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樹海の底 ⑥

          義樹の手記⑤


 早朝、神社に行き、手を合わせた。そうしていると、体が清められている気持ちになる。体を巡る血液も澄み渡って妙に冷たくなり、私自身が生き返ったようになる。その感覚が快い。神社は私にとってはなくてはならない場所である。神は日々穢れている私を受け入れてくれる。どんな私であろうともだ。手を合わせて頭を下げると、心の奥の芯から生まれ変わる気になれるのだ。それだけに、私は雑念だらけで人間同士との関わりで汚れているのだと言えるだろう。人生には山あり谷ありだ。私の人生で言えば、天から地に堕ちてしまっている。何も解決できなくなり、この世の雑多な汚れた精神をもつ人間たちと交じあわねばならないのだ。そのせいで、私自身が汚れた魂になってしまう。だから、神社に行くのだ。

 神は私にこう語りかけているかに感じる。

『この世で生きるかぎり、人間と関わるのは当然である。だから、あなたの魂は深い海の底に堕ちていってしまう。真に清めてくれるのは天にいる我々の場所なのだ。誰もが死に辿りつき、そして我々の元にやってくる。この世で穢れた魂を清めるのは我々の仕事である。まだ生きているあなたが我々のエネルギーが宿る場に来ることで、清めてあげているのだ。その都度足を運ぶのである。我々のエネルギーを知らぬ者はこの場にはこない。そういう者は心身も身なりもすさんでいる。だが、あなたは我々の元へやってくる。あなたは我々を選び、我々もあなたと選んでいる。清められていることを体感できるのは、あなたにその能力があるわけである。日常の穢れを落としてあげよう。選ばれ、選んだ者へ』

 私はあの娘が生まれてから、人混みを選ぶような行動をとっていた。妻がそれを望み、私はそれに合わせた。しかし、森林や山といった自然物のある場に足を運ぶことも多かった。日曜になれば車を走らせ、山や川に行った。できるかぎり、身を清めてくれるような場を自ら選んでいた。妻は、子供には自然とのふれあいが一番いいと言って賛成してくれた。そして、その帰りには大抵スーパーに寄ったものだ。私は車の中で留守番をしていることが多かった。あの人混みの中にいけば、見知らぬ者同士が混乱した場にいるだけで、自分自身が汚れていく気がしたからである。あの娘はまだ幼いのに、私に一緒にスーパーに行こうと誘ってきた。何度も嫌だと言ったが、その理由が理解できず泣くこともあった。しぶしぶスーパーに向かったこともあったが、私の心とは裏腹にあの娘は嬉しそうな顔をした。しかし、極力避けたかった。ただ、職場は違うのだ。選ばれし人間がいる場は自分の精神を高められる気がしたのだ。私の心も満たされた。だから、背筋を正して毎日赴いたのだ。

 昨日の出来事を書こう。

 私がふと継母の介護を思い出した。不思議なことに思い出したのだ。介護とはいえ、病気で入院をしていたのだから、私の純粋な介護とは呼べない。病院の人間に金を払って委ねたのだ。継母はプライドをもって病身ながら私に接していた。強く優しい人であったから、多くの弱音を吐くことはなかった。私は継母の快復を心から願い、毎日不安ながら過ごしていたが、病は体を蝕んでいくようで日に日に継母は弱っていき力尽きた。そんなことを思い出しながら、あの娘に言った。

「私たちの介護、おまえはできるのか? 両親の介護はいつかおまえがしなくてはならないんだ」

 あの娘はなんと言っただろう。私は驚愕した。

「しない」

 の一言である。私は腹が煮えくり返った。なんて人間であろうか。ここまで育て、金も投資し、てっきり素直に返事をするかと思ったら、そんなことを言ってのけるのである。私は鼻で笑いながら、こう言ってやった。

「今からそんなことじゃ困るね」

 あの娘は黙ってしまい、私と目を合わすこともなかった。二十一の小娘には何も感謝も生まれないのだろうか。自分の立場をわきまえられないのだろうか。悔しさと腹立ちしか起こらない。子供のときから親に感謝して生きてこなかったのか。労いの一言も言えず、何とも情けない娘である。そういえば、二十歳になって両親に世話になったと礼すら言わなかった。私は父や継母の前で、「ようやく大人になりました。ここまでお育ていただき、ありがとうございました」と手をついて頭を下げたものだ。だが、あの娘にはできない。なんということだろう。みっともない娘でしかない。礼儀のひとつすらない。心の貧しい人間に育ってしまったものだ。私は父親として恥じる。心から恥じる。

