第28話 モブの答え
俺はカナメの問いに、すぐに答えることができずにいた。
なぜ俺に聞く? 彼女の内に眠る想いはなんだ?
藍の瞳が、胸底のよどみまで見透かすように揺れる。
返事を急かさない静けさが、かえって胸を締めつけた。
頭上では鱗雲が幾層にも折り重なり、茜に染まった空に広がっている。
雲の隙間からこぼれる薄金の光が運河の波頭を撫で、水鏡に火の粉のような反射を撒き散らす。
川の緩やかなせせらぎが、今は妙に大きく聞こえる。
カナメの香──鼻を抜ける清涼なにおいが、俺の心拍をさらに早める。
「俺は……」
唇が乾き、言葉が舌の裏に貼りつく。
逸らせば楽なのに、どうしてもカナメのまなざしから目を離すことができない。
彼女の瞳に映る自分の姿は、酷く頼りなく、けれど何かを決めねばならぬ者の顔をしている。
『戻ってほしい』
あくまで、仮定の話だ。
カナメは同意を求めているはず。不安になって第三者の意見を聞きたくなったのだろう。
だから「戻ってほしい」と伝えるのが合理的だ。
それに男神ゆかりの呪いといえど、女神に会うことで解呪できる可能性は高い。
女神教国にある聖山アモスから神級ダンジョン〈天界〉へ渡り、最深層にたどり着くことができれば、きっと何とかなる。
喉まで上がった言葉は、吐息と一緒にほどける。
一陣の風が、俺の背を撫で上げていった。
もし、カナメが男に戻ることに成功したら。
カナメは原作どおり英雄への道を邁進するだろう。
アリス、カーラ、マリー、ルールルーとパーティを組み、たやすく淫魔王の膝元にたどり着くに違いない。
──俺は肩の荷を下ろし、ただのモブに戻るのだろうか。
それともカナメの隣に立ち続けるために、レベルを維持し続けるだろうか?
握った拳が湿る。
脈動とともに小刻みに震えた。
視界の縁がわずかににじみ、カナメの長いまつげが夕映えにまばたきする様子ばかりが、鮮明に焼きついた。
「──すまぬ」
カナメが先に、視線を逸らした。
藍の双眸を伏せる。
片腕で反対の肘を抱きしめた。
足元の草を見つめたまま、彼女は小さく肩を落とす。
「お前に問うことでは、なかった、な。どうかしていた。……我の都合だというのに。要らぬことを漏らした。許せ、モブ」
「あ、ああ……」
「どうにか、女神とやらに会う手段、見つけぬとな……」
「……っ」
喉奥から転げた声は情けなくかすれて、誰のものか一瞬わからなかった。
胸板がきしむように痛む。
けれど同時に、ほっとする自分がいるのを痛感し、息が詰まった。
(そうか……。俺は……)
憂いを帯びた深藍の瞳と銀糸のきらめきを前に、俺は自覚する。
俺はカナメが、女性のままでいることを望んでいる。
カナメを心から好いている。
俺の胸に去来する想いは紛れもなく──恋慕だった。
『戻ってほしくない』
その一言を、俺は口に出すことができなかった。
もし言ってしまえば、己の欲と人々の明るい未来を秤にかけ、己の欲を選んだ男だと。
自身の醜悪な身勝手さが、炙り出される気がして──。
俺は、拳を固く結んだまま、黙ってしまった。
□
茜から藍へと境目を移す空の下、カナメと肩を並べて歩く。
提案された「そろそろ帰るか」のひと言以後、互いに言葉はなく、ただ河川敷のゆるい斜面を俺たちは踏みしめていく。
斜面の先で職人外区の道を照らす、魔晄ランタンの群青が漏れ出た。
土手を上がった先の、帰り道を急ぐ職人たちの喧騒がかすかに耳に届く。
湿った草のにおいが靴裏に絡んだ。
俺は土手を登り切る寸前で、ふと足を止める。
