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彼岸の糸

作者: 平谷 望

 暗闇にポツンと、明かりが浮かんでいる。今日は新月だろうか、月明かりさえない夜道は底抜けに暗く、それ故に目前の明かりは誘蛾灯じみて目を引いた。袖を捲って腕時計の時刻を確認すると、午前二時二十分……古臭いことを言えば草木も眠る丑三つ時だった。

 そんな夜更けに足を止めたのは、明かり――街灯に照らされる公衆電話に見覚えがあったからだ。私が子供の頃、公衆電話に関してやけに根強い噂があった。××公園の公衆電話に深夜立ち寄ると、勝手に電話が鳴り始める。そしてそれを手に取ると、あの世の住人に電話が繋がり、最後にはあの世の住人がこちらにやって来てしまうというものだ。今思えば何の根拠も証拠もない、ただただ馬鹿げた噂でしかないのだが……どうしてか今、それが頭をよぎっていた。ここは噂の公園ではないし、噂は噂でしかない。私は明かりに照らされる公衆電話をしばらく眺めると、静かに歩き始めた。久々に昔のことを思い出したなあ、と感慨が湧いて――歩き出した背中に音が投げかけられた。


 ジリリリリリリリリ! ジリリリリリリリリ! 


「……」


 静寂を貫く耳障りな音には聞き馴染みがあって、思わず両足が止まった。聞き間違い……を主張できるほど、音の存在感は小さくない。なんならば現在進行形で音は鳴り響いているし、深夜に呼び出し音を響かせている。私はごくりと唾をのんで、一度後ろに振り返ってみた。透明度の高いプラスチックの壁に包まれた固定電話はやけに目立つ蛍光の緑で、いつ見ても大きい受話器には銀色の電話線がつながっている。見覚えはあれど、見慣れたものではない。そんな固定電話の受話器は、遠目からでもわかるほどに振動していた。……そもそも、固定電話にダイヤルがあること自体がイレギュラーであるし、何よりシチュエーションが悪い。そうこうしている合間にも音は甲高く、それこそ生まれたての赤ん坊が如くけたたましい。私は背筋に嫌な寒気を感じて、周りを見渡した。が、周囲に人影は無い。

 私はおろおろと立ち止まっては視線を彷徨わせ……覚悟を決めると、公衆電話へ向けて歩き出した。鳴り響く電話に対して「出なければ」という曖昧な義務感と、件の噂に相違ないこの状況への好奇心が、恐怖や一抹の不安を上回ったのだ。

 少し大股に公衆電話へ寄ると、銀色の取っ手をスライドさせて中に入った。中の空気はどこかぬるく、埃臭い。中に入ることでより音量の増した受話器は、耳障りな呼び出し音に合わせて振動を繰り返していた。この期に及んで少しのためらいが私の右手を縫い留めて……私は意を決し、緑色の受話器を取って耳に当てた。その瞬間、バタン! と物音が響いて、私は狭い箱の中で飛び跳ねた。一体何がと本能が音源を見て――肩から力が抜ける。出入り口の扉が閉まっただけか……。扉が閉まったことで音が籠り、空気が滞留する。閉塞感の三文字が顔を出して……声が響いた。


『……もしもし』


「あっ……も、もしもし」


『……』


 電話口から響いた声は掠れており、生気が無い。音質が悪く、男のようにも女のようにも感じられた。どちらかと言えば若い男のようだが、その合否を図る材料である声が一切続かない。冷めた静寂に心臓の鼓動がよく響いて、私はごくりと唾をのんだ。



「あの……」


『……』


「どちら様ですか……?」



 質問に返答は無く、けれども電話口から僅かに聞こえる呼吸音だけが相手の存在を証明していた。私はいたたまれなさと焦りで受話器を頬から離そうとして……声が聞こえた。


『そっちは……楽しいですか?』


「こっち……ですか?」


 なんとも意味深な質問に面食らって、脳裏に公衆電話の噂が反芻された。私はとにかく言葉を返さなければという気持ちで満たされて、言葉を絞り出す。


「まあ……悪くはないですが……ええと、そっちは――」


 言いながら、不味いと思った。なにが『そっちは』だ。私の質問には沈黙が返ってきて、しばらくした後に、欠片ほども抑揚の無い回答が返ってきた。


『…………地獄です』


「あっ……えっと、すみません」


『毎日が辛いです。ここは最悪で……そっちに行きたい。怖いんです。怖い。怖くて辛い』


 声の主は、先ほどまでと異なって饒舌に言葉を吐いた。怖い、消えたい……そして、助けてと言葉を捲し立てた。低く枯れた声には溶岩に似た粘液質な怨嗟が籠っており、助けてと口にする言葉に耳を……もしくは手を貸してしまえば、その瞬間から奈落の底に引き込まれてしまうだろうと思った。電話口から響く声は支離滅裂に声を吐いて、言葉を並べて、私はそれらの言葉に何一つ反応ができなかった。口を開けば、それこそ声の主に火をつけてしまう気がして、かといって無理やり電話を切ってしまえば、それこそ声の主がこちらの世界に来てしまうだろうという確信があった。だから私は追い詰められたネズミのように息を潜めて、ただ声の主がこちらに来ないことを信じてもいない仏様に祈った。


『助けてください、お願い、もうあなたしかいないんです。あいつらみんな、みんな殺してください。それができないなら、そっちに――そっちに行きます。ここは最悪だから、誰も僕を見てくれない。あいつらが怖い。お願いします。父さんも母さんも僕を無視して……』