 ついでに、あの娘はこんなことも言った。

「私にはそんな余裕がない」

 私は声をあげて笑ってやりたかった。余裕も何もない。誰もが余裕などないのである。私が継母をあの世に送ったときも、何の余裕すらなかった。心身を削り、限界になりながら、心を込めてあの世に送ってやったのだ。それは血の繋がらない私を育ててくださった礼である。もちろん、父にたいしても心を込めて送った。当たり前のことを当たり前にしただけである。だが、あの娘は非情すぎる。なんて卑しいのだ。自分のことしか考えていないから、こんな答えしかでてこない。身内だからこそ、礼儀がある。それは当然なのだ。礼儀のかけらもない、ただ戯れているだけの親子をよく見かけるが、情けなさしか感じられない。親にたいして敬意を払うことのできない子がなんと多いことか。そんなことではこの世は滅びてしまう。私の気分は悪くなるばかりだ。誰もが神社へ行って、穢れを取り除いたほうがよいだろう。本当なら、何かにとりつかれているようなあの娘も神社で清めてもらったほうがよいのだ。とても不愉快な毎日である。

 私は今になり、つくづく思うことがある。一番美しい季節、人生で互いにまだ知らぬ男女が一緒に暮らし始めた結婚当初、死をもって人生を終わらせてしまったほうがよいのだと。人生は山を登った頂上で死んでしまったほうがいい。それ以上に登ることはできない。神に近づいていくには死しかないのだ。だが、私はそんなタイミングもわからず、当時そんな重大なことも知らず、そのまま突き進み、下っていってしまった。子が生まれ、自分らしさは奪われていき、誰のために生活をしているのかもわからなくなっていき、しまいには谷底に落ちていった。すべてあの娘のせいである。今でさえ、妻を旅行に誘うとしぶる。あの娘が何をするかわからないからだと言う。私たちは拘束されている。たった一人のあんな娘のために、自分の人生そのものを歩むことができない。ただの犠牲である。私のプライドも引き裂き、我儘勝手な行動で世間の何の役に立たないぐずな娘なのだ、あぁ、非常に情けない。

 妻が若く、美しく、私を男として見ていた頃が懐かしい。私を引き立て、麗しい視線で私を見ていた妻に会いたいものだ。今は何のかけらがあろう。今の生活には色気もない。愛と尊敬の眼差しなど幻想であったのだ。過去は近いようで遠い。人間も変わってしまう。人生の頂上で何もかも終わりにしかった。そう切に思う。

 こんなことを書き記しながら、目の前の小窓から遠い空を高く羽ばたいていく小さな鳥が目に映る。ああであってほしいものだ。天に近づき、花火をあげて上っていくのである。あの鳥はきっとそうであろう。そんな予感がする。




 由依はけだるい体を引きずりながら、西クリニックのカウンセリング室に入った。なぜこんなに体がだるいのかわからなかった。毎日の怠惰な生活と人と触れ合わない日々がそうさせているのだと思った。目の前の橋本は落ち着いた態度で、深く呼吸をして由依のほうを見た。どこか余裕を感じさせる橋本に、由依は所詮他人なのだと思った。どんなに親身になって話そうと、その時間は限られていてその代償を支払う。ここから離れればすれ違っても挨拶も交わさない関係になるだろう。

「このところ陽気もいいし、どこかへ出かけたりしましたか?」

 急にそんなことを聞かれ、由依は戸惑った。何の進展もない自分と両親と家の中で過ごしているだけだ。気が晴れるわけもない。心のわだかまりは何も解消していなかった。

「前回のカウンセリングからだいぶ経ちましたね。気持ちは落ち着きましたか?」

「……いえ」

 由依は小さな声で否定したが、橋本は重く受けていないような素振りをした。

 そもそもカウンセリングとは何であろうかと由依は思った。人の悩みを解決するための話し合いなのだろうか。アドバイスをくれるだけなのだろうか。話しても話しても平行線のままな気がした。最後はカウンセラーと向かい合っている自分にすべてが返ってくる。あなたがどうにかせねばならないと求められている気がし、結局話はぐるぐると巡っているだけに思えた。しかし、由依は食いついた。まだ何も解決していなかったからだ。

