プロローグ
2025年12月13日(土)午前10時35分。
冬の冷たい風が東京の街を吹き抜ける。八王子市、閑静な住宅街。年の瀬も近づき、街はどこかそわそわした雰囲気をまとっていた。
相沢隼人は、いつもの土曜日と変わらない朝を過ごしていた。リビングでホットココアをすすりながら、スマホをいじる。部屋の隅ではストーブが静かに赤い炎を灯し、窓の外では灰色の雲が広がっている。
「クリスマスまであと10日か……」
スマホの画面をスライドさせながら、SNSのタイムラインを眺める。友人たちはクリスマスの予定を楽しそうに語っていた。ゲーム好きのクラスメート、岡崎は「新しいFPSゲームのクリスマスイベントが始まる!」と興奮していたし、別の友達は「イルミネーション見に行く!」とリア充な投稿をしていた。
隼人は特に予定はなかった。クリスマスは家族と過ごすのが恒例で、今年も妹の真菜と一緒にケーキを作ることになっている。まあ、それはそれで悪くない。
キッチンでは母の麻美が昼食の準備をしていた。父は都内のオフィスに出勤しているため、今日も母と妹の三人だけの週末だ。
「隼人、真菜迎えに行ってくれる?」
母がフライパンを振りながら言う。
「え、どこ?」
「スーパー。おつかいに行かせたんだけど、ちょっと遅いのよ」
「別にいいけど……」
スマホをポケットに突っ込み、立ち上がる。その時だった。
「……ん?」
ふと、違和感を覚えた。
体が妙に軽く感じる。いや、それどころか、リビングのコップの水面がわずかに震えている。
「地震……?」
小さくつぶやいた瞬間だった。
ゴォォォォ……
遠くの地の底から、獣のうなり声のような音が響いてきた。
その音が何かを理解するよりも早く、世界が揺れ始めた。
午前10時42分——南海トラフ巨大地震が発生した。
第一波——
それは、ゆっくりとした横揺れから始まった。
リビングの電球がわずかに揺れ、コップの水が波打つ。食器棚の扉がカタカタと音を立て、床が微かに軋む。
「地震……?」
母が戸惑いながらつぶやく。
しかし、その言葉が終わるより早く、揺れは一気に凶暴さを増した。
ガタガタガタガタッ!
床が波打つように揺れ、隼人はバランスを崩し、ソファの上に倒れ込んだ。
「隼人、机の下!」
母の叫び声が聞こえる。反射的にダイニングテーブルの下に滑り込む。次の瞬間——
ドンッ!!
家全体が跳ね上がるような衝撃が走った。
「うわっ……!」
耐震構造のはずの家が、軋み、悲鳴を上げる。キッチンではフライパンが宙を舞い、食器が次々と落下して砕ける音が響く。
ゴゴゴゴゴゴ……!
巨大な怪物が地下で暴れ回っているかのような轟音。
母は必死にカウンターにしがみついている。
「お母さん!」
隼人が叫んだ瞬間——
ドンッ!!
ガシャァァァン!!!
バリバリバリバリバリ!!!
上から天井が崩れ落ちた。
隼人の視界が、土埃と破片で真っ白になる。
沈黙——
耳鳴りがする。どれくらい時間が経ったのか分からない。
隼人は、自分が無事であることを確認すると、震える手でスマホを取り出した。
電源はついている。画面には「圏外」の文字。
「お母さん……?」
隼人は、ガラガラと崩れた天井の向こうに母を探す。
「……お母さん!!!」
返事はない。
揺れは止まった。しかし、家の中は崩壊していた。
母は……どこだ?
「落ち着け、落ち着け……」
頭の中で何度も唱える。地震の時、どう行動すればいいのか——そんなこと、教科書には載っていたけど、こんな状況で冷静に考えられるわけがない。
だが、このままじっとしていても意味がない。
まずは外に出るべきだ。
隼人は、瓦礫をかき分けながら、必死に家の外へと向かった。
外の世界は、すでに「別の世界」になっていた。
住宅街は崩壊し、煙が立ち上っている。倒壊した家々の中からは人々の悲鳴が聞こえ、道路には大きな亀裂が走っていた。
「……こんなの、あり得ないだろ……」
東京に、こんな光景が広がるなんて——。
その時、遠くで防災無線が流れた。
『大地震が発生しました。津波の恐れがあります。沿岸部の方は直ちに避難してください』
津波?
まさか。ここは八王子だ。海からは何十キロも離れている。だが、もっと恐ろしいことがある。
母は?
妹は?
父は?
それに、これから自分はどうすればいい?
隼人は、崩壊した街の中で、震える手でスマホを握りしめた。
「……72時間、生き延びなきゃいけないのか」
「生存確率0.01%」の世界が、幕を開けた。