胸に、見えない壁が突き当たったような圧が掛かり、息が詰まった。
拳を握れば掌に汗がにじみ、脈の鼓動が耳奥で不規則に跳ねる。
カナメが三歩ほど先で振り返る。
銀のポニーテールが魔晄光を受け、青白く縁取られてふわり浮く。
藍の瞳がいぶかしげに細められた。
「モブ、どうした?」
「……カナメ。ちょっといいか? 伝えたいこと──いや、贈り物があるんだ」
声がかすれたのを自覚し、俺は一度深呼吸する。
夜と昼の入り交じる空気が肺を満たし、冷たさが喉奥に残った。
小袖の懐に忍ばせておいた魔法の携帯袋の口を開く。銀の紐がほどけた。
〈収納魔法〉の霧に手を突っ込んで、青竜の革で張った掌サイズの魔導板帳を一冊そっと抜き取った。
近寄って俺は板帳をカナメの胸元へ押し当てる。
彼女は不意の重みにひとつ瞬きする。手元の本と俺の顔を見比べた。
「これは、お前がよく使っている物、か」
「友情の証だ。この国じゃあ、友だち同士の魔導板帳を使った交流が流行ってるんだ。開いてみ?」
恐る恐る、カナメは留めベルトを外す。
表紙裏の金箔飾りがランタンの灯を受けて鈍く光っている。
ページをぱらぱらめくる。すべてのページはまだ雪のように白い。
彼女は小首をかしげた。
「何も書いておらぬぞ?」
その合間に、俺は袋の奥からもう一冊──対になる赤竜革の板帳を取り出す。
表紙の鱗は深紅を帯び、わずかに香る龍脂のにおいが夜風に紛れた。
「まあ、待て」
俺は手のひらを赤革の表紙へ当て、指先から淡い魔力を注ぐ。
赤光が稲妻のように走り、一ページ目に墨色のインクがすっとにじみ上がった。
同じように、カナメが手に持った本に対しても手をかざし、魔力を流す。
「これでよし」
「ど、どういうことだ?」
「一ページ目」
カナメは驚きのまま最初のページを開く。
月光に揺れるまつげの影が紙面をかすめる。黒い筆跡を見つけて、彼女は息を呑んだ。
【友誼の証、ここに結ぶ。
魔力で書きし言葉は双つの帳を経て、相手の心へまっすぐ届く。
返書は次ページに】
河畔の夜風が紙をふわり揺らす。インクがほのかに輝いた。
カナメはゆっくり視線を上げ、藍の瞳に小さな光を映して俺を見つめる。
俺は手元の本にもう一度、魔力を流す。
自身の本のページに刻まれた文字を、カナメに見せつけた。
【返信はいかに?】
カナメははっとして視線を落とす。
薄闇の下、青竜革の二ページ目はまだ雪白のまま。
胸元で小さく息を吸い、彼女は左手をそっと紙面に添えた。
「軽く魔力を注いでみてくれ」
うなずくカナメの指先に、藍硝子のような光がぽ、と灯る。
次の瞬間──紙の繊維をたどるように淡黒のインクが走り、俺の一文が鏡写しに浮かび上がった。
「お、おおっ……」
「俺からの、贈り物だ。瞑想稽古の返礼をしたいと思ってた。ちょうどいいと、思ってさ」
差し出した赤革の板帳を軽く振り、俺は微笑む。
カナメは戸惑いと喜びをないまぜにした面持ちで、青革の帳を胸に抱え直した。
「どうやって、言葉を記す?」
風でほどけた前髪を耳にかけながら問う声は、どこか心細げな響きを帯びている。
俺は肩をすくめ、穏やかに答えた。
「──思いの丈を浮かべて、魔力を通す」
「わ、わかった」
草むらを渡る夜気がふっと静まり、一冊の帳を照らす藍色がより鮮明になる。
青革のページへ墨が定まると同時に、カナメの細い肩がほっと下がる。
「どうだ? 写ったか?」
「確認する」
俺は魔力を通して手元の板帳を見る。
カナメがつづった藍色の文字が、ページに写し出された。
