序章 悪女になるまで ある男の登場と異変
アルビラは没落した子爵令嬢。
能力のない父がある貴族を邸に招いた事から彼女の運命が動き出す。
突然没落した貴族の邸を訪問した男爵を接待する事になったアルビラ。
三人の奇妙な晩餐会が始まる。
玄関先のエントランスですでに良い匂いがしている。
匂った事のないくらい美味しそうな匂い。
そして見知らぬ男。
父はその男にぺこぺこと頭を下げて私の前を二人ダイニングルームに足を向け進む。
私は怪訝そうな顔つきで二人の後ろを訳もわからず歩いてダイニングに入る。
私は瞳に映る光景を疑った。
ここは我が家のダイニングなのか?
どこかの裕福な屋敷のそれではないのか?
今夜の食卓は今までないくらいに豪華な内装、料理が並んでいるからだ。
グリルされた鶏の丸焼き、野菜のスープ、鱒のカルパッチョ、ローストビーフが所狭しと置かれている。
しかも南国の見たこともないフルーツや今の季節に咲くことのない花々が飾られ、掛けられたテーブルクロスも上質な真っ白な絹が食事の雰囲気を和らげようとしている。
我が家の日常とは懸け離れすぎてかえって違和感ばかりが目立ってしまっていた。
なにより驚き戸惑ったのは清潔な身なりの給仕が二人、召使いの侍女が五人、どうみても執事らしき人物が一人適所に配置されて各々テキパキと仕事をこなしていた事だった。
「今宵は男爵閣下のお好きな物を用意いたしまし た。
珍しくはないでしょうが、ヴァレイアルの赤ワインも用意いたしました。
満足いくおもてなしは出来ないでしょうが。
心からの感謝を込めさせていただきます」
父は一見いつものことですといわんばかりの自然な振る舞いを見せ機嫌はよさげだ。
見た事がないくらいニコニコと愛想がよかった。
気持ちが悪いくらいに。
父の饒舌な台詞に驚きと軽蔑と自分へも自尊心を傷つけられたような気分に、ダイニングから逃げ出したくて仕方なかった。
「こら、アルビラ。
男爵閣下にお話をしなさい」
父に言われるまま目線をややあげて、男爵と言われている男の顔を初めてきちんと両目で確認する。
年の頃は五十半ばだろうか?
恰幅のよさから裕福なのは間違いない。
上質の絹にダークグレーの上下の正装、シャツに更に上質な絹の光沢が美しい。
顔色は悪く赤黒い。
肌艶が悪く乾燥して、白い粉が吹いている。
瞳はやや茶褐色であるが、目が悪いのか常にこめかみを寄せて、額には深い皺が深く刻まれていた。
恐らく一度見たら身震いしそうなどうも近寄りがたい冷淡で陰湿な印象を受ける。
薄い赤紫色の唇がゆっくり開かれた。
鋭い瞳は貴族というよりも商人のそれのようだった。
おそらく根っからの貴族でなく功績で爵位を与えられたであろうと想像出来た。
「お若い方の好みの話は出来ないほうです。
あまりお嬢様を困らせてしまわれないように」
そう言いながら手際よくナイフで肉を切り裂いては口に運ぶ仕草には、明らかな不服さが滲み出ていた。
しかし気が変わったのか。
男爵は私の上半身から目を胸元、肩、首、顔としっかりと眺めながら高価な物を買う際に見せる。
めぶみするような視線を送った後に満足そうに皮肉めいた微笑みが一瞬見え隠れした。
しかしただ黙って不快な顔を見せ続けるのは良くないと父の様子から理解し、やや恥ずかしそうに小声で話す事にした。
「私はまだ世間に出ておりません。
気のきいた言葉もいえません。
何卒寛大な御心をいただければ幸いです」
私は差しさわりのない心にない言葉を吐き出した。
男爵は思ってもみなかった返しの台詞だったのか、一瞬戸惑ったような顔を見せたかと思ったら、何度も頷いては感心した様子だった。
自分の言葉の選択が間違っていなかった確証を得てホッとした。
「私はオルファン帝国とフェルキア公国を行き来しているフェルキア公国の商人です。
ガゼル・ディア・コーディルと申します。
前年公国から男爵位を賜りました。
たまたま酒場でフェルキアで父上と出会い、邸に招待を受けました。
父上の強いお誘いを断れずに若い御令嬢のいらっしゃる所にお邪魔した失礼を
お許しくださいませ」
「お父様がご招待をされた方を私が何を言えるのでしょうか?
狭くなんの歓迎も出来ない我が家ですが、お疲れをおとりいただければ嬉しく思います」
見事な模範解答だ。
父親は満足そうに気分が良い時に出る癖であった蓄えた顎髭を指で撫でながら珍しくニコニコと笑っていた。
気持ち悪すぎて吐き気がしてダイニングを飛び出したくなったが必死にそれを耐えた。
多少のお世辞を交えながらアルビラはそつなくコーディル男爵との会話をして、夕食が早く終えないかとそればかり考えていた。
父と男爵は煙草の間へと場所を変えて私は自室に戻った。
やっと解放されたと自室に戻ってみると、予想もしていなかった小間使いが二人待っていた。
しかも今から湯あみを手伝うという。
「今夜の違和感は拭いきれない」と言って、父に訴えかけたかったが客人がいるのでそうはいかない。
仕方なく浴室に行くと、今まで木の樽しかなかったその場所に湯気の立った浴槽が用意されていた。
湯には薔薇の香油まで入れられているのかよい香油の高貴な香りまでする。
薄いシフォンの湯あみ用の衣を羽織、足をゆっくり入れて全身を浴槽に沈めた。
温かいお湯が疲れた体に心地よく、身体の中にじわじわと沁み込んで芯まで温めてくれる。
こんな経験は初めてだ。
そもそも湯を沸かすのも面倒で、綺麗な水を用意するのも金がかかり大変だ。
だから身体はお湯を布巾に漬けて絞り拭くだけという日も多かった。
なのに今日に限って小間使いは髪まで洗い櫛で梳かし、濡れた布で身体を拭っていった。
それが終わると薔薇と蜂蜜と香油をまぜた美容液で私の身体、頭部から髪の毛までもマッサージし始めた。
その感触で湯の中でウトウトし、身体は重力をしらないとさえおもうほど心地よさに夢でも見ているのではないかとさえ思った。
気がついた時には鏡の前でナイトドレスを着て小間使いが髪を梳いている。
部屋は薪が十分に焚かれ暖かい。
ここが私の部屋?
気分はよかったが、いつもと違うその違和感と疑問は消えない。
「お嬢様。私達は失礼いたします」
二人は去っていった。
私は呼び止めて二人に聞けばよかったが、何故かそうしなかった。
そうしたらこの奇妙で、かといって気分の良さが失われる気がしたからだった。
疑問に思いながらも襲ってくる睡魔に勝てず、そのまま寝台に身体を滑り込ませた。
奇妙なそれでいて心地よい私の一夜は終わろうとしていた。
運命の夜を受け入れる事になるのも知らないで。
ようやく眠りについたアルビラの身に?
悪夢の夜が!!