第三話:手当と板挟みと、腹を括るということ
差し出された焼き菓子――マドレーヌとか仰っていたか――を前に、私の思考は完全にフリーズしていた。夜伽じゃなかった安堵感、とんでもない秘密を知ってしまった恐怖感、そして目の前の王太子の掴みどころのなさが、頭の中でぐるぐると渦を巻いている。
(いや、だからって! こんな状況でお菓子を勧められても! 私の精神状態を少しは考慮してくださいと言いたい! …というか、これ、断ったら不敬にあたるのかしら…?)
ぐるぐる考えた末、結局、差し出されたマドレーヌを恐る恐る受け取ってしまった。官吏としての反射神経なのか、はたまた疲労による判断力の低下か。
「…いただきます」
小さな声で呟き、一口かじる。バターの豊かな香りと、ふわりとした優しい甘さが口の中に広がった。…悔しいけれど、確かにおいしい。
「だろう?」
セドリック殿下は、満足そうに頷いた。彼もまた、別の種類の焼き菓子(フィナンシェ、と彼は言っていた)を優雅に口に運んでいる。
(…この状況で、本当においしそうに召し上がるのね…)
なんだか毒気を抜かれたような気分になりつつも、警戒心は解かない。この甘い罠(文字通り)に乗せられてはいけない。
「それで…殿下。先ほどのお話ですが…」
「ああ、協力の件か。急かすつもりはないよ。だが、君にしか頼めないことだと思っている」
「私にしか…?」
「君は、バルテルス課長の部署にいるだろう? 彼は…フィルドラ卿に近しい人間の一人だ」
(なっ…! やはりご存知だったのか!)
バルテルス課長の嫌味な笑顔が脳裏に浮かぶ。あの男がフィルドラ卿と…。ということは、私がここに呼ばれたのも、もしかして…。
「君の立場なら、課長の動きや、他の部署の情報を、自然な形で得られるかもしれない。もちろん、危険なことはさせたくない。些細なことでもいいんだ。何か気づいたことがあれば、知らせてほしい」
セドリック殿下は、真剣な目で私に語りかける。その瞳には、先ほどのお菓子を頬張っていた時の呑気さはない。国の未来を憂う、次期国王としての覚悟が宿っているように見えた。
(…この方は、本気なのだわ)
フィルドラ卿のやり方には、私も疑問を感じていた。法や規律を捻じ曲げ、私利私欲のために権力を使うような人間は許せない。それは、私の官吏としての信念にも反する。
「…具体的には、どのような情報を?」
気づけば、私はそう尋ねていた。セドリック殿下は少し驚いたように目を見開いた後、慎重に言葉を選びながら、現在把握しているフィルドラ卿の不審な金の流れや、特定の貴族との密会の噂などを話し始めた。
私も、当たり障りのない範囲で、最近の官庁内の人事異動の噂や、不自然な書類の処理について話した。殿下は熱心に耳を傾け、時折鋭い質問を投げかけてくる。その頭の回転の速さに、私は内心舌を巻いた。
(ただの甘党王子ではなかった…この方は、切れ者だわ)
小一時間ほど話しただろうか。セドリック殿下は、「今日はこれくらいにしよう。あまり長居させても怪しまれる」と言って、話を切り上げた。
「今後の連絡方法は、追って伝える。…それから、これ」
殿下はテーブルに置かれた菓子の箱を私に差し出した。
「残りは君にあげよう。残業の供にでもするといい」
「えっ!? いえ、そのような! 滅相もございません!」
「いいから。…これは、口止め料、かな?」
悪戯っぽく笑う殿下に、私は返す言葉もなかった。結局、その高級そうな菓子の箱を抱える羽目になり、私は混乱した頭のまま、暁の間を後にした。
帰り道、夜風が火照った頬に心地よかった。
(とんでもないことに巻き込まれてしまった…)
夜伽じゃなかったのは幸いだが、王太子の密偵まがいのことをするなんて。しかも、相手はあのフィルドラ卿。危険すぎる。断るべきだ。そう思うのに、セドリック殿下の真剣な瞳と、「手当」という言葉、そして何より、自分の心の奥底にある正義感が、私を迷わせていた。
(…どうすればいいのよ、私…)
結局、答えは出ないまま、私は重い足取りで官舎への道を辿った。
◇
翌朝。寝不足で重い頭を抱えながら執務室の扉を開けると、待ち構えていたかのようにマリエッタが駆け寄ってきた。
「レイナさん! 大丈夫だったの!? 昨日、課長に呼び出されてたでしょ? その後、全然戻ってこないし…心配したんだから!」
「ええ、まあ…少し立て込んでいただけよ」
「ふーん? でも、なんだか顔色悪いわよ? まさか、本当に隣国の王子様と…!?」
「違うと言っているでしょう!」
(この人の勘違いと思い込みは、ある意味才能だわ…)
適当にあしらいながら自分の席に着く。昨日持ち帰った(押し付けられた)菓子の箱は、見えないようにカバンの奥深くにしまい込んだ。
しかし、平穏な(?)日常は長くは続かなかった。始業して間もなく、内線が鳴った。相手は、バルテルス課長だった。
「クルドノヴァ君、ちょっと課長室まで来なさい」
嫌な予感しかしない。重い足取りで課長室へ向かうと、バルテルス課長はデスクにふんぞり返り、私を一瞥した。
「昨晩は、ご苦労だったね」
その言い方には、ねっとりとしたものが含まれていて、私は思わず身を固くした。
「…して、王太子殿下は、どのようなご様子だったかね?」
「は…? ご様子、と申されましても…」
「ふん、とぼけるかね? 君も聡い娘だと思っていたがねぇ」
課長は立ち上がり、私のすぐそばまで歩み寄ってきた。その目に浮かぶのは、有無を言わせぬ圧力。
「王太子殿下は、近頃、何かを探っておられるご様子だ。…君には、殿下が何を考え、誰と接触し、何をしようとしておられるのか、よぉく観察し、私に報告してもらいたい」
「か、課長! それは…!」
「これは、君のためでもあるのだよ、クルドノヴァ君」
課長の声が、蛇のように私の耳に絡みつく。
「君の実家…苦しいのだろう? 私の口利きひとつで、どうにでもなるのだがねぇ。…賢い君なら、どうすべきか分かるだろう?」
(また家のこと…! なんて卑劣な…!)
怒りで手が震える。セドリック殿下からはフィルドラ卿を探れと言われ、フィルドラ派の課長からは王太子を探れと言われる。完全に、板挟みだ。
(どうして私がこんな目に遭わなくちゃいけないのよ!? 真面目に働いていただけなのに!)
絶望的な状況に、目の前が暗くなりかける。しかし、その時、ふと昨晩のセドリック殿下の言葉と、あの悔しいほど美味しかったマドレーヌの味が蘇った。そして、バルテルス課長の卑劣なやり方への怒りが、ふつふつと湧き上がってきた。
(…上等じゃないの)
ここで潰されるくらいなら。どうせ失うものなど、もうあまりないのだから。
(やってやろうじゃないの! 両方から情報を取り、両方を利用してやるわ! 私の知恵と…そう、あの薬草知識だって、いつか役に立つかもしれない!)
顔を上げた私の目に、思いがけない強い光が宿っていることに、バルテルス課長は気づかなかっただろう。
「…承知いたしました、課長。微力ながら、お役に立てるよう努めます」
私は、努めて冷静に、しかし心の奥底で燃え上がる決意を隠しながら、そう答えた。
(見てなさいよ。ただで転ぶ私じゃないんだから!)
こうして、私の奇妙で危険な二重スパイ(仮)生活は、幕を開けたのだった。