「私は虐待を受けたんです。まだまだ何も落ち着いていません。忘れることもできません。忘れたいけど忘れられない、それをどうしたらいいのですか?」

 由依は少しばかり強い口調で言った。橋本の穏やかで緩い話しっぷりが苛立たせる。この私の何がわかろうか。由依は自分の過去にまっすぐに気持ちが向かっていた。切り離せない過去とこれからの自分が一本の線で繋がっているかぎり、苦しくて苦しくて堪らなかったのだ。

 橋本は人々のカウンセリングをやっているうちに、多くの悩みばかりを聞いていると、この若く幼い女の悩みは自分にとってさほど大きなものに思えなくなっていた。慣れであった。相手がモンスターであったとしても、自分にとってはこの時間を支配するだけの存在であり、時間が経てば経つほど遠い存在にも思えてくる。自分の生活もあり、自分と関わる人間の苦悩に捧げることなど不可能であったのだ。

「虐待……ですよね。この前話したとおり、過去は戻ってこないということです。忘れてほしいなんて容易いことは言えませんが、過去にこだわり続ければ、川西さんの人生はそれだけに終わってしまうわけです。すべては自分の幸福度をあげていかなければ、何にも変わっていかないということです」

 橋本は淡々とした。内心、疲れていた。聞くだけ話は聞いてきたが、最後は行き詰る。相手の苦しみに共感すればするほど執着してしまうのを、今までの経験で知っていた。しかし、否定することもできない。何度となく完結できない経験をしてきたが、今回もやはりと思った。

「川西さんが変わっていく。それが復讐なんです、小さなことひとつでもいいんですよ、よかったとかそういう気持ちの積み重ねが大事なんです」

 橋本がそう言うと、由依は心に火がついたように話し始めた。

「私がどんなに悩み抜いたって、どんなに人からひどい扱いを受けたって、あの時にはもう戻れないわけです。もし、あの時が今なら、誰かが救ってくれたと思います。子供だった私を、大人の人間が救ってくれたんだと思います。だけど、あの時は周囲の人間誰も、知っていながら見逃していったんです。私が母に言ったとしても何もしなかったと思います。全部私のせいにしたと思う、だからって、今大人になって私は苦しまなきゃいけなくなってしまったんです。こんな理不尽な過去を、私は簡単に忘れられないです。忘れる方法を教えてください」

 橋本は由依から視線を逸らし、首を傾げて斜め下を向いた。由依はまっすぐ相手を見ていたが、そんな方法が出てくるわけもないとわかっていた。けれども、敢えて言った。新しい言葉で自分が初めて知る何かを期待した。

「……川西さんね」

 橋本はテーブルに両肘をつき、溜息をつきながら身を乗り出した。

「私も人間なんです。あなたから見れば、私は完璧な人間に見えるかもしれないです。でも、私はあなた以上長い年月を生きてきて、いろんな悩みがありました。幸い、虐待と断言できるようなことはなかったですが、人から傷ついて落ち込んだり、そんなことの連続なんですよ。生きるってそうことでしょう? 人とぶつかり合って、理不尽なことの連続じゃないですか。自分に服従してくれる人なんて誰もいないわけですよ。私と同じ意見の人もいるかもしれない、だけど、大抵は私と反発した意見しかないんです。無償の愛もあるかもしれないです、たとえば母親の愛とかね。でも、一生そういうわけではなく、どこかで崩れるんです。子供も大人になって自我が芽生えるし、愛なんて幻想です。ぶつかり合って傷つくんです、結局その連続です」

 由依は腑に落ちなかった。聞いても頭に入ってこない。まるで学校の先生が説教を延々としているみたいに、耳から耳へ通り過ぎていく。無償の愛を受けていない者がそれを知るはずもなく、失う気持ちも理解できるはずもない。虐待と断言した橋本にたいして、由依は疑いの気持ちさえあった。理想的な言葉たちは自分を苦しめる。簡単に割り切れない何かが心の奥でうごめいているのだ。

