北方の地1
まだ夏だというのに涼しい風が吹く丘の上で、一人の女性が太陽が沈みゆく西の方角を眺めていた。
「後悔していない?」
隣に並んだ男は、彼女の夫だった。
「ええ。わたしは、この選択を後悔なんてしていないわ。あなたやこちらの国には、迷惑を掛けてしまったけれど……」
男は彼女にそっと肩掛けを掛けながら笑った。
「迷惑だなんて考えたこともない。君と、僕と、それからこの子と。これから三人、きっと昔のことを振り返っている暇もないくらい忙しくなる」
彼女が抑えた肚に手を添えて、男―ルイス・カステリは笑った。
「さすがにもうお父様も追手を差し向けてくることもないでしょう」
「公爵様が教えて下さったけれど、あれから君の存在は社交界でも徹底的に消されたそうだよ。もう噂話にすらならない」
ルイスは彼女の前に跪いて、彼女の手を取った。
「リリィ。君が持っていたもの、僕はなにも与えることが出来ないけれど、死ぬまでずっと、僕の命は君とこの子のものだ」
「ルイス。それなら私の命は、あなたとこの子に捧げるわ」
「一緒に、この土地を守っていこう」
かつて社交界の白百合と呼ばれたリリィ・エレオノーラ・ボレアリスその人が、セレスシャルの北方に静かに暮らしていることを知る者は、ごく僅かである。
ある日、ミザール公爵家当主は一通の書簡を受け取った。
各地の領地から送られてくる報告の山に紛れていたが、公爵は迷わずそれを取り上げて広げ、口元をほころばせた。
書簡の中に挟まれていた小さな羊皮紙の短冊に一言だけ、娘が生まれました。と書かれていた。
「間もなくあちらも春か……」
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