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 部活中に怪我なんかしてしまったのは、よそごとばかり考えていたせいだ。

 昨日あんなことがあったのに----いや、あんなことがあったからこそ、おれはいつも通り学校に赴いた。普段通りにすることで、あんなのはたいしたことじゃない、何も変わっていないのだと自分に言い聞かせ、高梨にもそれを知らせたかった。

 それでもやはり高梨の顔を見ることを恐れていたが、教室に上がる前、身構える暇もなく、不意打ちみたいに靴箱でばったり彼と出くわした。

 彼はさすがにいつものようではなく、少し元気なく短く「おはよ」と言った。おれは一瞬だけ戸惑い、しかしすぐにそっぽを向いた。元のように話すのは当分無理だ。

 何も変わっていないと信じていたいのに、何かを奪われてしまったような気がしてならない。

 学校を早退して、どうしたのと驚く母親を無視して、昨日はすぐ部屋に引っ込んだ。ベッドにつっぷして布団をかぶり、話しかけられても返事をしなかった。病気でもないのに粥やらリンゴやらが次々運ばれてきたが、結局ひと口も食べていない。

 暗い布団の中で苦しく呼吸し、高梨のことを思い出していた。振り払っても離れず、むしろ振り払おうとすればするほど鮮明に蘇った。目の前に彼がいたわけじゃないのに、耳を塞いで目を瞑った。そうしてやり過ごすしかなかった。

 せっかく学校に来たのに、授業中はほとんど窓の外を眺めていた。高梨を視界に入れたくなかった。だけど、頭の中はやはり彼のことでいっぱいだった。顔なんて一度も見なくても。

 昨日のことばかりしつこく反芻していたから、足を取られて怪我なんかしてしまったのだ。もう練習も終わろうかというときに。

 足首や骨はどうともないが、膝をひどくすりむいて派手に血が出たため、傷口を洗って保健室へ行けと顧問に言われてしまった。

 いつもなら自分たちで手当てしてしまうのだが、まだ電気がついているからあっちの方がいいだろう、という話になったのだ。最近身が入っていないぞ、とついでに小言をもらった。怪我は自己責任。まったくだ。

 膝はズキズキ痛むけれど、行きたくない。保健室に行けば嫌なことを思い出すだろうし、あそこの先生には泣き顔を見られてしまった。

「失礼します」

 しょぼくれた声で言い、うつむきながら中に入ったら、昨日と違ってすぐに「ハーイ」とのんきそうな返事が聞こえてきた。昨日もこうやっていてくれたのならよかったのに。

「あの、怪我…しちゃったんで。手当て……」

 もそもそつぶやくと、椅子に座るよう促された。あまり顔を合わせたくないひとと、至近距離で向かい合う格好である。

「あらら、派手にやったねー。転んだ?」

 昨日のことなんて覚えてもいないのか、それとも何も気づかなかったのか、彼はおだやかな口調で言った。

 はぁ、と返事をしながら白衣の胸元を見ると、そこに「遠藤」と記された名札がついている。このひと遠藤っていうのか、と思い、少し顔を上げたら、彼の方でも練習着の胸の刺繍をじっと見ていた。

「有森……。日本史の教科書の、有森くん?」

 捻挫の有無を調べるためか、足首をぐっぐっと曲げ伸ばししながら遠藤は言った。

 ああ、とおれは声を漏らした。そういえば、あの教科書はこのひとから高梨に渡ったのだった。

「はい……。ありがとうございました」

 小さく礼を言い、唇を噛みしめる。教科書を渡されたときのことが頭に浮かんだ。たった三日か四日前だというのに、ひどく昔のことのように思える。

 あのときまで、おれと高梨の間には穏やかで明るい空気があるだけだったのだ。それが、ものすごい勢いで変わっていこうとしている。いや、もうすっかり変わってしまったのか。

