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第五話:迫る影と、交わす覚悟

 あの夜以来、私の日常には、目に見えない棘がそこかしこに潜んでいるような、そんなピリピリとした緊張感が漂い始めた。執務室では、バルテルス課長だけでなく、他のフィルドラ派と思われる官吏たちからの、探るような視線を感じることが増えた。書類の受け渡し一つとっても、不自然なほど丁寧だったり、逆に些細なことで揚げ足を取ろうとしたり。


「レイナさん、最近なんだか…やつれてない?」

 昼休み、マリエッタが心配そうに私の顔を覗き込んできた。

「目の下にクマができてるわよ。もしかして…夜も眠れないほどの恋煩い!? それとも、まさか…誰かに脅されてるとか!? きゃー! サスペンス!」

「…マリエッタさん、想像力が豊かすぎますわ。少し寝不足なだけです」


(あながち間違ってはいないけれど、断じて恋煩いではない! そしてサスペンスなのは事実だけれど、この人に話したら尾ひれがついて王都中に広まりかねないわ!)


 内心で激しくツッコミを入れつつ、私は曖昧に微笑んでお茶を濁す。彼女の能天気さが、今の私にはある意味、救いでもあった。


 その夜、「暁の間」でセドリック殿下に会うと、彼は開口一番こう言った。

「…監視の目が強まっているようだな、君の周り」

 その声には、いつになく硬質な響きがあった。私は息を呑む。やはり、この方にはお見通しか。

「お気づきでしたか」

「当然だ。君を危険に晒しているのは私だからな。…すまない」

「殿下のせいではございません。これは、私が選んだ道ですから」


 そう答えたものの、本当にそうだろうかと自問する。選んだというよりは、追い込まれた結果ではないのか。だが、今更それを口にしても詮無いことだ。


「今宵は、いつものお菓子はなしだ」

 そう言って殿下が差し出したのは、温かいハーブティーだった。カモミールの優しい香りが、張り詰めた私の心を少しだけ解きほぐす。

「君が、カロリーを気にしていると聞いたのでね」

「…ご配慮、痛み入ります」


(ヘルシーなものを、とは言ったけれど、まさかハーブティーとは。でも、今の私にはこの方がありがたいかもしれないわ)


 お茶を飲みながら、私は最近の官庁内の不穏な動きや、バルテルス課長からの執拗な探りについて報告した。殿下は黙って耳を傾け、時折、鋭い質問を挟んでくる。


「フィルドラ卿は、焦っているのかもしれないな」

 一通り話を聞き終えると、殿下はぽつりと言った。

「焦り…ですか?」

「ああ。彼の計画には、おそらく時間的制約がある。我々が彼の尻尾を掴みかけていることに気づき、手段を選ばなくなってきているのだろう」

 殿下は、かつてフィルドラ卿の策略によって失脚させられた、ある高潔な貴族の話をしてくれた。その手口の巧妙さと非情さに、私は改めてフィルドラという男の底知れぬ恐ろしさを感じた。


「…殿下は、なぜ私にそこまでお話しくださるのですか?」

「君には、知っておいてほしいからだ。我々が相手にしているものの正体を。そして…君自身の身を守るためにも」

 その真摯な眼差しに、私は言葉を失う。彼は私を、ただの駒ではなく、共に戦う者として見てくれているのだろうか。それとも、これもまた彼の巧みな人心掌握術の一つなのか。


「レイナ君」

 不意に、殿下が私の名を呼んだ。その声には、いつになく真剣な響きが宿っている。

「もし…もし、これ以上危険が迫るようなら、無理はしないでくれ。君を失うわけにはいかない」

「殿下…」

「これは、王太子としての命令だ」


 彼の言葉は、私の胸に重く響いた。それは気遣いであり、同時に、私をこの危険なゲームから遠ざけようとする意志の表れでもあった。


 その矢先だった。

 数日後、私が執務を終えて官舎への帰路についていた時、見慣れない馬車が私の前に静かに停まった。中から現れたのは、壮年の男性だった。その顔に見覚えはないが、身につけている装飾品や、纏う雰囲気から、ただ者ではないことが窺える。


