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晩ごはんを食べるときも、風呂に入るときも、夜眠る寸前まで、おれは悶々と考えた。まるで自分の世界に高梨しかいなくなってしまったかのように。そのことだけを考えた。なのに。
どうしてあいつはいつも通り、廊下側の席で女子と楽しげに話なんかしてるんだ?
ちょっとからかっただけ、とか、明るく笑うつもりなのか、あのやろうは。
笑えるか。こんなの全然おもしろくない。もう絶交だ。口もききたくない。
「おはよー」
教室に足を踏み入れたとたんかけられた声は普段と変わらず伸びやかで、向けられた笑みはまったくもって健全だ。おれは一瞬立ち止まり、何か一言厭味でも言ってやろうとしたのだが、思いつかなかったから結局やめた。できたのは、ただ子どものようにぷいっと顔をそむけることだけだった。
こんなやつは知らん。絶対、当分口なんてきいてやらない。
高梨と話していた女の子が「ケンカしたの?」と言っているのが聞こえた。彼は何も答えない。今さら自分のやったことの深刻さに気づいたのだろうか。
遅いんだよ、バカ。心の中で罵りながら、おれは自分の席に向かった。冬にはうれしいポカポカの窓際。しかし、教卓の前を通り過ぎようとしたとき、ぐっと腕をつかまれた。振り返ると、そこに高梨が立っていた。
「……な」
なんだよ、と怒鳴るつもりだったのに、言葉は消えた。高梨がやたら真剣な顔をしていたからだ。彼はたいていにこやかだから、急に真面目な目で見つめられるとひるんでしまう。昨日だってそうだった。こっちは何も悪くないのに。
「有森、ちょっと来て」
うん、なんて素直に答えるつもりは全くなかった。だってしばらく許してやるつもりはなかったのだ。
しかし、高梨はおまえの答えなんてどうでもいいと言わんばかりにぐいぐい腕を引っぱった。上背のある彼に、ひきずられるような格好だ。
「ひ、引っぱんなよ、おい!」
みっともないじゃないか。そう思って言ったのに、高梨はどんどんと廊下を歩いてゆく。おれはまだ鞄も置いてなければマフラーも外していない。すれ違うやつらがちらちらとこちらを見ている。当たり前だ。男が男に手を引かれているなんて、誰がどう見たっておかしいだろう。
「高梨!」
腕が痛い。振り払おうとしてもかなわず、廊下の一番端っこ、今の時間は人気のない特別棟側まで連れて行かれ、角っこのところにドンと体を押しつけられた。
背中が壁にぶつかる鈍い衝撃に一瞬だけ目を瞑り、すぐにキッと睨み上げたが、高梨の顔があんまり近くにあったから、たちまち睨む力はゆるんでしまった。両手でおれの肩を押さえつけるようにしながら、彼は言った。
「昨日言ったの、嘘じゃないから」
声が真剣だった。
だから、おれは戸惑った。
なんでだよ、と思う。からかわれたのだと感じたときは絶交だと憤ったくせに、嘘じゃないと言われたら困ってしまったのだ。かろうじて彼から目を離さなかったけれど、視点が落ちつかない。
嘘じゃないってことは、本気で好きだということで、おまけに彼はキスなんかしたわけだから、友だちとしてとか、そういう爽やかな感情から言っているわけではない。それくらいはおれにだってわかる。
「いつから……」
おれをそういう目で見てたんだ?
「わかんない。でもたぶん、だいぶ前からなんだと思う」
ごく、と思わず喉を鳴らした。だいぶ前からって、じゃあおれが鈍いのか? 全然、少しも気づかなかった。でも、気づかないだろう、普通は。
なんだか急に、高梨に押さえつけられていることがこわくなった。心臓が変に脈打っている。
告白されたんだ、こいつから。
おれは一体なんて言えばいいんだろう。駄目だって言えばいいのか? そもそも駄目----なのか?
……うん、駄目なのは駄目だ、やっぱり。
考えられない。でも、駄目って答えたらおれたちはどうなってしまうんだろう?
