1
山側へ行くか、市内に行くか。
そのどちらかで、下校の事情には天と地ほどの差が出てくる。
何って、バスの話である。
学校から市内方面へ行くバスはいつも混み合うが、駅を経由するため夜になっても本数が多い。それに対して学校から山の方へ行くバスは、スカスカに空いていて座り放題だが、極端に数が少ない。
部活が終わる頃、市内側のバスが一時間に五本あるのに対し、山側へ行くバスは実に二本という少なさだ。居残りなんてしようものならバス停で待つ仲間の数は限りなくゼロに近くなる。利用者も驚くほど少ないのである。
せつないことに、おれは少数派、山側へ行く方の人間だ。
練習で使ったハンドボールをみんなしまい終え、自転車で軽やかに帰ってゆく友人たちと別れてバス停に来てみれば、申し訳程度にあるひさしの下に待ち人はたったのひとり。向かいにある市内行きのバス停はからっぽ。そういえば、ついさっきパンパンに人間の詰まった車両が通り過ぎて行くのを見た。みんな乗り込んでしまったのだろう。
薄ぼんやりとした街灯の下、ところどころ欠けた水色のベンチに座り、マフラーに顎を埋めるようにして寒さをしのいでいるのは、同じクラスの高梨航大だ。見慣れた光景。彼の所属する陸上部とおれの入っているハンド部はだいたい同じ時間に練習が終わるため、一年のときからよく一緒にバスを待つ仲なのである。
暑い中寒い中、なかなか来ないバスを待つ時間のつらさは経験した者にしかわからない。一年間同じ山側のつらさを分かち合った彼と、二年になってまた同じクラスになったときは無条件にうれしくなったものだった。
「ウース」
ベンチに近づいてゆくと、気配に気づいた高梨は顔を上げてニコッと笑った。女子の間で「カワイイ」と定評のある笑みである。凛々しい眉の下にあるつり目がひとなつこく細められる様子は、まあ確かにかわいいと言えないこともない。
冷たい風が高梨の黒い髪を散らし、吐く息を真っ白くけぶらせている。二月の夜の空の下、コートとマフラーをつけていても彼はまだ寒そうだ。
「お疲れー。今何時?」
隣に座るなり、おれは時間を訊いた。
コートをまくった彼の手首を見てみると、時計の針は八時を指そうとしているところだった。あと二十分は待たなければならない。七時五十分のバスが行くと、次は八時二十分まで来ないのである。だから、山側の人間はみんなものすごく頑張って七時台最後のバスに乗ろうとするのだが、おれはしょっちゅう遅れてしまう。筋トレとかストレッチにやたら熱中してしまうせいだ。
個人でやっているから歯止めがきかず、気づけば時間が経っている。高梨もそうだと言っていた。特に彼は、前に痛い思いをしたことがあるとかで、どうしてもストレッチをいい加減にできないらしい。
「行ったばっかかあ」
「十分経過してるのに行ったばっかだと感じさせるこのバスがすげーよな」
「そーだよ。向こうならあと二分も待てば次のが来る」
これまで何度ぼやいたかわからないことをまた口にして、おれはムッと眉間を寄せた。
さっきまで体はぽかぽかだったのに、寒さのせいでもう鼻の頭が冷たくなっている。コートの下に学ラン、その下に今日はセーターまで着込んでいるというのに、風がどんどん体を通り抜けていく気がする。
高梨は、こちらに目を向けて小さく笑った。
「でもおれは、ここでバス待つのがあんまり嫌いじゃなくなったよ」
思いも寄らぬ発言に、おれはベンチにもたれさせていた背中を伸ばした。
「うっそ。たりーよなってずっと言ってたじゃん」
「だからー。嫌じゃなくなったって言ってんの」
なくなった、という部分を強調されたが、それでもさっぱりわからない。おれは一年のときと変わらず、バスを待つのが嫌いだ。だから、「変なの」と口を尖らせた。
高梨は眉を下げて笑い、やがて何か思い出したような表情を見せ、鞄を探りはじめた。
「それより、おまえ、落とし物しただろ」
「え?」
「ハイ。有森駿くん。高二にもなって教科書にクラスと名前書くかあ?」
おかしそうに高梨が取り出したのは、昨日どこかでなくしたと思っていた日本史の教科書だ。裏表紙に汚い太い字で自分のクラスと名前が記されている。2‐2。有森駿。
「うるせーなー。こうやって落としたときのためだよ。おれはよく物をなくすんだ」
からかわれたのが恥ずかしくて、でも恥ずかしいと思っていることを知られたくなくて、おれはむっと頬に力を入れて唇を尖らせた。本当は母親がうるさいからだ、なんてちょっと言えない。
