くじらを釣ろうとしたら、生首と旅に出ることになった
山の麓に、ぽつんと小さな村がある。
そのはずれ、朝霧のまだ残る湿地の沼に、一人の少女が釣り竿を垂れていた。
村の誰もが顔見知りのこの村では、その光景も珍しくはない。
だが、通りがかった男がふと声をかけたのは、釣りの対象が気になったからだった。
「何を釣ってるんだい?」
少女は、まだ幼さの残る声で即答した。
「くじら」
男は、目を瞬かせる。
ここは山の村、海など遠く離れている。
それどころか、沼だ。
思わず笑ってしまいそうになったが、彼女の真剣な顔を見て、笑いは喉元で止まった。
「……そうか。釣れるといいな」
男はそれだけを言い残し、少女の背をそっと見守るように去った。
彼女の母親が病床に伏していることは村中の噂だった。
“くじらの肉は栄養がある”という根拠もない言い伝えを、少女は信じていたのだ。
そして。
季節は巡り、木々が赤く染まり始めた頃、釣り竿にようやく“引き”が来た。
水面がバシャリと跳ねたその瞬間、少女は静かに力を込めた。
やがて、ずるりと引き上げられたのは。
人の、生首だった。
「やあ、少女よ。よくぞ吾を釣り上げてくれたな、褒めて使わず」
それは、喋った。
長い髪に半ば隠されていたが、目は開かれ、口元には妙な余裕があった。
だが少女は眉一つ動かさず、無言で針を外し、再び糸を垂らそうとする。
「……剛毅な少女であるな。吾のようなものを見ても驚かぬとは」
「……」
「吾は勇者なり。魔王との死闘の果て、奴の首を討ち取ったが、吾もまた首を落とされた。そのまま魔王城の窓から水中へ……呪いの刃ゆえ、復活もままならぬこの姿よ」
少女は黙って釣りを再開しようとする。
「何を釣っているのであるか?」
「くじら」
「ほうほう、大物狙いであるな。餌は何を使っておる?」
「みみず」
「ふむ……本気で釣るのであれば、それでは足りぬかもしれぬぞ」
その言葉に、少女ははじめて勇者を見つめた。
「どうすればいいの?」
その目に、怯えも疑いもなかった。
あまりに自然に生首と話していた。
勇者は愉快げに笑った。
「吾の髪飾りを与えよう。それを糸先につければ、荘厳なルアーとなろう」
少女が手に取ると、髪飾りは魚のような形に変化する。
魔力が宿っていた。
「それと――糸も細すぎては切れる。吾の髪を切って繋げれば、決して断たれることはない」
少女は首を持ち上げ、とことこと道を進む。
古びた家屋の扉を開け、「ただいま」と一言。
返事はない。
「家族は留守であるか?」と勇者が問うと、少女は首を横に振った。
「お母さん、寝てるの。ずっと」
少女は鋏を持ち出し、勇者の長い髪をチョキチョキと切っていく。
力のない手つきで、丁寧に、結びやすいようにと毛束をまとめながら。
刃の音が繰り返されるたび、勇者の顔が少しずつあらわになる。
やがて、前髪が落ち、輪郭が整ったところで――少女の手が、ぴたりと止まった。
「……おんなの人だったんだ」
ぽつりと呟いた声に、勇者はふふ、と笑う。
「うむ。美人であろう?」
少女は小さく頷いた。
嘘でも媚びでもなく、ただ正直にそう思ったらしい。
勇者の顔立ちは、確かにどこか神聖で、澄んだ湖面のように凛としていた。
目元にかかっていた髪が取り払われることで、かえって生首の不気味さが薄れた気すらした。
「……声が低いから、男の人かと思ってた」
「戦の号令を上げるにはな、少々威厳がいるのでな。少女よ、驚かせたか?」
「んーん、きれいだなって思っただけ」
その一言に、勇者はしばらく黙り、そして呟いた。
「……この身に、そのような言葉をかけられるとは。感謝する」
一連の会話の中で、布団に横たわる母親は、微動だにしなかった。
「母上に挨拶をしても構わぬかな」
少女は小さく頷き、ベッドのそばに勇者を置いた。
母親を揺するが、置きない。
「もうずっと起きないの、くじらを食べさせてあげたらすぐ良くなるのに」
母親は動かなくなってかなり経過しているようだった。
「母君、この子は吾が守るので、ご心配めさるな」
それは、静かで、真摯な言葉だった。
