第一話:夜伽帳と私と、服務規程違反(疑惑)
「レイナさん、また残業? 真面目ねぇ」
降り注ぐ午後の陽光が、埃っぽく舞う執務室の空気を金色に染めている。そんな中、同僚のマリエッタが軽やかに声をかけてきた。私は山と積まれた羊皮紙の束から顔を上げ、無表情に頷く。
「ええ。第四四半期の歳入報告書、提出期限が迫っていますから」
「もー、堅いわねぇ。少しくらい息抜きしないと、せっかくの美貌が台無しよ? ねぇ、聞いた? 隣国の王子様が極秘でいらっしゃってるとか…」
「マリエッタさん、公務に関係のない私語は慎むべきかと。それに、その情報はどこから?」
「えー、秘密の情報網よぉ。…レイナさんって、本当、色気よりインクの匂いって感じよね」
やれやれ、と肩をすくめるマリエッタに、私は内心でため息をついた。(色気よりインクの匂い、結構です。インクは裏切りませんから。それに比べて不確かな噂話は…時間の無駄ですわ)
私はレイナ・クルドノヴァ、24歳。しがない下級官吏。かつては公爵家の次女だったが、まあ、色々あって今はこうして書類と格闘する毎日だ。不本意な過去はあれど、この官吏という職には誇りを持っている。法と秩序、規律こそが国を支える礎なのだから。
「では、私はこれで。あまり根を詰めすぎないようにね?」
「お疲れ様です」
パタパタと軽い足音でマリエッタが去っていく。再び執務室には静寂が戻り、ペンを走らせる音と、羊皮紙が擦れる音だけが響く。集中、集中。この報告書を片付ければ、今日は定時で…
その時だった。整理していた古い陳情書の山の一つが、バランスを崩して床に崩れ落ちた。
「あっ…! もう、だから整理整頓は基本だと…!」
舌打ちしそうになるのを堪え、散らばった羊皮紙を拾い集める。その拍子に、一際異質なものが目に飛び込んできた。絹の表紙、金糸で縁取られた豪奢な…帳面?
(…なんだろう、これ。こんな重要そうなものが、なぜ陳情書の山に?)
官吏の性だろうか、私はついその帳面を手に取って開いてしまった。滑らかなページには、流麗な筆跡でいくつかの名前が記されている。高名な侯爵家の令嬢、有力な伯爵家の未亡人…そして。
『レイナ・クルドノヴァ 公爵家次女(現・王都官庁 第七部所属)』
「………………は?」
自分の名前。特徴的なミドルネームまで寸分違わず記されている。しかも、紫色のインクで。このインクの色は、たしか王族の中でも特に高貴な方々しか使えないはず…。
背筋に冷たいものが走った。まさか、これは。噂に聞く、あの…?
(『夜伽帳』…!? なぜ!? どうして私の名前が!? 同姓同名の別人…? いや、所属部署まで書いてある! 何かの間違いでは!? これは悪質な悪戯!? それとも…!)
心臓が早鐘を打ち、指先が冷たくなる。パタン、と反射的に帳面を閉じたが、脳裏にはっきりと焼き付いた自分の名前が消えない。どういうことだ。私はただの末端官吏。このような…このようなリストに載るような謂れは、何一つ…!
混乱する私の思考を遮るように、執務室の扉が乱暴に開かれた。そこに立っていたのは、私の直属の上司、恰幅のいい中年男性のバルテルス課長だった。その顔には、いつもの嫌味ったらしい笑みが浮かんでいる。
「おお、クルドノヴァ君。まだ残っていたかね。ちょうどよかった」
「か、課長? 何か御用でしょうか」
「うむ。君に、新たな任務を言い渡す」
「任務、ですか? この報告書の提出がまだですが…」
「そんなものは後だ! これは、最優先事項だ! よく聞け」
バルテルス課長は勿体ぶるように咳払いを一つすると、低い声で告げた。
「今宵、王太子セドリック殿下のお召しである」
「…………はい?」
「聞こえなかったかね? 今宵、君は暁の間に参上し、王太子殿下にお仕えするのだ。…まあ、君のような者には、分不相応な名誉なことだろうがねぇ」
(…お召し? お仕え? ま、まさか、本当にあの『夜伽帳』の…!?)