「何かをしてみるのもいいと思います。自分が本当に求めているもの、やりたいこと、生きがいを感じられること。それは私が探すのではなく、川西さんが探すんです。それは自分の生き方であるし、自分の人生なのだから、人ではなく自分自身で探すことなんですよ。後ろを向くのではなく、前を向くってことです。だって、それしか変えられないわけですから」

 由依は執着していた。自分が呪ってやまない過去を清算したい。それがなければ先に進めない気がした。カウンセラーの言うことが最もだとしても、自分の心を変えられない。変えたいが、変えられない現実を理解してほしかった。

「……私には、遠い昔のエピソードだとしても、変わることのできない事実だとしても、何にも見えてこないです。将来のことも考えても空白で何もできない、そんな気持ちしか今はありません」

「……そう」

 橋本は少し呆れながら、消え失せるような声で言った。由依はその後黙り込んだ。少しの時間が長い沈黙に思えた。心の内を知らせたところで何も解決しない。由依は失望していた。人に何を求めているのかさえわからない。誰かが延々に注いでくれる愛を待っているのだろうか。私を許し、すべてに置いて頷いてくれる愛であろうか。これからのこともさっぱりわからない。愛などと容易く言ってのけるカウンセラーが胡散臭く思えた。

「私の気持ち、ちっとも理解してないじゃないですか」

 由依は少し興奮気味に言った。

「いや……、そんなことはありませんよ」

 橋本はうろたえ、咄嗟に否定した。これまでの川西由依と向かい合ってきたが、一気に零地点に戻ってしまったようだった。自分の何がいけなかったと思ったが、何も気分を害するような言葉を発してはいない。自分は相手のことを考え、言葉を選びながらここまで運んできたつもりだ。

「でも、わかっていないです」

 由依は語尾を強めた。

「じゃ、まぁ、このへんで終わりにしましょう」

 橋本は急に冷静になり、平坦な口調で言った。次回のカウンセリングの予約も勧めないことにした。相手も納得いかないうえ、自分もひどく気分が悪い。こういう相手は単に嫌いだった。

 由依ははいと小さな返事をし、挨拶もせずにカウンセリング室を飛び出した。不愉快だった。気分が悪く吐きたいくらいだ。由依はすぐに帽子と伊達メガネを身につけ、待合室の椅子に座って俯いては体を固くした。




 心が地より底についたようで、誰かと話したくなった。電話をするにしろ、田村咲の名前しか思いつかない。話をしてもからかわれるのはわかっていた。しかし、自分の世界とは違う場で生きている人の話を聞いて、触発されるのも悪くはないと思った。たとえプー太郎と言われても、田村咲が悪いのではなく、自分自身が悪いのだ。由依はそんな刺激がほしかった。

 土曜の夜八時過ぎだった。受話器を持ち、少しばかり躊躇ったが、田村咲の家に電話をした。緊張した面持ちで相手が出るのを待つ。まだ仕事から帰ってきていないだろうか。誰もでない。受話器を置こうとした瞬間、田村咲の母親らしき人が出た。

「……田村です」

 細々としたか弱い声が由依の耳に届く。本人とはまるで違う田村咲の母親はこんな声だったのかと少し驚きながら、由依は受話器を強く握りしめた。

「川西と申しますが、咲さんいらっしゃいますか」

「……え?」

 と一瞬驚いた様子で言い、その後黙ってしまった。由依はいきなり電話をかけてしまい、どこの誰かわからないのだろうと思った。少し間を置いてからこう続けた。

「高校時代の咲さんの級友の川西と申します。咲さんはまだ仕事でしょうか」

「え、あぁ、そうですか……。娘に何か用事でもあったのでしょうか」

 そう丁寧に言われ、由依は戸惑った。ただ話をしたいだけが、田村咲の母親には通じないようだった。

「用事ではなくて、ちょっと話をしたかっただけなんです……」

 由依は田村咲がきっと仕事から帰宅していないのだろうと思った。気まぐれでかけた電話に妙に重々しくなっては困る。由依は挨拶をして切ろうとした。

「……あぁ、待って」

 田村咲の母親は急に言葉を強め、電話を切るのを引きとめた。そして、あのぅと言ってまた黙ってしまった。由依は不思議に思い、咲さんどうかされたのですかと聞いた。やはり言いにくそうで言葉が出てこないようだった。しばらく沈黙の時間が流れた。そうしているうちに、田村咲の母親の溜息が受話器から漏れた。