「どういたしまして。足首は平気みたいだね。元気ないけど、そんなに痛む?」

「いえ……」

「じゃあ、昨日、高梨となんかあった?」

 ドキ、と心臓が跳ね上がる。不意をつかれたような気がした。

 知らないような顔をして、ちゃんと気づいていたんじゃないか。

 どう答えていいものか困り、おれはうつむいたまま唇を強く噛んだ。

「なにかひどいことされたかな?」

 何を知っているんだ、一体。

 反射的に眼差しを向けると、遠藤は消毒液をしみこませた綿球を構えたまま、目だけを上げてこちらを見た。セルフレームのメガネの奥には好青年然とした双眸があるのだが、それが今は妙にうさんくさく感じられる。

 ものも言わずじっと見つめていると、彼はかすかに目元をゆるめて下を向き、ピンセットに挟んだ綿球で傷口をとんとん叩いた。じゅわ、と消毒液がしみて勝手に眉が寄ってしまう。すごく痛い。

「はい、ちょっと我慢してねー」

 ひとが痛がっているというのに、なんだかとても楽しそうだ。手つきも軽快。うう、と呻き声が漏れそうになるのを、おれはぐっと押し殺した。

「ケンカした?」

 え、と言うかわりに、う、と妙な声が漏れる。

 答えなんて告げなかったのに、彼は気にせず質問を重ねた。

「嫌いになったかな?」

 なんだかすごく嫌な気持ちになって、おれはぐっと奥歯を噛んだ。

 さっきから、一体何を言いたいんだろう。何をどこまで知っているんだろう。それがわからないから気持ち悪い。沈黙し、傷の痛みに耐えていると、彼はさらに言葉を重ねた。

「それとも、もともと嫌いだった?」

「ちがう!」

 とっさに声を上げていた。自分もハッとするような大声を。

「ちがう……」

顔が苦くゆがむ。息が震える。

 だって、嫌いなわけがない。あいつはいい奴で、話していると楽しかった。一緒にいるのが好きだった。今だって嫌いなんかじゃない。昨日はびっくりしたしこわかったけど、でもあんなことで高梨を嫌いになったりしない。これまでの時間が急に消えてなくなるわけがない。時が経てばきっと解決法が見つかるはずだし、そうしたら気まずいのだって消えてしまうはず。友だちなんだから。

 傷口に絆創膏を当て、遠藤はうっすらと微笑んだ。

「そう。じゃあ、もう少しの間好きでいてあげな」

 不可解な言葉に、おれはいぶかしく眉を寄せた。

 もう少しの間って、一体なんだ。

「なに? どういう意味……ですか?」

 訊ねたら、遠藤はピンセットをしまいながら「うん」とつぶやいた。目を合わせない。リノリウムの床をしばらく眺め、彼はようやっと口を開いた。

「高梨はもうじきいなくなっちゃうかもしれないからね」

「え?」

 何を言っているのかわからない。

いなくなる? そんなわけないじゃないか。だっておれは高梨からなんにも聞いていない。引っ越すとか転校するとかいうなら、言わないはずがないだろう。

 いなくなったりするわけがない。あいつはずっとここにいて、夜にはおれと一緒になかなか来ないバスを待つのだ。今は気まずくても、いずれこんなのはおしまいになる。きっと元のように話せるようになる。このままなんてことは絶対にない。

 考えをまとめられないおれを見て、遠藤は言った。噛んで含めるように、ゆっくりと。

「高梨んちはね、今いろいろ大変なの。くわしい事情は伏せるけど、夜逃げすることになるかもしれない」

 今度は、え、という声すら出てこなかった。

 あまりの衝撃にまばたきもままならない。遠藤の口からは、さっきから考えてもみないようなことばかりが飛び出す。ついていけない。

 夜逃げ? どういうこと?

