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3/5

 その日の朝から、高梨の具合が悪そうだったことを知っていた。

 挨拶は普通にかわしたけれど、なんとなくいつもの覇気がなかった。

 めずらしく敏感にそれを察知したのは、うしろめたい気持ちがあったからかもしれない。

 昼休みに入ってすぐ、高梨がよろりと廊下に出るのを見た。ふたりケンカしてるの、と隣の席の女の子に訊ねられた。最近お昼別だよね、と。よく見ている。おれは何も答えられなかった。

 高梨はそのまま五時間目がはじまっても帰ってこず、おれは今悶々とシャーペンを回している。

 彼は、たぶん保健室にいるのだろう。鞄があるから帰ってはいないはずだ。ずいぶんしんどそうだった。風邪だろうか。いつも元気なのに。

 気になって仕方ない。おまえが気にすることじゃないだろ、と思ってもやはり気になる。好きだと言われたせいだろうか。そうかもしれない。違うかもしれない。

 好きだなんて言われなくても、彼の調子が悪そうだったらおれは心配になったはずだ。でも、言われたあの日から、異様なくらい高梨のことばかりが頭の中を占めている。それもまた確かなことなのだ。

 シャーペンをぽとりと落とし、おれは勢いよく立ち上がった。

「気分が悪いので保健室に行ってきます」

 教室が、風に揺れる木の葉みたいにさわさわとざわめいた。唐突な発言を先生がすぐに聞き入れてくれたのは、たぶんおれがひどく深刻な顔をしていたからだと思う。

 教室を出るとき、なんだか胸がドキドキした。

 なんであんなことを言って、おれは保健室なんかに向かっているんだろう。だって、行ってどうするんだ。保健室に行って、寝ているだろう高梨に「大丈夫か」と訊ねるのか。それなら休み時間になってからでもよかったじゃないか。

 自分の行動の不可解さに戸惑ったが、出てきてしまったものはどうしうようもない。おれは高鳴る胸を押さえながら、保健室のドアを開けた。失礼します、と声をかけたけれど、怪我をしたときくらいしか訪れないその部屋はしんとしていて、ファイルのたくさん並んだ机の前に先生の姿はなかった。

 どこかウロウロしているんだろうか。おれはそーっとドアを閉め、なんとなく薬くさいような気のする部屋の中を見渡した。みっつあるベッドの、一番端っこだけカーテンが閉められ、外と遮断されている。

 たぶん、あそこに高梨がいるのだろう。

 そう思ったら、喉がカラカラになってしまった。

 ごく、と唾液を飲み込み、ちょっとだけ、と誰にともなく言い訳する。

 もしも高梨が起きていたら、様子を見にきてやったぞ、といつもみたいに言えばいい。少し恩着せがましく。そして、おれもさぼっちゃおうかな、とかなんとか笑えばいい。

 カーテンをつかむ手は少し震えていた。だけどおれは気づかないふりで、そうっとそれをめくって中をのぞいた。

 ベッドに横たわっているのは、やはり高梨だった。

 彼はぴくりとも動かず、目を閉じて静かに息をしている。眠っているのだ。

 ホッとして、それからどうしたんだろうと心配になった。顔色がよくない。今日はきっとさぼりじゃなくて本当に具合が悪いのだ。二年ほどのつきあいだが、高梨がしんどそうにしているところなんて初めて見た。

 大丈夫かと訊ねようにも本人は寝ているし、先生は留守。そしておれは気分が悪いと言って出てきた手前すぐには戻れない。勝手に横になるのも気が引ける。

 どうしようかなと少し迷って、おれはベッドの傍らに放りっぱなしになっている丸椅子を引き寄せて座った。なんだか病院に見舞いにきたみたいだ。

 眠っている高梨の顔を、じっと見つめた。ここ二、三日ろくに目も合わせられなかった彼。

 すうっと凛々しい眉の下で、いつも力強い光を放つ双眸が今は閉ざされている。

 眠っているのだと思ったら安心だった。

 あまりまじまじ見たことはなかったけれど、一般的に見てやはり男前だと思う。男らしい顔なのだ。その上明るく屈託なく、誰にでもおおむね親切だから、彼は女の子にとてももてる。----もてるくせに。

 なんでおれなんだ?

 言葉にできないことって、どんなこと?