「な、なんでそんなこと急に言うんだよ」
答えられず、おれはつい高梨を責めてしまった。あ、よくない、とすぐに思ったが、気づかないふりで撤回しなかった。だって、やっぱり急すぎる。そうだ、言うにしてもタイミングってあるじゃないか。卒業前とか、バレンタインとか。いきなり、きっかけもなく言うなんて変だ。こんな、日常の続きみたいに。
「なんで、こんな、なんでもないときに」
ちら、と目を伏せ、また上げて、そうつぶやいたら高梨は少し驚いたような顔をした。それから彼は眉尻を下げて笑った。いかにもおかしそうに。だけど最後に細めていた目を開けたとき、そこにほんのわずか自嘲的な色が浮かんでいるように見えた。
「急に言いたくなったんだ」
そして彼はまた真顔になった。
「なかったことにするなよな」
囁くように言われ、肩をつかむ手に力がこめられた。なぜか、びくっと体がすくむ。相手は見慣れた友だちだというのに。全然知らないひとを前にしているかのような心細さを覚えた。
おれが何も答えられないでいるうちに、高梨は肩を離した。そして彼はゆっくりと一歩下がり、背中を向けて行ってしまった。言いたいことは言ったから、とでもいうふうに。
おれはと言えば、壁にもたれたままぴくりとも動くことができない。
しばらく呆然と立ち尽くし、そうしているうちに頬に血が集まってきた。みるみるうちに熱くなり、足はかくかく震えはじめ、立っているのがむずかしくなる。仕舞いにはへなへなとその場にしゃがみこんでしまった。ひどく動揺している。でも、本当だったら昨日こうなっていたはずだったのだ。
本気だったのか。
改めてそれをつぶやくと、頭の中が燃えるようになって、唇が震えた。うずくまったまま動けない。
立ちたがらない足を叱咤して、どうにか教室には戻ったものの、授業なんか耳に入ってくるわけがなかった。練習だって身が入らず、いつものように昼ごはんを一緒に食べるどころか、その日は高梨を見ることすらできなかった。
毎日のことながら、部活が終わると空はすっかり夜の色に染まっている。
だけど今日はその紺色が特に深く、遠いように感じられる。学校からバス停までのさみしい道に人影はない。陸上部の練習が終わるのを見届け、部室の戸締りを買って出て、だらだら時間をつぶしていたせいだ。
高梨とふたりになりたくなかった。
今ふたりになって、自分がどういう顔をするべきなのかわからない。どういう顔になってしまうのかもわからない。
たっぷり三十分は時間をつぶした。八時二十分を少し過ぎている。もう彼はあそこにいないはずだ。なんだか姑息な気がしないでもないが、他にいい方法が思いつかなかったのだから仕方がない。
だけど、今日逃げたところで、明日はまた教室で顔を合わせる。
先延ばしにしているだけだよな、と思いつつとぼとぼ歩き、バス停の明かりが見えるところまで来て、おれはぴたりと足を止めた。
高梨が、いる。
相変わらず人気のないところに、ぽつんとひとり。
なんで? おまえはずいぶん前に学校を出たじゃないか。バスだって一本は確実に来ただろう。あんなに時間をずらしたのだから。
どく、どく、と胸がはやく打つのを感じたが、いつまでも立ち止まってはいられない。
おれは、ゆっくりベンチに近づいた。すうっと高梨が顔を上げるのを、側に突っ立ったまま見つめていた。
「なんで、まだいんの?」
抑揚のない問いかけに、彼は微笑んだ。
「おまえを待ってた」
「なんで待ってんだよ」
「一緒に帰りたかったから」
答えがあまりにも明瞭すぎて、逆におれは口ごもった。
なんで一緒に帰りたいんだ、とは訊かない。訊いたらきっと、予想通りの答えが返ってくることだろう。だからその部分は飛ばしてしまった。
「なんで……おれのこと好きなんだよ」
まばたきもしないまま訊ねたら、高梨は少し考えるそぶりをして、結局困ったように首を傾げた。
「さあ……」
不意打ちをくらって呼吸が止まった。
別に自分の知らないようないいところを挙げていってほしかったわけではないけれど、さあ、なんて言われるとは思っていなかったのだ。
「さあって……」
知らず、声に不信の色がにじんだ。しかし、なんなんだよ、とつぶやく前に高梨はやわらかい言い方で言った。
「わかってるけど、わかんない」
「は?」
「自分ではちゃんとわかってるけど、言葉にできないことってあるだろ。熟したら、たぶん言えるようになるんだけど。今は硬くて包丁も入んない感じ」
座れば、と高梨は促した。おれは彼の言ったことの意味を考えながら腰を下ろした。
わかってるのに言えないことなんて、あるだろうか。
「ほんとはさ」
うつむいて黙っていると、高梨はつぶやいた。声には少し笑みがまじっているように聞こえたが、見てみると彼は困った顔をしていた。
「ほんとは、一生言うつもりなかったんだ」
かなしそうな目だ。どうしてだろう。疑問に思ったものの、おれは彼をかわいそうだと思わずに顔をしかめた。
「だったらなんで言ったんだよ」
言われない方がよかった。好きだなんて聞きたくなかった。聞かなければ悩まなくてすんだのに。
彼はふと遠い目になり、すう、と顎を上げて前を向いた。向かいのバス停の屋根より少し上、冬の夜空を眺めているようだった。
「このまま、おれの中だけで終わっちゃって、おまえに知られることないのかって思ったら……、急に……。知られずにいるよりは、知ってもらった方がずっといいんじゃないかって気がしたんだ」
高梨がなぜ急にそんなふうに思ったのかわからない。だけど、なんだかひどい罪悪感がこみあげてきた。だっておれは自分のことしか考えていなくて、本気で好きだと言ってくれた彼のことを迷惑に思ってしまっていたのだ。おれはおまえと友だちでいたいのに、なんでそんなこと言うんだよ、と。相手の気持ちを慮ることもせず。
自分のことを、嫌なやつだな、と思った。それでもおれは何も言えない。なんて言っていいのかわからない。高梨はおれを好きだと言ったけど、なかったことにするなと言ったけど、かと言って答えを求めるでもない。返事をするべきなのかどうなのか、それすら判然としない。
高梨のことを、もちろん嫌いではない。好きだ。話していると楽しいし、一緒にいたいと思う。だけど、それが彼の言う「好き」と一緒なのかどうかは判別がつかない。あまりにも境目が曖昧すぎて。
離れたくはないけれど、近づきすぎるのは----違う気がする。
そのことをはっきり告げるべきなのかどうか。彼は告げてほしいのか。告げたらどうなるのか。
答えを促さないということは、高梨もこのまま友だちでいたいと思っているんじゃないだろうか。そんな都合のいいことを考える。それは自分の望みでしかない。
さまざまに思い巡らせているうちに、高梨は空を見ていた目をこちらへ戻し、やわらかく微笑んだ。練習がきつかったのか、時間が遅くなったせいか、その顔はいつもより少し疲れているように見えた。
「バスが来たよ」
不意に高梨はそう言った。おれはぼんやりと道路を見やった。
知らないうちにバスは停留所に滑りこみ、ぎこちなくドアを開けようとしているところだった。