 だってあいつは、いつも元気で明るくて、心配事なんて何もなさそうな顔してたじゃないか。

「先生に、あいつが言ったの?」

「そう。ちょっと前から家じゃあんまり眠れなくなってたみたいで、ここによく寝にきてたからね」

 無意識のうちに、椅子の縁を強く握っていた。

 なんだよ、それ。

 驚いたし、戸惑っているし、ひどく悔しい。

 あいつが保健室の常連になったのは、そんなに最近のことではない。

 もうずっと前から悩んでいたということじゃないか。

「なんでおれに言わないんだよ……」

 ショックだった。バスを待つ間でも、昼ごはんを食べているときでも、たくさん時間はあったのに。気づかなかった自分にも腹が立つ。

「言いたくなかったんでしょ。誰だって好きなひとには弱いとこ見せたくないじゃない」

「そんなの……!」

 わかるけど、でも言ってほしかった。好きだなんて言うより先に。

「いきなりで戸惑ってるだろうけど、まあ、きみも悔いのないようにしなさいね」

「悔い……?」

「なんでとかどうしてとか相手は何考えてるんだろうとか想像するより、自分が今なにを思っていてどうしたいかを知ることの方が大事なんだよ。そして、ときにはガツンと行動を起こす」

 これは高梨にも言ったんだけど、とつけ足し、遠藤は微笑した。

 彼は知っているのだ、何もかも。

「さて、手当てはおしまい。長話してたから、みんないなくなっちゃったね」

 おれはさっと窓に目を向けた。そこからグラウンドが見渡せる。真っ暗だ。いつの間にかライトが消え、ハンド部も陸上部も、野球部もサッカー部ももういない。

 患部は清潔に、と遠藤が言い、おれはよろよろと歩き出した。

 ぼうっとしている。順序立てて考えることができず、現実をうまく受け止められない。昨日よりずっとうろたえている。まだ信じられないのだ。

 頭の中はぐるぐるで、着替えるのにやたら手間取った。手間取りついでに手当てしたばかりの膝をぶつけ、死ぬほど痛い目にあった。着替えが最後になったためまた戸締りをするはめになり、当然ながら帰るのがずいぶん遅くなった。

 でも、高梨はきっとあのベンチでおれを待っているだろうと思った。待っていなくてはならないのだと思った。少し傲慢なくらいの気持ちで決めつけたのは、そう信じたかったからなのかもしれない。

 いるはずだと思いながら、胸は不安にさざめき、飲みこまれそうになっていた。それに自分で気づいていたから、おれはわざとゆっくりバス停に向かった。焦れば焦るほど、何かが早足に逃げて行ってしまうような気がしていた。

 申し訳程度のひさし、必要性の感じられない時刻表、吹きっさらしの色褪せたベンチ、輝度の低いぼやけた街灯。

 見慣れたその景色の中に、高梨はちゃんといた。

 おれが近づくとすぐに気づいて、彼はすうっと顔を上げた。そして、笑った。

「昨日はごめん」

 なんであやまるんだよ。

 昨日はあやまってくれと思ったくせに、おれはまるで逆のことを考えた。なかったことにしたかったはずなのに。自分がわからなくてイライラする。くそ、とわけもなく吐き捨ててしまいたい。

「なんで、なんも言わないくせにあんなことするんだよ」

 声を震わせないよう、いつもより低く重く言い、おれは彼の目を見ずにベンチに座った。

「え?」

 どんな顔をしているのか知らないが、不思議そうな声だ。知られていることを知らないからだ。

 本当に、何も知らせないつもりだったのか。

 夜逃げって、どこか遠くに行くってことだろう。誰にも場所を知らせずに。

 本気で、おれにまで何も言わず、突然いなくなるつもりだったのか。

「先生に聞いた。さっき、保健室で。理由は----聞いてないけど。夜逃げって、なに」

 マフラーに顎を埋め、コートのポケットに手を入れて、おれはだらしなく座っている。ふてくされた子どもみたいに。

 高梨は、ふと息をつめた後、まいったな、というふうに笑った。

「あのひと結構おしゃべりだな。守秘義務はどうなってんだ」

「そんなの今はどうでもいいだろ!」

 高梨の健全さに、明るさに、イライラした。

 笑ってる場合かよ。

 埋めていた顎を上げ、おれは彼を睨みつけた。すると彼は真顔になり、それから一瞬だけ途方にくれたような表情を浮かべ、最後にはやはり微笑んだ。しゅっとした眉を下げて、困り果てたみたいに。