「……お世話になりましたね、川西さんですね。咲と仲良くしてくださってありがとうございました。咲は、たまにではあるんですけど、川西さんの話をしたことがあります。優しい子だって。咲は友達が少ない子でして、高校のときもあまり親しい友達がいなかったんですが、自分には川西さんしか親友はいないと言ってたときもありました。それで、……仕事に行っていましたけどね、はじめからなかなか馴染めないようで、孤立してたようです。私はつい厳しいこと言ってしまったりして、励ましていたんですけど、咲にとってはきつかったようで……。最近では、川西さんに会いたいなんて言っていました。私は勧めたんですけど、逆に渋ったりして、なんだか疲れていたようでした」

 由依には何のことかわからず、なぜ田村咲の母親がこんなことを長々と話すのか理解できずにいた。何て話をしていいのか迷っていたが、釈然とせずにはっきりと聞いた。

「咲さんはお仕事でしょうか」

 そう言うと、田村咲の母親は少しまごついて、少しどもりながらこう答えた。

「……あ、あのぅ、娘は亡くなったんです」

 由依はそれを聞き、頭が真っ白になった。亡くなったとはどういうことであろう。前に電話をしたときは元気がよかったはずで、春に会ったときは叱咤された。由依自身は押され気味で、自分とはまるで違い、順調にいっていた。そんな人が突然消えてしまったというのか。亡くなったという事実を疑いたかった。事故にでもあったのだろうか。

「……事故とか病気だったんですか?」

 由依がそう聞くと、田村咲の母親はやはりまごついているようで、なかなか返事が返ってこない。震えているようで、あのぅと言ってはだんだん声が小さくなってしまう。由依はこれ以上詮索するのをやめた。田村咲は死んだのだ。言葉を濁らせている母親の様子では何か特別な事情があったのだろう。知りたい気持ちもあったが、それを知ったところで田村咲が生き返るわけでもない。母親が言っているのだから、本当にこの世にはいないのだ。ショックでも驚きでもなく、由依は冷静だった。湧き立つような悲しみの感情は起きず、理解したのは田村咲の死という事実のみだった。

「ごめんなさいね、これ以上は……。今までありがとうございました、本当に。……ありがとう、ごめんなさい、これで失礼します」

 そう言って、田村咲の母親は一方的に電話を切った。

 由依は茫然とし、受話器を握ったまま立ち尽くした。いや、すべては嘘ではないかと思った。田村咲が私と話したくない口実に、母親に自分が死んだと言わせたのではないだろうか。そんなことが頭に過る。一方、自分の死を口実にするだろうかとも思った。現実に田村咲が死んだとしても、絶縁したさの嘘の死も似たようなものだと思った。どちらにしろ、由依にとって田村咲は死んだ。由依は混乱していた。受話器を置いて二階の自室に駆け込み、ベッドに倒れ込んでは声をあげて泣いた。田村咲の死と由依の心の死は似ていた。もう関わることはできない。死と同じように自分から去っていくのだ。二度と関われないのか、関わりたくないのか、由依は混同し、乱れていた。自分は一人になってしまう。そう思うと怖くもあった。この家の中で外界を知らず、終わっていくのだろうか。涙は目から次々と零れ落ちた。そして、ふと思った。なぜ田村咲の死を悲しめないのだろうか。なぜ人の死に涙を流せないのか。自分は自分自身のためにだけ泣き、田村咲のことなど考えていないのだ。とても卑しい。父がよく口にするみっともないとはこういうことを言うのだと、由依は心から思った。

 由依の涙がほとぼりが冷めた頃、ベッドから体をゆっくり起こし、腰かけた。足をぶらつかせ、耳を澄ました。一階の洋間から両親が談笑している声が聞こえる。こんな自分を抱きしめてくれやしない。たった一人の曖昧な友人の死などどうでもよいのだ。知らせたところで何もないだろう。死はどこにでも転がっていて、大人になればなるほど身近なものになる。由依は、田村咲が母親に嘘を言わせたのだろうと思った。友達というのはそういうものだと思い込みたかった。ただ、自分のことを親友と嘘でも言わせるなんて何とも粋である。そんな優しさを信じたかった。絶縁は二度と会えない死ではないが淋しく、もう二度と会えない死は体がよじれるくらい辛い。由依の心は二分していたが、どちらに揺れても怖かった。そして、田村咲に会いたいと心から思った。そんなに大事な友達ではなかったはずだが、急に会いたいと思うようになった。そんな気持ちが由依自身不思議に思えてならなかった。