血の気が引いていくのが分かった。立っているのがやっとだった。
「か、課長! それは、どういう…!? 私の職務は書類作成とデータ分析のはずですが! そのような…夜の…お仕えなど、服務規程のどこにも…!」
「口答えするかね、クルドノヴァ君」
バルテルス課長の目が細められる。ねっとりとした視線が私を射抜く。
「これは決定事項だ。君の家のことを考えれば、否やは無かろう? …分かっているだろうね?」
家のこと。その言葉に、私はぐっと唇を噛み締めた。そうだ、私には逆らえない。没落寸前の実家。私がここで問題を起こせば、どうなるか…。
(くっ…! なんて卑劣な…! 権力を笠に着て! これだから貴族社会は…! いや、今は感傷に浸っている場合じゃない! これは明らかに職権乱用! セクシャルハラスメント! 断固抗議…!)
…できるはずもなく。
「…承知、いたしました」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。
バルテルス課長は満足げに頷くと、「よろしい。準備があるから、すぐにこちらへ来なさい」と言い残し、さっさと部屋を出て行った。
残された執務室で、私はしばらく呆然と立ち尽くしていた。床には、あの忌まわしい『夜伽帳』が落ちている。
(私の官吏としての誇りは…? 法と秩序はどこへ行ったのよ…!?)
涙が滲みそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に堪えた。
◇
気づけば私は、官吏服の上着を脱がされ、肌触りの良い薄い絹の衣をまとわされていた。侍女たちの無遠慮な視線に耐えながらされるがままになり、気づけば王宮の奥深く、夜の離宮へと続く薄暗い廊下を一人で歩いていた。
(ひどい…あんまりだわ…! これではまるで、生贄じゃないの…!)
足元の絨毯はふかふかで、壁には高価そうなタペストリーが掛けられているが、そんなものに感動する余裕は微塵もない。ただ、心臓が早鐘のように鳴り、冷たい汗が背中を伝うのを感じるだけだ。
(落ち着きなさい、レイナ。私は公爵家の娘、そして王都に仕える官吏。どんな時でも冷静沈着を保たなくては…)
自分に言い聞かせるが、足は鉛のように重い。やがて、一つの扉の前で足を止めた。重厚な木製の扉には、金の意匠が施されている。ここが、『暁の間』。
深呼吸を一つ。震える手で、ゆっくりと扉を押した。
中は、想像していたよりも質素だった。広くはあるが、過剰な装飾はない。ただ、壁一面が淡い暁色の絹布で覆われ、いくつかの燭台の炎がゆらゆらと揺れて、幻想的な雰囲気を醸し出している。部屋の中央には、金縁の施された簡素な椅子がぽつんと置かれていた。
(…ここで、待つの?)
部屋には誰もいない。私はおそるおそる足を踏み入れ、どうすればいいのか分からず、所在なく立ち尽くす。絹張りの床はひんやりとしていて、心細さを助長する。
(せめて…せめて、清掃くらいしておいてほしかったわ。隅の方、埃が溜まっているじゃないの…)
こんな状況でも、思考がそちらに向いてしまうのが我ながら情けない。どれくらいの時間が経っただろうか。背後の扉が開く音に、びくりと肩を震わせた。
振り返ると、そこに立っていたのは、銀灰色の髪を短く整え、夜のように深い青い瞳を持つ青年だった。冷たく整った顔立ちは、まるで彫刻のよう。間違いない、王太子セドリック殿下だ。
(う…美しい…けど、冷たそう…)
緊張で喉が渇く。何か言わなければ。宮廷作法に則り、完璧なカーテシーを…!
「…レイナ・クルドノヴァにございます。この度は、お召しにより参上いたしました」
声が震えないように、必死で取り繕う。俯いた視界の端で、王太子がゆっくりと私に近づいてくるのが見えた。どんな言葉をかけられるのだろうか。侮辱か、それとも無慈悲な命令か。ぎゅっと目を閉じて、その瞬間に備えた。
しかし、彼の口から発せられたのは、予想とは全く異なる言葉だった。
「ああ、君か。…疲れているだろう?」
穏やかで、少しだけ甘さを含んだような声。
「新しい菓子が手に入ったんだが、一つどうかな? なかなかいけるぞ、これ」
え?
思わず顔を上げると、王太子は少し困ったように微笑みながら、手に持っていた小箱を開けて見せた。中には、見たこともないような美しい焼き菓子が並んでいる。
…………お菓子?
(…………は???)
私の頭の中は、完全に真っ白になった。