 たぶん、遠藤が言っていたように、おれには言いたくない話なのだろう。

 だけどおれは聞きたい。ちゃんと全部言ってほしい。

 じっと見つめると、高梨は小さく息を漏らした。観念した、というふうに。そして、彼はひとごとのような言い方で言った。

「親父がなー、簡単に保証人とかなっちゃって。今、借金取り立てられてんだけど、それがえらい額になっててさ、ちょっとここにいられなくなりそうなんだ」

 悲痛さなんてかけらもにじませず、「ドラマみたいだろ」と彼はうそぶく。胸の奥で何かがチリリと焼けたような気がして、その不快さにおれは眉をゆがめた。

「いつ?」

 とげとげした気持ちがそのまま声になって出た。斬りつけるような問いかけに、しかし高梨は答えない。ただゆるやかに口の端を上げただけ。教えられない、と無言のうちに告げている。

 イライラした。イライラして、泣きそうだった。

 イライラするのも泣きそうなのも、渦巻く不安のせいなのだ。心細くてたまらないと体の中で誰かがつぶやいている。それを聞きたくなくて、知られたくなくて、おれはひどいことを言った。

「……おまえなんか嫌いだよ、おれは!」

 高梨の目がじいっとおれを見つめている。黒く澄んだひとみは少しも揺らがない。

 彼は「そっか」とつぶやいた。それからゆっくりまばたきした。

「でも、おれは好きだ」

 鼻の奥がじんと痺れる。もどかしくて唇がわなわな震えた。

 なんで。

 また考え、無意味だと思った。

 高梨を見ていられず、道路をキッと睨みつける。ずいぶん先にバスのライトが見えたから、おれは彼がそれを知らせる前に立ち上がった。

 ゆるやかに停車したバス。ガタタタン、と扉が開く。じっとしていたくないのに、なぜか乗るのがこわいような気がした。だけどいつも通りを装って、おれはやたらと高く感じられるステップに足をかけた。後ろから、高梨が同じようにバスに乗り込む。乗客はひとりもいない。

 静かだ。やはり、機械の声が浮いている。

 言葉がひとつも出てこない。何を言っていいかわからない。

 いくつも停留所を通り過ぎた。高梨が手を伸ばしてボタンを押す。彼は次で降りてしまう。

「なあ」

 不意に、声が発せられた。すぐ側で。

「なあ、おれが降りたらさ、窓から手を振ってよ」

 驚いて、高梨の顔を食い入るように見つめた。彼はとてもさみしそうに笑っていた。笑っているんじゃなくて、泣くのを我慢しているのかもしれなかった。

 胸が、どくどくと鈍くおそろしい音を立てている。真っ暗な海の中に飲み込まれていくようだと思った。


 ----今日なのか。


「い、いやだ! 絶対……」

 眉が寄って目元がゆがんだ。声は静かなバスの中にやたらと大きく響き渡った。

 高梨は何も言わない。機械の声が停留所の名前を告げる。バスが止まった。

 おれは----どうしたらいいんだろう。わからない。だけど、手を振るのだけは絶対に嫌だ。そんなことしたくない。

 高梨はゆっくりバスを降りてゆく。外に出た彼が、こちらをじっと見つめている。吐き出す息がかなしいくらいに白い。

 おれは硬直したまま、ただ彼を見つめ返した。そしてまた、なんで、と考えた。

 手を振れなんて、なんでそんなかなしいことをあいつは言うんだ。

 唇がへの字に曲がる。何もできないまま、バスが空気の抜けるような音を立てる。動き出す。遠ざかってゆく。

 泣きそうになった。

 これで終わりなのか?

