第四話:月夜の密談と、見えない糸
腹を括ったところで、翌日からの日常が劇的に変わるわけではない。相変わらず山のような書類、マリエッタの的外れな恋バナ攻撃、そしてバルテルス課長からのねちっこい「報告はまだかね?」という催促。ただ一つ変わったのは、私の内心の忙しなさだろうか。
(さて、今日の課長への「王太子殿下観察日誌」のネタはどうしましょうか…。「本日も大変ご多忙のご様子。執務室からは時折、甘いお菓子の香りが漂っておりました」…なんて書けるわけないでしょう!)
結局、当たり障りのない、「殿下は本日、〇〇卿と会談されておりました。議題は不明ですが、穏やかなご様子でした」などという、事実ではあるが中身の薄い報告を提出する。課長は不満そうに鼻を鳴らすが、今の私にはこれ以上差し出せる情報はない。
そして夜。約束の刻限に、再び「暁の間」へと足を運ぶ。回数を重ねるうち、この秘密の通路にも、部屋の独特の雰囲気にも、少しずつ慣れてきてしまった自分がいる。いや、慣れたというよりは、感覚が麻痺してきたのかもしれない。
「来たか」
燭台の揺れる光の中、セドリック殿下は窓辺に立ち、月を見上げていた。その横顔は、昼間の執務室で見せる柔和な表情とは違い、どこか影を帯びていて、近寄りがたいほど美しい。
「今宵の月は、何かを語りかけてくるようだ」
「…詩的でいらっしゃいますね、殿下」
私がそう言うと、彼はふっと息を吐き、こちらに振り返った。
「君に言われると、どうにも皮肉に聞こえるな」
「滅相もございません。ただ、殿下の御言葉には、いつも深淵な何かを感じますので」
(おっと、我ながら見事なヨイショ。内心では「またポエムですか?」くらいにしか思っていませんけども)
「…それで、何か掴めたか?」
セドリック殿下は、私の追従を軽く受け流し、本題に入った。彼の前では、下手な誤魔化しは通用しないことを、私はここ数回の密会で学んでいた。
「フィルドラ卿ですが、近頃、武器商人との接触が噂されております。表向きは国境警備の強化とのことですが…」
「武器商人…か。きな臭いな」
「はい。それと、バルテルス課長は、どうやら私のことを殿下の動向を探る駒として利用するつもりのようです」
「だろうな。あの男なら、そう考えるだろう」
殿下は、私の言葉を静かに聞きながら、時折鋭い質問を挟んでくる。その洞察力には、いつも感嘆させられる。そして、彼もまた、掴んだ情報を私に共有してくれた。それは、まるで高度なチェスでもしているかのような、緊張感と、不思議な共犯意識を伴う時間だった。
「君は、どう思う?」
不意に、殿下が尋ねてきた。それは、事実確認ではなく、私の見解を求める問いだった。
「私、ですか…?」
「ああ。君の直感は、時に誰よりも鋭い」
「…恐れながら。フィルドラ卿は、何か大きな『取引』を準備しているように感じます。武器、金、そして…人心。全てを駒として、何かを成し遂げようと」
私の言葉に、セドリック殿下は目を細めた。
「人心、か。…確かに、それこそが一番厄介な駒かもしれんな」
微かに漂う白檀の香りが、密やかな会話に重みを加える。燭台の炎が、彼の整った横顔に揺れる影を落とし、その表情を読み取りにくくさせていた。
「殿下は…なぜ、そこまでして国を?」
思わず、問いが口をついて出た。こんな踏み込んだ質問をするつもりはなかったのに。
彼は少し驚いたように私を見た後、ふっと遠い目をした。
「…守りたいものがあるからだ。この国の土も、空も、そして…そこで生きる人々の、ささやかな笑顔も」
その声は、いつものように穏やかだったが、その奥には、鋼のような強い意志が感じられた。
(この方も、戦っているのだわ。見えない敵と、そして、自分自身の立場と)
ふと、彼が抱える孤独の深さに触れたような気がして、私は胸の奥が微かに痛むのを感じた。いけない、感傷的になっては。これはあくまで「特命」なのだから。
「…そういえば、殿下。例のお菓子ですが」
「ああ、気に入ったかね?」
「ええ、まあ…その、おいしくはいただいておりますが、少々カロリーが気になりますので、次回からはもう少しヘルシーなものをお願いできればと…」
(しまった! また本音が! 私のバカ!)
セドリック殿下は、一瞬きょとんとした後、声を立てて笑った。それは、今まで聞いたことのないような、心からの楽しそうな笑い声だった。
「ははは! 君は本当に面白いな、レイナ君! わかった、善処しよう。…ああ、そうだ。最近、官庁の裏庭で、君が何か育てていると聞いたが?」
「なっ…!?」
(どこから情報が漏れているの!? まさか、マリエッタ!? いや、あの人は私が恋煩いで薬草を育てていると勘違いしているはず…!)
「え、ええ。少々…薬草に興味がありまして。古書を読んでおりましたら、その…栽培してみたくなったと申しますか…」
しどろもどろになる私を見て、殿下はさらに笑みを深めた。
「そうか。薬草か。…何かあった時のために、知識は持っていて損はないからな」
その言葉には、どこか含みがあるように聞こえた。私の過去…幼い頃、病の侍女を救えなかった後悔。薬草の知識があれば、と何度思ったことか。その思いが、私を薬草栽培へと駆り立てていることまで、この王太子は見抜いているのだろうか。
密会を終え、官舎への道を一人辿る。今宵の月は、雲間に隠れ、ぼんやりとした光を投げかけていた。セドリック殿下との会話が、頭の中で反芻される。彼の言葉、彼の表情、そして、時折見せる人間らしい弱さ。
(…いけないわ。あの人に近づきすぎている)
警戒しなければ。これは、危険なゲームなのだ。心を許せば、足元を掬われる。そう自分に言い聞かせるけれど、彼の孤独な瞳を思い出すと、胸の奥がざわつくのを止められなかった。
見えない糸が、私と彼を、そしてこの国の運命を、少しずつ絡め取ろうとしている。その糸の先にあるものが何か、まだ私には分からない。ただ、その糸を手繰り寄せることから、もう逃れられないことだけは、確かなようだった。
(第四話 了)