 由依は一粒の涙を堪えながら、天井のほうを見つめて言った。

「先生が死ねばよかったのに……」

 田村咲の答えが揺らぐなか、ふと口を突いて出た。自分でも本心かはわからない。けれども、それくらい憎かった。その気持ちは一瞬でしかなく、由依は流れ出た涙を唇から飲み込んだ。




 十月になり、世間では騒がしくなった。由依にはそう感じた。ハロウィンもクリスマスも近づいてくる。由依が外を出歩くときはスーパーに行くくらいしかなく、西クリニックに通う必要を感じなくなっていた。カウンセリングの予約もしておらず、そのままだった。和子は度々クリニックの医者の診察をしたらどうかと勧めてきたが、由依は拒んでいた。家からスーパーの距離はさほど遠くなかったが、街のどこからともなくクリスマスソングが流れてくる。店先にはオレンジ色の小さなカボチャの置物が飾られている。目に映り込んでくる景色や音楽、通りを歩く同じ歳くらいの若者を見ると、妙に虚しくなった。この世界でたった一人のような気分に駆られる。とくに若い男女の姿を見ると心がざわざわした。自分には恋人もおらず、そんな接点もない。家というコンクリートの壁に囲まれた狭い世界に閉じ込められている。一歩出るにしても、スーパーに買い出しに行くのは味気ない。この世の同じ歳の男女がどんな気持ちでどんな生活をしているのか想像した。由依にとって失望しかなかった大学生活も、どこの誰かが謳歌しているだろう。仕事に励んでいる者もいれば、胸が高鳴る恋愛をしてクリスマスを心待ちにしている者もいるだろう。由依が想像できるのはその程度で、自分には何もないと思った。絶縁を申し出たのか、本当の死なのかわからない田村咲も自分から消えてしまった。もう誰もいなくなってしまったのだ。

 スーパーに行くと、クリスマスケーキの予約のチラシをくれる。家族の和やかな団欒や、恋人たちが過ごす幸福に満ちた食事を想像しては、家に帰ってはチラシを破り捨てた。たとえ自分に恋人ができたとしても、食事すらまともにできないのだ。そう思うと、将来への絶望感がひしひしと襲ってきた。憎しみなのか、呪いなのか、怒りなのか……、さまざまな混在した負のエネルギーに由依は包まれた。生きることは食べること、食べることは社会と繋がることだと思うと、ただ胸が締め付けられて苦しくなった。なぜこうなったのか、自分が生まれてきたことさえも疑わしく思う。考え疲れては何もできない自分を卑下し、脱力感に襲われる。生きる意味さえわからない。わからないくせに死ねないのだ。由依は淋しくて堪らなかった。

「学童ではクリスマス会やるんだよね。皆楽しみにしてるみたい、ハロウィンはやらないんだって。子供たちもハロウィンよりクリスマスのほうに興味があるみたいで。やっぱりサンタさんのほうがいいもんね。プレゼントをもらえるほうが……」

 台所でスーパーの袋から中身を冷蔵庫に入れている由依の背中に向かって、和子が明るく言った。

「なんで、私にそんなこと言うの?」

 由依は敵意を抱いている相手に向かうように、強く言い放った。和子は途端に顔を曇らせ、眉間に皺を寄せた。

「なぁに、そんな言い方して。学童でそういうイベントがあるって言ってるだけじゃないの。どんなイベントだって、子供たちと一緒にやるのが私の仕事なの。お金もらうのは楽じゃないんだから。遊びに行ってるんじゃないのよ」

「だって……」

 由依はそう言って口籠った。和子は、テーブルに置かれているヨーグルトを冷蔵庫の中に乱暴に押し込んだ。

「この人参も、ヨーグルトも、納豆も、ぜーんぶ、私とお父さんが稼いできたお金で買えているのよ。ありがたいと思いなさいよ。買い物なんて誰だって行けるんだから。由依は一銭だって稼いでないじゃないの。ハローワークだって勧めても見に行くわけでもないし。お父さんとお母さんがいなかったら、何も買えないのよ。何か買えるっていうの? 一円だって道路に落ちてないんだから。この着てる服だって買えないのよ。少しは自分の将来を考えなさいな。大学だって簡単に辞めちゃって……。大金を捨てたようなものじゃないの、自分から。私たちの期待を裏切って、今の生活があるなんて思わないでよね」

