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第八話:夜明けの誓いと、光差す道

 フィルドラ議長の絶望的な声が、一瞬静まり返った夜会の大広間に虚しく響いた。セドリック殿下の呼吸はまだ浅かったが、その瞳には確かな生命の光が戻りつつあった。私の施した解毒薬と魔力点滴が、彼の命を繋ぎ止めたのだ。


「ま…まだだ! こんな小娘のまじないごときで、私の計画が…!」

 フィルドラ議長は、仮面の下で顔を歪ませながら、なおも悪あがきを続けようとした。だが、その時だった。


「そこまでです、フィルドラ枢密院議長!」


 凛とした声と共に、大広間の入り口から一人の壮年の騎士が進み出た。彼はセドリック殿下の数少ない腹心の一人、グスタフ騎士団長だ。その手には、数枚の羊皮紙が握られている。


「王太子殿下暗殺未遂、及び国家転覆計画の動かぬ証拠、ここに提示いたします!」


 グスタフ騎士団長は高らかに宣言すると、手にした羊皮紙を次々と読み上げ始めた。それは、私が命懸けで集め、セドリック殿下に託していた情報だった。隠し通路でのフィルドラ卿と側近たちの密談の音声記録(特殊な魔法具で録音したもの)、毒物の入手経路を裏付ける商人との書簡の写し、そして…あの忌まわしき『夜伽帳』の、フィルドラ卿の筆跡による改竄指示のメモ。


 次々と暴かれる悪事の数々に、会場は再びどよめき、そして今度はフィルドラ議長に対する明確な非難の声へと変わっていった。


「そ、そんなものは捏造だ! 私を陥れるための罠だ!」

 フィルドラ議長は金切り声を上げるが、その顔色は明らかに狼狽を示していた。


「往生際が悪いぞ、フィルドラ」

 いつの間にか、セドリック殿下が壁に寄りかかりながらも、ゆっくりと立ち上がっていた。その声はまだ弱々しかったが、王太子としての威厳は失われていない。

「貴様の野望は、今、ここで終わったのだ」


 その言葉が合図だったかのように、衛兵たちがフィルドラ議長を取り囲む。彼は最後の抵抗を試みようとしたが、もはや多勢に無勢。あっけなく取り押さえられた。その際、彼の顔を覆っていた仮面が床に滑り落ちる。現れたのは、誰もが見知った高名な貴族の顔…ではなく、意外にも平凡で、しかし深い野心と歪んだ正義感を瞳に宿した、見慣れぬ男の顔だった。


「なぜだ…! 私は、この腐りきった王国を、ただ…正しい道へと導こうとしただけだというのに…!」

 フィルドラ――いや、その男は、うわごとのようにそう呟いていた。


 バルテルス課長はと言えば、フィルドラ議長が捕縛されるのを見るや否や、床にへたり込み、「わ、私は騙されていただけなのです! 何も知らなかったのです!」と見苦しい言い訳を繰り返していた。その卑小さに、私は冷たい視線を送ることしかできなかった。


 フィルドラ一派の主だった者たちが次々と拘束され、夜会の混乱はようやく収拾へと向かい始めた。私は、張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、その場に座り込んでしまった。極度の疲労と安堵感が、一気に全身を襲う。


「レイナ君」

 ふと、頭上から優しい声がした。見上げると、セドリック殿下が、まだ完全ではない体で私の前に屈み込み、手を差し伸べていた。

「君がいなければ、私は今頃…いや、この国も、どうなっていたか分からない。本当に…ありがとう、レイナ」

 その言葉は、心からの感謝に満ちていた。私は、差し出された彼の手を力なく握り返し、ただ小さく頷いた。言葉にならなかった。


 ◇


 夜が明け始める前、王宮の一室。窓の外には、まだ朝靄に包まれた王都のシルエットが広がっている。あの後、私はセドリック殿下の計らいで、侍女たちの手厚い(そして少々過剰な)看護を受け、少しだけ休息を取ることができた。


「フィルドラの処遇は、法に則って厳正に行われるだろう。枢密院も、一度解体し、信頼できる者たちで再編する必要がある」

 窓辺に立ち、セドリック殿下は静かに語った。彼の顔にはまだ疲労の色が残っていたが、その瞳には未来を見据える強い光が宿っている。


「そして…これだ」

 彼がテーブルの上に置いたのは、あの『夜伽帳』だった。紫のインクが、朝の薄明かりの中で妖しく光っているように見える。

「これを公にすれば、多くの貴族が断罪されるだろう。だが、それは同時に、王家に対する不信と混乱を招くことになる。…君なら、どうする?」

 殿下は、私に意見を求めてきた。


 私はしばし黙考した後、静かに口を開いた。

「闇は、完全に消し去ることはできません。ですが、その闇を認識し、制御し、そして…光をより強く照らすことはできるはずです」

 私は殿下の目を見て、続けた。

「この帳面は、公にすべきではないと存じます。ですが、決して闇に葬るのでもありません。殿下の下で厳重に管理し、二度とこのような悲劇が繰り返されぬよう、戒めとするのです。そして、不正を行った者には、別の形で償いを求める。そうして、少しずつ、この国の膿を出し切るのです」


 セドリック殿下は、私の言葉をじっと聞いていた。そして、深く、深く頷いた。

「…君の言う通りだ。闇雲に罰するだけでは、新たな憎しみを生むだけかもしれん。君の知恵と勇気が、改めてこの国を救ってくれた」


 彼は私に向き直り、その目に真摯な光を宿して言った。

「レイナ・クルドノヴァ君。これからも、私の側で、その力を貸してほしい。君のような人間こそが、これからの王国に必要なのだ」

 それは、正式な側近――情報分析官としての、そして何よりも信頼するパートナーとしての、彼からのオファーだった。


 私は、迷うことなく頷いた。

「…はい、殿下。微力ながら、お力になれるのであれば」


 東の空が、ゆっくりと白み始めていた。朝靄が晴れ、王都の街並みがその姿を現し始める。それは、新しい一日の始まりであり、新しい時代の幕開けを予感させた。


 私の官吏としての平穏な日々は、もう戻ってこないのかもしれない。けれど、後悔はない。この手で、セドリック殿下と共に、この国に本当の光をもたらすことができるのなら。


(闇を味方にすれば、光はもっと強くなるわ)


 心の中で、私はそう呟いた。それは、あの忌まわしい夜伽帳から始まった、長く、そして奇妙な夜がようやく明け、新しい朝を迎えた私の、偽らざる誓いだった。


(第八話 了 / 王都執務室の夜伽陰謀録 完)

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