少女が釣り糸を完成させると、勇者は少女の手元を見つめて呟く。
「ふむ、この糸であればくじらだろうが何だろうが問題なく釣れるであろう」
少女は水辺に戻り、新しい糸をルアーに結んで準備をする。
「つれるかな」
「案ずるなかれ。信じよ」
少女は水辺へと竿を垂らす。
ぽちゃん、という小さな音が静かな水面に広がった。
勇者の首が、彼女の膝のそばで声を発する。
「ここは……どの辺りであるかな。地名など分かれば幸い」
「イズルだよ」
「ふむ、それは村の名前であるか?」
「うん」
勇者は一拍置いて、問いを重ねた。
「近場に、女神の神殿などはあるか?」
少女は首を横に振る。
「なくなった」
「……なくなった?」
勇者の声が、わずかに揺れた。
「引いてる」
少女の声に、思考が中断される。
釣り竿がピクピクと細かく揺れ始めていた。
「手伝おう」
勇者は釣り糸に魔力を通す。
彼女の髪で作られたその糸は、主の力を素直に受け入れた。
水面が膨らみ、渦が巻く。
そして、現れたのは。
巨躯。
鋼のような鱗。
蒼黒の眼光。
伝説に語られる海の魔物、リバイアサン。
「吾の匂いを追ってきたであるか……」
勇者の声が低くなり、詠唱が紡がれた。
雷鳴が天を割り、紫電が水面を這う。
雷撃魔法。
魔力核を的確に撃ち抜かれた巨体は、悲鳴もあげぬまま水辺へと崩れた。
少女は、釣り竿をそっと地に置いて首を傾ける。
「これ、くじら?」
「くじらより大物であるな」
「えいようある?」
「恐らくはな」
少女はナイフを取り出し、鱗の隙間から少し肉を削ぎ取る。
そして、大切そうに抱えて家へ戻り、母の枕元にそっと置いた。
その瞳には喜びも悲しみも映らない。
ただ、静かな祈りがあった。
動かぬ母を見つめたあと、少女はぽつりと言った。
「神殿はね、ずっと前に海に沈んだんだって」
勇者が、わずかに眉を寄せる。
「死んだマオーの子分が、海にいっぱい呪いをまいたんだって」
「それから、海の水がどんどん増えて……」
少女は少しだけ空を仰いだ。
「この村も、もうすぐ海に飲まれるって、村の人が言ってた」
「その人たちももう、いないけど」
勇者は沈黙し、水面を見つめた。
そこは沼ではなかった。
海だった。
やがて――静かに、低く、勇者は言った。
「……そうであるか」
その声には、勇者としての誇りよりも、後悔の色が滲んでいた。
俺たちは海賊。
いつでも海賊。
世界の終わり? 知ったことか!
空は紅く、陸地は海に飲まれ、国は沈み、人は嘆く。
けれど、俺たち海賊だけは元気だった。
陸が減る?上等だ!
海が増えりゃ、仕事も増えるってもんだ!
この濁った大海原で、俺たちは漂流者を襲い、国を捨てて逃げてきた船団を襲い、
略奪して飲んで歌って食らう。
それが、海賊の流儀!
「船長、前方に小舟が一隻!乗ってるのは……小柄な奴1人でさあ!」
前線の見張りが叫ぶ。
甲板が一気に活気づいた。
「女か!?」
「かもしれやせん!」
「ほう……!」
舵を切り、風を受けて海を駆ける。
波しぶきを割って船が小舟に近づく。
見れば、小舟には確かに小さな少女が一人。
足元には堅そうなケースが一つだけ。
「ガキじゃねえか、まあ、雑用くらいには使えるか」
船長がニヤつきながら少女を引き上げ、ケースを奪う。
酒に濡れた指で鍵を外し、胸を弾ませながら蓋を開けた。
その瞬間。
中には、美しき生首。
艶やかな黒髪。整った顔立ち。だが、口が動いた。
「雷撃」
瞬間、甲板に轟音が走った。
稲妻の矢が天を裂き、直撃した船長と周囲の船員たちは、その場で感電し、バタリと倒れ伏す。
「……敵性、排除完了」
少女は無言のまま、生首を拾い上げると、舵をきゅるりと回し始めた。
「この船……もらっていくね」
少女の背で、生首が笑う。
ぐらつく船体を魔力で押さえ込みながら、ゆっくりと大海に進路を取る。
「良き獲物であったな。では、ゆくとしよう。世界の行く末を、見届けるために」
こうして、少女と首だけの勇者は一隻の海賊船を手に入れた。
海に沈みゆく世界で、まだ終わりきらぬ旅が、始まる。
おわり