 胸のうちで問うてみるが、もちろん答えなんて返ってくるはずがない。高梨は眠ったまま。ピンと長い前髪が、瞼にひとすじかかっている。ちくちくしないか。

 気になって、おれはそこに手を伸ばした。触れてみると、彼の髪は思ったよりもやわらかかった。手触りが気持ちいい。それを掻き上げてやり、ねこっ毛なんだな、と思ったとき、いきなり手首をつかまれた。驚くほど強く。

「あ……っ」

 悪いことをしているところを見られたみたいな気持ちになった。

 高梨の目が、いつの間にかぱっちり開いている。吸い込まれそうと言うよりも、射抜かれたようになって動けない。彼は笑わず、無言で、むくりと起き上がったかと思うと、すごい力でおれの手を引っぱった。

「わ……!」

 気づいたときにはベッドに引きずり込まれており、自分の上に高梨の体があった。押し倒され、二の腕を押さえつけられていたのだ。

 どく、どく、と心臓が痛いくらい大きく打っている。唇がわななく。

 何も言えない。高梨が、こわい。なんだか知らないひとみたいな目で、彼はおれを見下ろしている。影の射す顔には表情がない。言葉が通じそうにない。現実が急に遠くなった。まるで悪い夢の中のよう。

 高梨、と、おれはそれでもなんとか呼ぼうとした。しかし、「た」という音を紡ぐより先に、彼は覆いかぶさってきた。

 唇が乱暴に塞がれる。また、キスされているのだ。だけどこの間みたいにそうっとじゃない。

 顎を押さえられ、無理に口を開けさせられたかと思ったら舌が中に押し込められた。

 驚いて、情けないことにおれはそれだけで泣きそうになってしまった。ぬるる、と高梨の舌が自分の舌に触れ、上顎をくすぐり、前歯の裏側にまで触れる。信じられない。ありえないことだった。

 なんで、こんな、いきなり。

 どういうきっかけがあったっていうんだ、一体。

「ん、ん……っ、んー!」

 逃げようとすればするほど唇がべたべたに濡れた。ドン、ドン、と肩を叩き、やっと解放されたかと思ったら高梨の顔が自分の首筋に埋められた。肌に熱い息がかかるのを感じ、彼の手があわただしくシャツのボタンを外そうとしているのを知って、体中が緊張した。学ランとシャツを押し広げられ、胸がすうっと空気に触れる。

 え、なに、と胸の中で間抜けな自分がぽかんと口を開けている。なに、じゃねえよ、ともうひとりの冷静な自分がわめいた。

「やだ!」

 泣きそうになりながら叫んだ。静かな部屋に、声が反響する。だけど誰も助けになんてきてくれないし、高梨はひるまず、ベルトにまで手を伸ばした。

「や、やめろっ、バカッ! なに……っ」

「なにされるか、わかんない?」

 今まで黙っていた高梨は、当たり前みたいな声で言った。普通に話をしているみたいに。彼の様子があんまり落ちついているから、おれはなんだかこわくなって、目を開いたまま固まってしまった。その間に高梨はベルトを解いた。

「や……!」

 我に返って大声を出そうとしたら、手で口をふさがれた。

「大きい声出したら、ひとが来るよ」

 囁かれたとたん、ぞわっと背中が寒くなった。

「ふ、ぅ、う……っ」

 こわい。なにをされるんだ? わからない。……わからない? 

 ちがう、わかる。わかるからこわい。

「有森」

 高梨が呼んだ。耳のすぐ側。唇が頬に触れ、声は熱を孕んでいる。その声で、すきだ、と彼は囁いた。なぜか目の際がじわっと濡れた。

 好きなのになんでこんなこわいことするんだよ。

「う、ぅく……」

 目をつむったら、ぼろっと涙がこぼれ落ちた。泣くしかできないなんて恥ずかしい。

 視界を閉ざしてぼろぼろ泣きながら固まっていたら、手のひらがゆっくり離れた。

 呼吸が楽になり、おそるおそる瞼を開ける。

 高梨は放心したような表情でおれを見つめていた。その目がうつろで、急にかなしくなってしまった。かなしいよりこわい方がましだった。

 あやまってくれよ、と思った。そうしたら許すから。なんにもなかったことにしていいから。

 だけど、高梨はごめんという言葉をとうとう口にしなかった。指で涙を拭っているくせに。

 なんでだよ。だっておまえは答えを欲しがらなかったじゃないか。言わなかったおれが悪いのか。ちゃんと考えなかったのが悪いのか。でも、なんて言えばよかったんだ。全然わからなかったのに。

「おまえなんか大嫌いだ!」

 泣きながら、苛立ちまぎれに子どもみたいなことを言い捨て、おれは転がるように保健室を後にした。高梨の顔を見なかった。

 廊下を走っているうちに、保健室の先生と行き当たり、あやうくぶつかりそうになった。一体どこに行っていたんだ。今さら遅い。

 眼鏡をかけた若い男をぐっと睨み、一歩後ずさって、また駆け抜けた。

 呼び止められたけれど、振り返らない。泣き顔を見られたのが恥ずかしかった。

 そしておれは、その日初めて学校を早退した。

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