていた。
最後に、俺は視線を左手前へ移す。
カナメの深藍の瞳が、すでにこちらを捉えていた。
細められたまぶたの陰で、短いうなずきが落ちる。高揚や活気に満ちる空気が部屋全体を包む中、彼女と俺の間だけ、ひんやりとした静けさがあった。
◆□◆
五人を送り出したあと、俺は自室に戻った。
本当は食事のひとつでもご馳走してやりたかったが今日は見送る。
部屋の灯りを落とし、俺は窓辺に肩を預けた。
月が、窓の縁で欠けた影を作っている。冷えがガラス越しに腕へ染み込み、指先の汗が引く。
しばらくの間、組んだ膝を抱えながら俺は来訪者を待った。
──コン、コン。
控えめな二拍。窓ガラスを叩く音。
顔を上げ、俺は窓の向こうを見る。銀の髪が風にたなびく。カナメが堀を背にして外に立っている。
ガラス越しに目が合う。深藍の瞳が、合図のように瞬いた。