「かわいい顔するなよ」
「してねーよ!」
さらにからかう高梨を怒鳴りつけ、唇を引き結ぶ。いかん、こういうときはムキになった方が負けだ。
「どこで拾った?」
冷静さを装って本を受け取り、ほんの少し首を傾げる。なにせ、自分がどこで落としたのかもわかっていなかったのだ。
「拾ったのはおれじゃなくて保健室の先生。特別棟の二階歩いてたときに見つけたんだってさ」
ああそうか。視聴覚室に行ったときか。
おれは落とした場所の見当をつけ、納得したあとに首を傾げた。
「なんで保健室の先生が特別棟なんかウロウロしてるんだ?」
頭の中に、若い男の養護教員がぼやーっと浮かぶ。眼鏡と白衣ときっちりしめられたネクタイ。おれは話したことがないのだが、世話になった者はみんな「なんかうさんくさい」と言っている。そもそも保健の先生が男だという時点でうさんくさい。
「さあ。なんか用事あったんだろ」
なんにせよ、本を拾ってくれたのはありがたい。お礼を言った方がいいかなと考えながら、ふうん、とつぶやき、あれっと思った。
「なんでおまえが預かってんの?」
「おれ、最近常連だもん」
「あ、ときどき消えるのって保健室行ってんの? 買い食いしに行ってんのかと思ってた。どっか調子悪いのか?」
心配になって訊ねたら、高梨はいかにも健康そうな顔でニッコリ笑った。
「眠いだけー」
心配のしぞんというやつだ。
「そんなことだろうと思った」
呆れてつぶやき、一応礼を言ってから教科書を鞄にしまった。
「保健室の先生ってどんな感じ? なんかみんなうさんくさいって言うけど」
「わりと普通だよ。でも……、そうだなあ、ときどきうさんくさいな、やっぱ」
うさんくささを思い出しているのか、高梨は「うん」とひとりでうなずいて自分の言ったことに納得している。
「どっちだよ。結局うさんくさいわけ?」
「うーん。見た感じとか話した感じはまともなんだけど……。なんつーか、前身が知れないっていうか」
「ぜんしん? 全体図ってこと?」
「違う違う。一見好青年ふうだけど昔はどうかなって感じがすんの。ときどき。でも、話おもしろいよ」
へえ、とおれは相槌を打った。ちょっと興味が出たが、話す機会はないかもしれない。
「そうなんだ。だけどおれ、保健室行くことないからなぁ」
「おまえ、ものすごい健康体だからな」
「ひとを馬鹿みたいに言うなよ。おれだってたまには風邪くらい引くんだ」
だいたい正月なんだけど、とつけ足したら、高梨は肩を揺らして笑い、白い息を吐き出した。キャラメル色のマフラーに顎を埋めている様子が妙に子どもっぽい。
彼の笑みにつられて、おれはふと目を細くした。
最初このバス停で高梨と一緒になったときには、彼のことをなんだか近寄りがたい感じだなと思っていた。なのに、それがもう嘘みたいだ。
あのときもやはりとても帰りが遅くなって、ベンチにはおれと彼しかいなかった。
一年の初めのことだ。
片づけなんかの雑用はみんな一年生の役目だったから、ぐずぐずしているとびっくりするくらい帰る時間が遅くなった。他の部の事情も同じようなものだっただろう。バス停にひとがいたことにおれは少しホッとした。街灯が頼りない上に人通りも車通りも少ないから、夜はひとりだと気味が悪いのだ。
バスを待っているひとが高梨だとすぐにわかった。まだ高校に通いはじめてから何ヵ月も経っていなかったし、話したこともなかったけれど、彼はちょっと有名だったからもう顔と名前を覚えていた。スポーツテストの五十メートル走が学年一位だったとかで、女子がきゃあきゃあ騒いでいたのだ。
騒がれていたのは、足が速いだけでなく彼の容姿が標準以上だったせいもあるだろう。奥二重の、切れ長の目がいいとかなんとか言っていた気がする。あんまりうるさく噂していたから、おれはしゃべったこともない高梨が中学のとき陸上部だったことまで知っていた。
相手はクラスメイトだというのに、なんとなく声をかけることができなかった。別におれは人見知りする方でもないのだが、彼は黙っていると少し冷たそうに見えたし、何か自分とは人種が違うような気がしたから、どういうことを話しかけていいのか思い浮かばなかったのだ。
拳ふたつ分くらい間をあけて、ベンチにぎこちなく腰を下ろした。バスがなかなか来ないことはもう知っていた。向かい側のバス停では友だち同士で待っている女の子が楽しげに話をしていた。彼女らの声が聞こえる以外は、車もほとんど通らず、通りは静かなものだった。