【貴殿の返礼、ありがたく頂戴す】
「……ばっちりだ」
「おお!」
俺が自身の板帳を見せると、カナメは喜色を浮かべた。
わずかに上向く唇は、満足と照れの混ざった弧を結んでいる。
俺は息を整え、赤革の帳を胸元へ引き寄せた。
胸の奥からすくった言葉を思念に変え、ページへそっと放つ。
指先からこぼれた紅い魔力が霧のように散り、二人のあいだでひときらめき──すぐ淡く溶けた。
「む。いま、書いたな? どれどれ」
カナメは透かし見るように目を細め、自分の帳に魔力を流す。
書き記された内容を彼女は見る。
──頬を染め、髪を逆立てた。
「も、も、モブ……!? こ、こ、これは……?」
「……」
深藍の戸惑う瞳が俺を射抜く。
カナメの肩の力が、すっと抜けたように、俺には見えた。
俺は自身が書いた内容に視線を落とす。
全身が火照り始める。
春先の冷たい風が心地よい。
【あなたが男に戻ろうと、女のままでいようとも。
私は、ずっと側にいることを誓います。
最愛の友、カナメ・ビゼンへ。
モブ・アイカータより、愛を込めて】
「……さっきの返事だ。それを、伝えたかったんだ」
どっちつかずの回答。口にはできなかった分、書いて記す。
いまは、これが精一杯だった。
赤革の帳を魔法の携帯袋にしまって、俺はカナメに近寄る。
カナメの肩を抱く。長く連れ添った友人のように俺は振る舞った。
彼女の肩はひときわ大きく跳ねる。
とがめるようなまなざしを、こちらに向ける。
「な、なにをする」
「飯でも食って帰ろうぜ。腹、減ったろ?」
「そ、それより……」
「なんだよ?」
カナメは視線を落とし、指先で青革の角をそっとなぞった。
ぽつりぽつりと、言葉をつづる。
「わ、我も、その。お前の、こと、を……」
「──俺を?」
「い、一番に想っているぞ! ……ゆ、ゆめゆめ忘るるな! よいな!?」
「わ、わかったよ」
顔を真っ赤にし、俺の胸元でカナメがこちらを見上げながら吠えた。
後生大事そうに、彼女は青竜革の魔導板帳を抱える。
恥じらい、うつむいた横顔が俺の胸に染み入る。
忘れようと思っていた気持ちが押し寄せ、俺はすかさずかぶりを振った。
カナメがどんな気持ちで「一番に想っている」と言ったのか、確かめることはしない。
俺は親友として、カナメと向き合うことに決めた。
俺が抱いた感情は無用なもの──世界を救うために、俺は最善を尽くす。
女神教国の信任を得て〈天界〉へ至る道を開くことを、俺は今後の中間目標に据える。
原作ゲームでは神級ダンジョンはレベル8でないと入場すらできなかった。
昔、中級ダンジョンの下層で移動制限に阻まれたことを思い出す。神級も原作通り同じ制限がかかると見ていい。
(なんにせよ、レベルは必要になる。〈第四の目〉で『視た』情報の開示制限も、途中で明らかになるはずだ)
俺はレベルを上げ続けることを決意する。
何があってもカナメに最後まで付き合う。置いて行かれないように努力する。
カナメが男に戻った時には、一緒に並び立って淫魔王に立ち向かおうと、俺は思った。
(……けれど、手を尽くして、それでもカナメが男に戻れなかった時は──)
今夜は、月がきれいだ。
夜空を見上げると、三日月が俺たちを見下ろしていた。
職人外区の舗装されていない道を踏みしめる。帰りを急ぐ職人たちの雑踏の中を、俺たちは進む。
離れないように、俺はカナメの肩に、彼女は俺の腰に手を回す。
互いの温もりを確かめ合う。軽口を言い合いながら、俺たちは帰り道を歩き続けた。




