第二話:王太子殿下のお菓子と、秘密の(副業?)勧誘
(…………お菓子????)
私の思考回路は、完全にショートしていた。目の前には、夜伽を命じられたはずの王太子殿下が、極上の焼き菓子を勧めてきている。しかも、「なかなかいけるぞ」って、まるで友人にでも話しかけるような口調で。
(え? なに? どういう状況ですの!? 夜伽じゃなくて、お茶会でした!? それならそうと事前に言ってくださいよ! 服装だって全然違いますし、そもそも残業明けでそんな気分じゃ…って、いやいやいや!)
混乱する頭で必死に状況を整理しようと試みる。これは罠? 何か裏がある? それとも、この王太子殿下、もしかして相当な天然…?
「…あの、殿下? これは、一体…?」
かろうじて絞り出した声は、自分でも情けないほど上擦っていた。セドリック殿下は私の反応を見て、少し困ったように眉を下げ、それからふっと柔らかく微笑んだ。
「ああ、すまない。驚かせたようだね。…まあ、無理もないか」
彼はそう言うと、手にしていた菓子の箱を近くの小さなテーブルに置き、私に向き直った。その青い瞳は、先ほどの冷たい印象とは違い、どこか理知的で、そして深い色を湛えている。
「まず、訂正させてほしい。君をここに呼んだのは、巷で噂されているような、いわゆる『夜伽』のためではない」
「…え?」
「驚くのも無理はない。だが、本当だ。この『暁の間』での会合は、私にとっては別の目的がある」
「別の、目的…ですか?」
(夜伽じゃない…? じゃあ、一体何だって言うんですの!? こんな…こんな薄着にさせられて!)
安堵よりも先に、別の疑念と、そして少しばかりの怒りが湧き上がってくる。
「ここは…そうだな、私にとって都合の良い『密談の場』といったところかな」
セドリック殿下は、こともなげに言った。
「表向きは『夜伽』。そう思わせておくことで、余計な勘繰りを避けられる。そして、本当に話したい相手と、安全に情報を交換できる」
「情報を、交換…?」
「そうだ。特に…枢密院議長、フィルドラ卿に関する情報をね」
フィルドラ卿。その名を聞いて、私は息を呑んだ。仮面をつけた謎多き実力者。宮廷内でも彼を恐れる者は多く、黒い噂の絶えない人物だ。
「なぜ…私に、そのような話を…?」
「君が、あの『夜伽帳』を見つけたからだよ、レイナ・クルドノヴァ君」
びくり、と体が震えた。殿下は、私が帳面を見つけたことを、すでにご存知だった…?
「あの陳情書の山の中から、よく見つけ出したものだ。並の官吏なら見過ごしていただろう。君の観察眼、そして日頃の勤勉さ、書類整理能力の高さは、報告で聞いている」
「は、はあ…それは、どうも…?」
(いや、褒められても! なぜ私の業務評価を殿下がご存知なのですか!? まるで監視されて…!?)
背筋に再び冷たいものが走る。この王太子、ただの甘党天然王子ではなさそうだ。
「今の王宮は、見せかけの平穏の下で、どす黒いものが渦巻いている。特にフィルドラ卿の動きは看過できない。彼は…この国を歪めようとしている」
セドリック殿下の声に、静かな怒りと危機感が滲む。
「私はそれを阻止したい。だが、私の立場では自由に動けないことも多い。信用できる目と耳が、どうしても必要なんだ」
殿下の深い青の瞳が、まっすぐに私を見据える。
「レイナ君。君のその能力を、私のために、いや、この国のために貸してはくれないだろうか?」
「…わ、私に、殿下の…目と耳に?」
「そうだ。フィルドラ卿や、彼に近い者たちの動向を探り、私に報告してほしい。君なら、官庁にいれば様々な情報に触れる機会もあるだろう?」
(つまり…スパイになれ、と!?)
頭がくらくらしてきた。夜伽じゃなかったことには安堵したものの、事態は別の方向にとんでもなく厄介なことになっている。
「で、殿下、恐れながら申し上げます! 私は一介の官吏に過ぎません! そのような諜報活動のような任務は、私の職務範囲を著しく逸脱しております! 王国の服務規程にも…!」
「規程、か。なるほど、君らしいな」
セドリック殿下は、私の必死の訴えを面白がるように、くすりと笑った。
「だが、考えてみてほしい。フィルドラ卿の企みが成功すれば、それこそ法も秩序も、君が重んじる規程すらも意味をなさなくなるかもしれないのだぞ?」
「そ、それは…そうかもしれませんが…しかし…!」
「君が『夜伽帳』を見つけたのは、偶然かもしれない。だが、私はこれを好機と捉えたい」
殿下は一歩近づき、真剣な眼差しで私を見つめた。
「君の力が必要だ、レイナ君。これは、王太子としての命令ではない。セドリック・フォン・アステリア個人として、君に頼んでいる」
(う…そんな真摯な目で見られても…! 困ります! 非常に困ります!)
個人として、と言われても、相手は王太子だ。断ればどうなるか…。それに、フィルドラ卿のやり方には、私も思うところがないわけではない。だが、危険すぎる。あまりにも。
「…お言葉ですが、殿下。私には荷が勝ちすぎます。それに、そのような副業のような行為は、公務員として…」
「副業、ね。面白い表現だ」
私が言い淀んでいると、セドリック殿下は再び口を開いた。その表情は、先ほどまでの真剣さとは少し違い、何か企んでいるような、悪戯っぽい光を宿していた。
「では、こうしよう。これは『副業』ではなく、君への『特命』だ。もちろん、それ相応の…そうだな、『手当』は考慮しよう」
「て、手当…!?」
(そ、そこですか!? いや、確かに重要案件ですけども!)
予想外の単語に、私の思考はまたもやあらぬ方向へ飛びそうになる。この王子、人を誑かすのが実に巧みだ。
「…検討、させていただけますでしょうか」
肯定も否定も避け、なんとかそう答えるのが精一杯だった。セドリック殿下は、私の返答に満足したのか、あるいは私の内心の葛藤を見透かしたのか、小さく頷いた。
「ああ、もちろんだ。無理強いはしない。…さて」
彼は再びテーブルの上のお菓子に目を向けた。
「とりあえず、この菓子でも食べながら、少し話をしないか? この店のマドレーヌは、なかなかの逸品なんだ」
そう言って、彼はひょいと一つマドレーヌをつまむと、実に幸せそうに目を細めた。
(……やっぱり、この人、食いしん坊なのでは…?)
緊張と混乱と、ほんの少しの呆れが入り混じった複雑な心境で、私は差し出された焼き菓子を、ただ見つめることしかできなかった。