「……」


『聞いてますか? 聞いてますよね? ねえ、なんか言ってくださいよ。ねえ……』


「……」


『おい……おい、聞いてるんだろ? なあ、なんで黙って――お、お前も……僕を無視するのか? おい、おい! 返事をしろよ! 僕を助けろよ!! なんで……ああ、クソ、馬鹿野郎! 役立たず!』


 声の主は私が電話口で居留守を決め込むと、丁寧だった言葉をかなぐり捨てて罵倒を吐いた。相当な大声で怒鳴っているのだろう、聞こえる声には強いノイズが混ざっていて、どうしてか耳鳴りが起きた。声は激しく私をなじる。役立たず、助けろ、信じてたのに。活火山の噴火じみて罵詈讒謗がしばらく飛び散っては、息を切らして打ち止めになった。それでもクソ、クソ、と吐き捨てる声に……私は重く唇を開いた。


「こっちだって、そんなにいいものじゃないですよ。少なくとも、あなたが思うよりは」


『……っ! そんな、そんなこと……だって、こっちは地獄なのに、どこに行ったって逃げ場なんてないのに――』


 声は私の言葉に錯乱していた。戸惑いがその舌を麻痺させて、声は二の句を継げない。だから私が、刺すように言葉を返した。


「ここには、あなたを慰めてくれる人は居ません。そして私は、あなたを助けることなんて出来ないし、誰も殺したりは出来ません」


『あ、え』


「だから、こっちに来ないでください」


 私はきっぱりとそう言い切った。声は私の言葉に沈黙して……そして、ヒステリックな叫び始めた。


『い、嫌だ、嘘だ! そんな、僕にこれ以上、どうしろっていうんだよ!! やっと、向こう側の声が聞こえるって、助かるって思ってたのに!!』


「あの、落ち着いて――」


『うるさい! 黙れ! ぼ、僕は信じないぞ! お前は……電話が混線したんだ、きっとそうだ! 嘘つきめ! 僕は信じない。絶対に!』


 ――ガチャン! と鼓膜に音が叩き付けられた。思わず受話器を耳から離すと、ツー、ツー、と音が聞こえた。ああ、電話が切れたのか。そう理解するまでに、少し間があって……私は深くため息を吐いた。何度か受話器を耳に当てて、固定電話の番号に触れる。適当に電話番号を打ち込んでみたが、コール音すらしない。どうやら、電話線が切れてしまったようだ。すっかり手に馴染んでいた受話器を固定電話に戻すと、私は少し立ち尽くしてから、静かに公衆電話のボックスから出る。静かに見下ろした腕時計の時刻は午前二時二十分ぴったり……古臭いことを言うならば、草木も眠る丑三つ時だった。

 私はそれを確認すると、またため息を吐く。


「仏様の真似事は、やっぱり無理か」


 彼はきっと、こちら側に来てしまうだろう。時計から目線を上げると、周囲はぞっとするほど暗い。先の見えない暗闇は比喩抜きで果てしなく続いていて、そんな中に街灯と公衆電話のボックスが浮いていた。月も星も無い空を見上げて、先ほどの声を思う。

 彼はきっと、とても辛い状況に居るのだろう。それこそ地獄のようで――地獄に希望を見てしまうような現実に。こちらにダイヤルしたのは、噂を信じて私にホラー映画のように誰かを殺して欲しかったからで、同時にこちら側が気になっていたからだろう。だが、三途の川を隔てた向こうにあるのは果てしない虚無だ。得体のしれない電話に出てしまうくらいには、ここは何も無い。


 だから、彼にはこちらに来てほしくなかった。辛くとも、生きていて欲しかった。信じてもいない仏様に祈ったのはその為だし、口を閉ざして電話口で居留守をしたのも余計な言葉で彼を刺激してしまわないように気を付けていたからだ。そうでなければ彼は、きっとこちらに来てしまうだろうから。……けれども、それらの気遣いは大して意味のないものだったらしい。憤りながら電話を切った彼の最後の声色を思い出して、私はため息を吐いた。

 芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のように、どん底で揺蕩う誰かを救ってみたかったのだが……現実は非情で、むしろ底抜けに暗いここへ引っ張り落してしまったようでさえある。


 私はしばらく演色性の悪い光に照らされる公衆電話を眺めて……静かに踵を返した。視界いっぱいに闇が広がっていて、足元さえもおぼつかない。そんな世界に一歩を踏み出して、ふらふらと暗闇を、ちょうどクラゲのように彷徨った。歩いて歩いて……少しだけ後ろを振り返る。なんとなくで、無意識の行動だった。

 振り返った先に、小指ほどまで小さくなった公衆電話と明かりが見えた。一面の暗闇に浮かぶそれは針の穴のようで、もしくはこちらに垂らされた一本の糸のようだった。

 けれども、あの世とこの世を繋ぐ糸――こちらへの電話線は、先ほど途絶えてしまった。それを思い出して、私は鼻を鳴らす。糸にしがみついていたのは誰か、糸を切ったのはどちらなのか。そんな疑問を無視しながら、私は静かに暗闇を進んだ。


 背後の暗闇に残るのはただの光。切れてしまった糸の切れ先――彼岸の糸。



 彼岸の糸  終

御一読、ありがとうございました。

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