 由依は和子の顔を睨みつけ、唇を強く噛んだ。どうせ自分はゴミくずのような存在で、生きる価値なんてまるきりないのだ。思いのたけを口にした和子は、長い息を吐いて隣の洋間に行き、ソファにどっかりと腰を掛けた。

「学童の子はかわいい、無邪気で、素直で……。でも、大人になると、悪態ついたりするようになるのよね。私はずっと学童の先生でいたいわ。かわいいまんまの子がずっといるんだもの。……時間がとまってくれたら、あなたもずっとかわいいままだったのにね」

 由依は咄嗟にガスコンロの下の戸棚を開き、包丁を手に取って和子の元へ走った。それを見て、和子は小さな悲鳴をあげ、何をするのと呼吸を荒げて由依の顔をじっと見つめた。由依は包丁の持ち手を和子に向け、顔をくしゃくしゃにして涙を零した。

「私のことが、そんなに憎いなら殺せばいいじゃない」

「憎いなんて言ってないじゃないの。何をするの、変なことやめてよね。お母さんはあなたのことを思って言ってるだけじゃないの、勘違いしないで!」

 由依が手を緩めた瞬間、和子は包丁を取り上げ、台所に持っていって戸棚に仕舞った。

「包丁なんて持って物騒じゃないの。二度とこんなことしないでしょ、絶対に。私はね、ただ心配してるだけ。心配で堪らないからこんなこと言ってるだけなの。本当に憎いわけないじゃない、ねぇ、わかってよ、由依」

 和子は立ち上がり、肩を震わせて泣きじゃくる由依の背中にそっと手をあてた。

「お父さんも私も心配してるだけ。全部、真剣に考えないでよ。たいしたこと、私だって言ってないじゃないの。プレッシャーなんかかけてるつもりだってないし。いつも夕食作ってくれてありがとう。家事だって楽じゃないわよね、それは私が一番わかってるから。……でね、そんなに思いつめるなら、西クリニックの先生とよく話をしたほうがいいんじゃないかしら。家の中だけで話をしても埒が明かないし。どうなの? また行ってみたらいいじゃないの」

 和子は、包丁を手にした由依に動揺しながら、慰めようと必死だった。何か行動をするたびにドキドキさせられる。心臓の鼓動を聞くたびに、自分がどうにかなってしまうのではないかと思うと恐怖しかない。

「……もう行かない。行く必要ないから」

 由依はすぐに泣きやみ、鼻を啜りながら声を震わせて言う。

「なんで? 話くらい聞いてくれるでしょ。薬だってもらったら落ち着くかもしれないし」

「いいの、もう……。薬も必要ないし」

「じゃぁ、約束して。もうこんなことしないって。約束してよ。絶対にしないって」

 和子が由依の肩に手を掛け、体を強く揺らした。由依は深く頷いた。少しばかり冷静になり、包丁を持つなど普通ではないと思った。そして、もうしないからと小声で答えた。

 和子は少し安心し、由依の体から手を放して台所に向かった。包丁を隠しておこうと思ったのだ。すると、由依は和子の背中に向かって、声を大きくあげた。

「ねぇ、お父さんには言わないで、こんなことしたって言わないで、お願いだから!」

 和子はわかったわよと強く言い、ガスコンロの下の戸棚を開け包丁を取り出し、冷凍庫の奥に放り込むようにしてとりあえず隠した。由依は洋間のソファの横に立ち、ぼんやりと窓の外を眺めている。庭にいた雀たちが一気に飛び立った。なぜこんなことをしたのだろうと思った。自分を見失いながらも、もうしないからと和子に聞こえるように言った。

「……信じてるから」

「……ごめんなさい」

 由依は涙でくしゃくしゃになった顔を洗おうと、洗面台へ向かう。和子はそんな由依の背中を目で追いながら、なんて子なのと呆れた顔で溜息をつき、今夜は薬を飲んで寝ようと心の中で思った。




 


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