「レイナ・クルドノヴァ嬢ですな?」

「…左様でございますが、どちら様でしょうか」

「私は、枢密院議長フィルドラ様の命を受け、参った者だ」


 フィルドラ卿の、使い…!? 背筋に冷たい汗が流れる。


「少々、お耳に入れたい儀がございます。…馬車へどうぞ」

 拒否できる雰囲気ではなかった。私は黙って馬車に乗り込む。中は広く、豪奢な設えだった。男は私の正面に腰を下ろし、値踏みするような目で私を見た。


「単刀直入に申し上げよう。王太子殿下の『弱み』となる情報。それを、我々にご提供いただきたい」

「…弱み、と申されますと?」

「ご存じのはずだ。些細なことでも構わない。女癖、金銭問題、あるいは…公にできないご趣味。何でも結構」

 その言葉には、隠しようもない悪意が滲んでいた。

「見返りは、望みのままに。クルドノヴァ家の安泰も、貴女自身の将来も、フィルドラ様のお力添えがあれば、思いのままだ。…だが、もしご協力いただけぬとなれば」

 男は言葉を切り、その冷たい瞳で私を射抜いた。

「…貴女の大切なものが、どうなるか。賢明な貴女なら、お分かりのはずだ」


 それは、バルテルス課長の比ではない、直接的で、より悪質な脅迫だった。恐怖で体が震えそうになるのを、必死で抑え込む。


(落ち着きなさい、レイナ。ここで怯んでは、相手の思う壺よ)


 私はゆっくりと息を吸い込み、努めて冷静な声を作った。

「…お話は、理解いたしました。ですが、私のような下級官吏に、殿下のそのような…プライベートな情報を知り得る立場はございません」

「ほう? 暁の間に、度々お召しにあずかっていると聞いておりますが?」


(やはり、バレている…!)


「あれは、殿下が私の書類整理の能力をお認めくださり、業務に関するご相談を受けているだけでございます。他意はございません」

「果たして、そうかな?」

 男は嘲るように笑った。

「期限は三日。良きお返事をお待ちしておりますぞ、クルドノヴァ嬢」


 馬車は私を官舎の近くで降ろし、闇の中へと消えていった。私はその場に立ち尽くし、冷たい夜風に身を震わせた。


(どうすればいい…? 嘘の情報で時間稼ぎをする? でも、いつまで持つか…)


 絶望的な気持ちで、その夜の密会に臨んだ。セドリック殿下にフィルドラの使いとの一件を報告すると、彼の表情はみるみる険しくなった。


「…そこまで追い詰められていたとは。気づけなかった、私の不覚だ」

「いえ、殿下のお気遣いには感謝しております。ですが…」

「もういい、レイナ君。これ以上、君を危険な目に遭わせるわけにはいかない。この件からは手を引いてくれ。あとは私がなんとかする」


 セドリック殿下は、苦渋の表情でそう告げた。だが、私は首を横に振った。


「いいえ、殿下。ここまで関わった以上、途中で投げ出すことはできません。それに…私にも、守りたいものがございますから。私の誇り、そして…この国の未来も、です」


 嘘偽りのない、私の本心だった。このままフィルドラ卿の脅迫に屈するなんて、私のプライドが許さない。


「君は…」

 セドリック殿下が何かを言いかけた、その時だった。


 カサリ、と。

 暁の間のすぐ外から、衣擦れのような音と、複数の人間の気配がした。


「…誰か、いる」


 セドリック殿下が鋭く囁き、私も息を呑む。まさか、この密会の場所がフィルドラ卿に…?


 次の瞬間、ドンドン!と荒々しく扉を叩く音が響いた。


「開けろ! 王太子殿下にご注進したいことがある!」


 それは、聞き覚えのある声――バルテルス課長の甲高い声だった。しかし、その背後には、明らかに彼だけではない、複数の屈強な男たちの気配が濃厚に漂っている。


 罠だ。


 セドリック殿下と私は、視線を交わした。彼の青い瞳に、鋭い光が宿る。暁の間の、揺れる燭台の光だけが、私たちの緊張を映し出していた。


(第五話 了)

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