おれは道沿いにぽつぽつとある民家を眺めて暇をつぶした。ほとんどの家の窓が真っ暗だった。 向かい側のバスは早々にやってきて、女の子ふたりを乗せて去って行った。学校からバス停に来る者はすでになく、辺りは静寂に包まれた。
早く来ないかな、とおれが思ったとき、高梨は言った。気負わない声で。
「こっち側、なかなか来ないよな」
ふと見ると、彼はいかにもひとなつっこそうに口の端っこを上げていた。
「あ、うん」
おれは少しぼうっとなった。高梨はもうちょっと嫌な感じのやつなのかと思い込んでいたのだ。「女の子にきゃあきゃあ言われているやつには根性悪が多い」という偏見を持っていただけで、別に根拠はなかったのだけれど。
「市内側のやつとか、自転車のやつとかいいよなあ。今日なんか帰りにさ、田舎から来るやつは大変だなって言われたよ。大きなお世話だっつの」
なあ、と高梨はにこやかに同意を求めた。不愉快なことを言われた、という話をしているはずなのに、彼はそれを楽しんでいるふうだった。そう言えば、この男が怒っているところをまだ一度も見たことがない。
「有森はどこで降りるの? おれより後みたいだけど」
それを問われたとき、おれはひどく驚いた。このバス停で高梨と一緒になったことは前にもあったけれど、そのときは他にも何人かひとがいたし、おれは彼をちらっと認識しただけでどこで降りるのかまで気にしていなかったのだ。それなのに、彼はおれが後に降りることまで知っていた。そのことにとてもびっくりした。
ちょっとぽかんとして停留所の名前を告げたら、「おれよりふたつ向こうか」と彼は言った。それからにこっと目を細めた。
意外と気安いやつなんだな、とおれは思った。そしてやっと通常モードに戻ったのだった。
「ちょっと時間ずれるだけでだいぶ変わるよな。七時までは三本なのに、八時すぎると二本だし」
「駅通ってこないからかな。あっちにさあ、スーパーがあるじゃん、大通りの。あそこ通るバスは駅経由して山方面に行くやつだから遅くてもけっこう本数あるんだって。でも、あそこまで行くの走っても十五分はかかるんだよな」
最後はため息まじりにつぶやいた。走って十五分なら、ここで待っていても疲労度は差し引きゼロというところだろう。
「さすがに練習の後に走る元気はないな」
あはは、と笑った高梨はやはり屈託なく楽しそうだった。
「バスが来たよ」
不意に高梨が言ったとき、おれはバスが来たことに気づいておらず、そんなに時間が経っていたのかと驚いた。
今でもそういうことが多い。きっかけを作ったのは高梨の方だったが、やがておれの方がよくしゃべるようになった。話に夢中になってバスに気づかないことがままあり、だからバスが近づいてくると彼は必ず教えてくれるのだ。バスが来たよ、と。おれが気づいているときも、いないときも。
高梨と親しく話すようになったのはその日からだった。彼は人当たりがよく万事大らかで、短気で堪え性のないおれとは正反対の人間なのだけれど、逆にそれがよかったのか、気がついたらなんとなくつるむようになっていた。高梨といると気を使わないから楽だ。彼がのんきだからおれたちはうまくいっているのだと思う。
もちろんバス停で鉢合わせない日もあるし、いくら利用者が少ないとはいえ他の誰かが一緒のときもある。そういうときは必ず、高梨とふたりの方がいいなとおれは思った。ふたりだと、部活でうまくいかなくてへこんだことや、一年のうちにスタメンになりたいなどという大それた希望をすらすら話せたのだった。
「なにボーッとしてんの? 一点見つめて」
高梨がそう言ったから、おれはハッと我に返った。知らないうちに、ひび割れだらけのアスファルトをじいっと見つめてしまっていた。過去のことを思い浮かべると、とりとめもない。
「一年のときのこと思い出してた」
「なに、レギュラー取って泣いたときのこと?」
「ちッがうよ、それ今年だろ。おまえと最初に話したときのことだよ」
かあっと耳が熱くなるのを感じながら伸び上がり、わざと強い口調で言い返した。確かにおれは、この春うれしさのあまり彼に抱きついて泣いたのだけど、まぜっかえされると恥ずかしい。唇がまた勝手に尖ってしまう。
「最初? ああ、バス待ちしてたときの?」
