第七話:毒杯の夜会と、命を繋ぐ口づけ
夜会当日までの数日は、まるで嵐の前の静けさそのものだった。私とセドリック殿下は、言葉を交わさずとも互いの覚悟を感じ取りながら、それぞれに準備を進めた。私は、これまでに集めた薬草の中から特に解毒作用の高いものをいくつか選別し、粉末にして小さな革袋に忍ばせた。王都医務法の古書を夜通し読み返し、あらゆる毒物とその対処法を頭に叩き込む。眠れない夜は、官庁の裏庭で育てている薬草の手入れをしながら、心を落ち着かせようと努めた。
(大丈夫。私には知識がある。そして、守りたいという意志がある)
一方、セドリック殿下は、信頼できるごく少数の側近にだけそれとなく警戒を促し、夜会の警備体制に不審な点がないか密かに調査を進めていた。私たちの間には、常に張り詰めた糸のような緊張感と、奇妙な共犯者意識が漂っていた。お互いの瞳の奥に、決戦を前にした静かな覚悟が見て取れた。
そして、運命の夜がやってきた。
王宮の大広間は、目も眩むほどのシャンデリアの光に照らされ、着飾った貴族たちの喧騒と、華やかな楽団の演奏で満ち溢れていた。私は末端の官吏として、壁際に用意された席で息を潜めるようにその光景を眺めていた。胸には、例の革袋をしっかりと忍ばせている。
「レイナさん!そのドレス、すごく素敵じゃない!でも…やっぱり顔色が優れないわね。まさか、夜会の緊張で食事が喉を通らないとか?」
隣の席のマリエッタが、いつもの調子で声をかけてくる。
「…少し、雰囲気に気圧されているだけですわ」
私は曖昧に微笑んで誤魔化したが、内心はそれどころではなかった。(この華やかさの裏で、今まさに毒牙が研がれているかもしれないというのに!)
会場を見渡すと、ひときわ目立つ場所にセドリック殿下の姿があった。銀灰色の髪に豪奢な礼装が映え、その立ち姿はどこか近寄りがたいほどの気品を漂わせている。そして、その傍らには…仮面をつけたフィルドラ枢密院議長の姿があった。彼は、まるで旧知の友人のように殿下に何かを語りかけ、その仮面の下で不気味な笑みを浮かべているように見えた。
(始まった…!)
私はグラスを持つ手が微かに震えるのを感じながら、セドリック殿下の一挙手一投足から目を離さなかった。周囲の貴族たちの会話、給仕たちの動き、その全てに神経を集中させる。
やがて、食事が進み、ワインが注がれる頃。一人の給仕が、セドリック殿下の前に特別なワインボトルを持ってきた。その給仕の顔に、私は見覚えがあった。バルテルス課長の部署にいる、フィルドラ派と噂される男だ。
(あれは…!)
セドリック殿下は、一瞬だけ、そのワインに目を留めた。そして、まるで何も気づいていないかのように、給仕にグラスへと注がせた。深紅の液体が、クリスタルのグラスの中で妖しく揺らめく。
殿下がグラスを手に取り、口元へと運ぶ。その瞬間、私の心臓は凍りついた。
(駄目…!)
叫び出しそうになるのを、必死で堪える。殿下はワインを一口含み、そして、何事もなかったかのように微笑んだ。フィルドラ議長が、満足そうに頷くのが見えた。
数分後だった。
セドリック殿下が、ふいに胸を押さえて顔を顰めた。そして、次の瞬間、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちたのだ。
「殿下!?」
「セドリック殿下!?」
会場は一瞬にして騒然となった。悲鳴、どよめき、混乱。音楽が止まり、貴族たちが右往左往する。
「侍医を!早く侍医を呼ばぬか!」
誰かが叫んだ。だが、こんな混乱の中で、侍医がすぐに駆けつけられるとは思えない。
(間に合わない…!)
私は、弾かれたように立ち上がった。周囲の制止も耳に入らない。人垣をかき分け、倒れたセドリック殿下の元へと駆け寄る。
「どいてください!私に診させてください!王都医務法の心得があります!」
無我夢中で叫び、殿下の傍らに跪く。彼の顔は蒼白で、呼吸は浅く、苦悶に歪んでいた。その唇に触れると、微かに薬物特有の苦い香りがした。
(やはり、毒…!この症状は…即効性の神経毒!)
「何を勝手な!小娘が!」
フィルドラ議長が、仮面の下で怒声を上げた。だが、私は構わない。
「黙っていてください!この方はまだ死なせない!」
私は一喝すると、懐から革袋を取り出し、中から数種類の薬草の粉末を手のひらに広げた。夜会の飾り付けに使われていた、ある種のベリー(少量なら解毒作用の補助になる)を咄嗟にもぎ取り、それも加える。
「時間がないんです!」
周囲の驚愕と疑念の視線が突き刺さる。だが、躊躇している暇はない。私は即席の解毒薬を、自分の唾液で素早く練り上げると、セドリック殿下の顎を掴んで無理やり口を開かせた。
そして――彼の冷たい唇に、自分の唇を重ねた。
(もう、どうにでもなれ!ファーストキスが薬草風味なら、セカンドキスは毒風味ってことね!)
苦い薬を、彼の口内へと流し込む。周囲の喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように感じられた。ただ、彼の命を繋ぎ止めたい、その一心だけだった。
唇を離すと、私は彼の胸に手を当て、意識を集中させた。ごく微量だが、私にも魔力はある。それを、手のひらから彼の体内へと送り込む。薬の吸収を助け、生命力をわずかでも高めるために。それは、古書で読んだ「魔力点滴」という応急処置だった。
「何を…しているのだ、貴様は!」
フィルドラ議長の怒声がすぐそばで聞こえる。だが、私は動じない。
秒読みのような時間が過ぎる。セドリック殿下の呼吸は、依然として浅い。額には脂汗が滲み、その瞳は固く閉じられたままだ。
(お願い…! 効いて…!)
その時、セドリック殿下の瞼が、微かに震えた。そして、薄っすらと、その青い瞳が開かれたのだ。焦点の合わない瞳が、ぼんやりと私を捉える。
私は、彼の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「大丈夫…あなたは、救われるべき人です。私が…必ず助けますから」
その言葉が届いたのか、彼の瞳にかすかな光が宿ったように見えた。そして、ほんのわずかだが、彼の指が私の手に触れた。
その瞬間、フィルドラ議長の顔色が変わったのを、私は見逃さなかった。仮面で隠されてはいても、その下の表情が驚愕と焦りに歪んでいるのが分かった。
「ま…まだだ…!こんなもので、終わるはずが…!」
彼の絞り出すような声が、夜会の喧騒にかき消される。セドリック殿下の呼吸は、まだ完全ではない。だが、先ほどまでの絶望的な状況からは、明らかに変化が見られた。
(勝機は、ある…!)
私は、勝利を確信したような強い眼差しを、仮面の黒幕へと向けた。私たちの戦いは、まだ終わっていない。本当の逆転劇は、ここから始まるのだ。
(第七話 了)