 バスはどんどん進んでいって、高梨は遠くなって、見えなくなって、それで。

 おしまいなのか? おまえなんか嫌いだと言ったまま。

(いやだ)

 思うと同時に、おれは立ち上がっていた。そして運転手のところまでよろよろ歩いて、泣いているみたいな声を出した。

「止めてください、降ります!」

 ええ、と運転手はひどく迷惑そうに言った。だけどおれはひるまず、ただお願いしますと繰り返した。そうしたら、やがてどうしようもなさそうにバスは止まった。

「今日は他にお客さんがいないからだよ。特別だからね」

 くどくど念を押す運転手に礼を言い、おれは慌ててバスを降りた。そしてずいぶん遠ざかってしまった停留所に向かって駆け出した。

 道が暗い。でこぼこしている。周りは田んぼばっかりだ。道沿いに民家もなければひとの姿もない。後続の車なんて、ずっと遠くに一台きり。

 膝がズキズキ痛み、冷たい風が喉を突き刺し、肺まで凍ってしまいそう。

 寒さが不安を募らせる。なぜ今は冬なのだろう。

 高梨が昨日どんな気持ちでいたのかを考えたらたまらなくなった。

 こみ上げてくる涙を何度も何度も振り払う。だけどとうとう間に合わなくなって、ただでさえよくない視界がゆらりとにじんだ。

 走って走って走って、まとわりつく不安を振り払うように走って、やっと探していた背中を見つけた。

 おれは血が噴き出しそうになっている喉で叫んだ。

「高梨!」

 暗く静かなところに、声がわんわんと反響する。アスファルトを踏みつける自分の足音がうるさい。

 高梨はすぐに振り返った。

 一歩、二歩、三歩、大股に駆け、おれは彼に体当たりでもするようにしがみついた。抱きついた、と言った方が正しいんだろうか。とにかく、彼の背中に腕を回してやっと立ち、苦しい呼吸を整えた。

「おれは……おれは、は、初めてだったんだ、キスしたのも、誰かに好きだって言われたのも」

 まだ乱れている息の下でそんなことを言った。声は潤んでいる。なんでいきなりそんなことを言ってしまったのか知らない。知らなくても、口は勝手に動いていた。

「うん……ごめん」

 高梨は突っ立ったまま弱々しくつぶやいた。

 だけどそんなことは聞きたくない。あやまらせたかったわけじゃない。

 おれは彼の背中につかまる手に力を込めた。

「あやまんなよ!」

 鼻の奥がじんじん疼き、目の裏が熱くなって、涙がぼろぼろこぼれてきた。かなしくてせつなくてもどかしくて、このまま死んでしまいそうだ。息が苦しい。

 ごめん、とみっともなく震える声で、今度はおれの方が言った。

「ごめん……ごめん、嫌いって言ったの嘘だよ、ごめん」

 おれはもう完全に泣きじゃくっていた。

 本当は、もっと言いたい言葉は別にあった。だけど言えない。

 今告げなければたぶんもう次はないのに、胸が震えてどうしても言うことができないのだ。

「わかってるのに、言葉にできない」

 喉から絞り出すようにしてやっと告げたら、高梨は「うん」とつぶやいた。

 彼はしばらく沈黙して、それからゆるゆる口を開いた。あのときおまえに言えなかったことを言うよ、と。わかっているけど言葉にできなかったことを。

「まだ、うまく言えないんだけど」

 高梨の声はかすかに震えている。こんなことは初めてで、おれはひどく心細くなってしまって、彼のコートをくしゃくしゃになるまで握りしめた。

「すごくつらいことがあったとき、おまえは当たり前に隣にいて、いつもと同じに子どもっぽいこと言っててさ。すごく普通で、でもなんかやたらとかわいく思えて、ああずっとこういうふうに一緒にいられたらいいなっておれは思ったんだ。ずっと笑った顔見られたらいいなって。……だから、おまえにだけは絶対、つらいとか、かなしいとか、そういうこと言いたくなかったんだ」

 理由になってないかな、と高梨はつぶやいた。おれは喉が震えて何も言えず、ただ彼の肩に額を当てたまま首を振った。大きく、左右に。

「それで……言わずにいるうちに、今日になってた。……こんなに泣かせちゃって、ごめんな」

 そう言ったとき、高梨がどんな顔をしていたのかを見ていない。

 その後はひとつの言葉もなく、ただ息がつまるほど強く抱きしめられた。

 それが最後だった。


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