そう、と答え、再びどさりと背もたれにもたれかかる。安定の悪いベンチは、ぎいっと嫌な音を立てて傾いだ。
何話してたっけな、と高梨はひどくなつかしげな言い方で言った。遠い目をして、空を仰いで。まるで何十年も昔のことを思い出しているかのような、やさしい顔で。
「普通のことしか話してないよ。バスのこととか。思い返してみると別に面白みもない」
「その、普通がいいんだな」
「え?」
どういう意味なのか問うたのに、答えは返ってこなかった。
高梨はひとりで何か納得しているふうだ。
その横顔が、なんというのか、ちょっといい。おだやかに見えて力強い眼差し。何かをわかっている、という感じで、「いいな」とおれは思ったのだ。
黙ってしまった高梨から目を離し、ふとうつむいて、さっき開けた鞄がきちんと閉まっていないのに気がついた。留め具がはまっておらず、蓋がぺこぺこと浮いている。それを押さえつけて留め具を回し、おれはかすかに目を眇めた。指がひどくかじかんでいる。
指先の感覚がかなり鈍い。にぎにぎ動かしてみたら、それがもっとよくわかった。頬に押し当ててみたけれど、頬の方も冷たくなっていて全く意味がない。ふうふう息を吹きかけてみたら、いくらかはましになった。だけど表面がぬくもるのなんて一瞬だ。
「手袋しよっかなー」
本当はつけたり外したりするのが面倒で嫌なんだけど。
二月まで我慢したのに、これからつけるのって、なんか負けるみたいで腹立つよな。そう言おうとして顔を上げたら、高梨の目がじっとこちらに注がれていた。
一体いつから見ていたんだろう。
無言で、しかも真剣な顔で見つめられていたことに戸惑って、おれは首を傾げた。
なに、と声には出さなかったのだが、彼はそれを察したように口を開いた。唇の形が変わるのを、おれはぼんやり眺めていた。
「おれ、おまえのこと好きなんだ」
「え?」
問う声はすぐにこぼれたが、頭は動いていなかった。唇はうっすら開いたまま。
いきなりすぎて、意図がよくわからない。なんでそんなことを改めて言うんだろう。友だちなんだから、別に口にしなくてもそんなことはわかっている。おれをうろたえさせようという企みか? それにしては目が真剣だ。
なんか悩みでもあるんだろうか。
どう反応していいものか迷い、ぼうっとしていると、高梨の顔が近づいてきた。
彼の指が、そうっと頬に触れる。なに、と問うより先に、冷たい、と感じた。
鼻先がぶつかりそうだ。睫毛でも取れそうになっているのだろうか。しかし指は頬に添えられたまま。
唇が、ふにっと押された。指とは違う。あたたかい。やわらかい。
(唇?)
あれ? もしかして今、キスをされているんじゃないか?
おれがそれに気づいたとき、高梨の顔はゆっくり離れた。
彼の目が、とても近いところにある。黒いひとみに薄ぼんやりした明りが落ち、それがゆらゆら揺れている。波立つ夜の海みたいだ。迫りくるその波と一緒に、現実がわっと押し寄せてきた。
頭はうまく動かなかったが、体は動いた。
なんだかんだ考えるより先に腕を振り上げ、おれは高梨の横っ面を張っていた。ばしん、と音が響くほど強く。
彼の顔が横に飛んだのとほとんど同時に、バスが来た。だけど、来たよ、と彼は言わなかった。あんまりきつく打ったから、口の中が切れてしまったのかもしれない。
ガタタタン、とぎこちなく扉が開く。おれはよろりと立ち上がり、バスに乗った。高梨もおれの後ろからついてきて、隣に座った。いつもと同じに。
乗客の数は少ない。おれたちの他には、背広姿のおじさんがひとりと、大学生風の女のひとがひとりいるだけだ。次の停留所の名前を告げる機械の声がひどく浮いている。
お互いにずっと無言だった。いつものように、高梨はおれが降りる二つ前の停留所で降り、バスが動き出すまで窓のこちら側にいるおれを見上げていた。
プシュ、と空気が抜けるみたいな音がしてバスが動き出した瞬間に、フリーズしていた頭がカタカタと動き出した。なんなんだ、あいつ、急に。
夏まで彼女がいたのを知っている。テニス部の、きれいな先輩。
なのにおれを好きなんて。いきなりキスをするなんて。そんなバカなことがあるもんか。
からかったのか?
それに思い至ったとたん、かあっと怒りがわき上がってきて、冷たかった頬を熱くした。おれは眉根をぎゅっと寄せ、手の甲でやっと唇を拭った。
信じられない。冗談であんなこと。
キスなんて初めてだったのに。




