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第六話:嵐の前の静けさと、交わされた誓い

 ドンドン! ドンドン!

 荒々しい扉を叩く音は、まるで死刑執行を告げる鐘の音のように「暁の間」に響き渡った。

「開けろ! 王太子殿下にご注進したいことがある! 怪しい者がこの部屋に紛れ込んだとの報告が!」

 バルテルス課長の甲高い声。そして、その背後に潜む複数の屈強な男たちの、不気味なまでの静けさ。


(罠…! まんまと誘い込まれた…!)


 血の気が引くのを感じながら、私はセドリック殿下を見た。彼の整った顔には一切の動揺は見られない。ただ、その深い青の瞳には、氷のような冷静さと、燃えるような怒りの炎が同時に宿っていた。


「レイナ君、あちらへ」

 殿下が低い声で囁き、視線で部屋の隅を示した。そこには、壁の絹布と巧妙に一体化した、小さな扉のようなものがあった。隠し通路…!


(いつの間にこんな…! いや、感心している場合じゃない!)


 私は頷き、音を立てないように細心の注意を払いながら、その小さな扉へと滑り込む。中は狭く、埃っぽい闇が広がっていた。扉を静かに閉めると、すぐ向こう側で、セドリック殿下の落ち着いた声が聞こえた。


「何の騒ぎだ、バルテルス課長。夜更けに随分と物々しいな」

 その声には、先ほどまでの私に対する穏やかさとは全く異なる、王族としての威厳と冷たさが込められていた。


「は、はっ! 王太子殿下! 夜分にこのような形でお騒がせし、まことに申し訳ございません! し、しかしですな、この『暁の間』に、殿下の御身に危害を加えんとする不届き者が忍び込んだとの情報がございまして!」

 バルテルス課長の声は、明らかに狼狽えていた。おそらく、殿下がこれほど冷静に対応するとは思っていなかったのだろう。


「ほう? それは穏やかではないな。して、その不届き者とやらはどこにいる?」

「そ、それが…この部屋の中かと! どうか、我々に捜索の許可を!」

「私の部屋を、お前たちがか? 随分と無礼なことを言うのだな、課長」

 セドリック殿下の声が、一段と低くなった。隠れ通路の中にいる私にまで、その怒気が伝わってくる。


(まずいわ…! このままでは、殿下が無理やり部屋を捜索されかねない…!)


 その時、男たちの声がした。

「殿下、失礼ながら、我々もフィルドラ枢密院議長のご命令で動いております。万が一のことがあっては…」

「…良いだろう。だが、手荒な真似は許さん。私の私物に傷一つでもつけてみろ。その時は…分かっているな?」


 扉が開け放たれる音。そして、複数の男たちが部屋に雪崩れ込んでくる気配。息を殺し、壁に背を押し付ける。心臓の音が、やけに大きく聞こえた。


「…ふむ。特に変わった様子はないようだが」

「いや、待て。この香り…」


 一人の男の声。まずい、と思った。私は普段、安価なラベンダーの香りの石鹸を使っている。貴族の方々が使うような高価な香水ではない。それが、この密やかな空間では、かえって異質な残り香となっているのかもしれない。


(お願い、気づかないで…!)


 祈るような気持ちで固唾を飲む。すると、不意に、床に何かが落ちる軽い音がした。コロコロ、と転がる音。


「ん? これは…」

 男が呟く。


(何…? 何が落ちたの…?)


 私には見えない。だが、次の瞬間、セドリック殿下の声がした。

「ああ、それは私が落としたものだ。先ほどまで、少々夜食をつまんでいてね。…なんだ、そんなものまで怪しいと申すか?」

 その声には、微かな嘲りが含まれていた。


(夜食…? まさか、例のお菓子…!?)


 どうやら殿下が機転を利かせてくれたらしい。だが、男たちの疑念は晴れないようだった。

「…念のため、部屋の隅々まで調べさせていただきます」

 足音が、私の隠れている扉の方へと近づいてくる。もうダメだ、と思った瞬間。


「そこまでだ」


 凛とした声が響いた。セドリック殿下だ。

「私の部屋をこれ以上荒らすというのなら、相応の覚悟をしてもらうぞ。フィルドラ卿の命令であろうと、王太子である私への不敬は許されん」

 その声には、有無を言わせぬ絶対的な力が込められていた。男たちの動きが止まる。


「…バルテルス課長。今日のところは引き取ってもらおうか。そして、二度とこのような無礼な真似はするな。よいな?」

「は…ははっ! も、申し訳ございませんでした! 引き上げます! 総員、撤収!」


 慌ただしい足音が遠ざかっていく。完全に気配が消えるまで、どれほどの時間が経っただろうか。やがて、隠し通路の扉が静かに開き、セドリック殿下が顔を覗かせた。


「…大丈夫か、レイナ君」

 その顔には、疲労の色が浮かんでいた。私は黙って頷き、通路から滑り出る。部屋の中は、先ほどまでの緊張が嘘のように静まり返っていた。ただ、床には、見覚えのある焼き菓子が一つ、寂しげに転がっていた。


「…申し訳ありません、私のせいで」

「君のせいではない。連中が嗅ぎつけただけだ。…だが、もはや時間の問題かもしれん」

 セドリック殿下は、深い溜息をついた。

「やはり、君をこれ以上巻き込むわけにはいかない。今度こそ、この件からは手を引いてくれ」

 その言葉は、真剣だった。だが、私は首を横に振った。先ほどの恐怖はまだ体に残っている。けれど、それ以上に強い感情が、私の中で燃え上がっていた。


「いいえ、殿下。今ので、はっきりと分かりました」

 私は、床に落ちていた焼き菓子を拾い上げた。

「フィルドラ卿は、本気で殿下を…そして、おそらくは私も、排除しようとしています。彼らにとって、私たちは邪魔な存在なのです。…もう、逃げ道はありません」

 その言葉は、不思議と冷静だった。覚悟が決まったからかもしれない。


「殿下」

 私はセドリック殿下をまっすぐに見据えた。

「私にしかできないことがあります。彼らの計画を阻止するために、どうか、私を使ってください。私にも…守りたいものがありますから」


 セドリック殿下は、しばらく黙って私を見つめていた。彼の深い青の瞳の中で、様々な感情が揺れ動いているのが見て取れた。やがて、彼はゆっくりと頷いた。


「…分かった。君の覚悟、受け止めよう」

 そして、彼は静かに続けた。

「近々、王宮で大規模な夜会が催される。国王陛下の快気を祝うという名目だが…おそらく、フィルドラ卿はそこを狙ってくるだろう」

「夜会…ですか」

「ああ。多くの貴族が集まり、警備も手薄になりやすい。…毒を盛るには、絶好の機会だからな」


 毒。その言葉に、私は息を呑んだ。私の脳裏に、独学で学んだ薬草の知識が浮かび上がる。


「夜会が…決戦の場になるかもしれんな」

 セドリック殿下の言葉が、暁の間に重く響いた。揺れる燭台の炎が、私たちの決意を照らし出しているようだった。嵐の前の、つかの間の静けさ。だが、私たちの心は、すでに次の戦いへと向かっていた。


(第六話 了)

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