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殺伐百合

刹那の永遠

作者: 犬井作

 墓石は乾いていた。墓碑の足元には小さな台があり、菊の花が供えられた花瓶と灰が詰められた線香立てが置かれていた。

 女は手を合わせることも、黙祷することもせず、ただじっと記された名前に目を向けている。半年後に役目を終える制服に身を包んで、手は固く体の横で握りしめて。


「入れてあげなかったから」


 女は墓碑に向けて右手を開いた。そこにはひとつの指輪があった。

 指輪はプラスチックでできていて、宝玉はビーズでできていた。


「あの時の約束、わたし、忘れてないから」


 死者は沈黙し続ける。骨は物質である。だが物質の組成にではなく、かつてその骨が組み上げていた全体を女は見ている。墓の下に埋められた、彼女の成れの果て。部分を全体に見立てるのは正しいのだろうか?


 正しい、と女は強く手を握りしめた。指輪が手のひらに食い込んだ。女は眉根を寄せて、刻まれた名前を睨みつけた。


「あなたがどこへ行こうと永遠なんだよ」


 届かない思い出。永遠ではない世界は不可逆の変化で構成される。あの頃にはもう戻れない。

 女は目を閉じた。


 瞼の裏で、思い出は克明だ。擦り切れることなく、繰り返される。始まりは、今日はいっそう、はっきりと。


 夏祭りの日。あのとき、運命が決まったと、思えた。


 半年後に迫った卒業式は、まだ現実感が伴っていなかった。六年間、変わりなかった環境を離れる。それに、怯えがあったのかもしれない。思い返すと、彼女もそうだったような気がする。だが当時、夢中で刹那を楽しんだ。


 日の沈んだばかりの空に雲は緋色だった。頭上を張り巡らされた電球が、淡く彼女を照らしていた。きれいな浴衣、手のひらの熱さ、汗、かすかに漂う石鹸のにおい。しばらく歩いた時、言われた。


「いつまでも、一緒にいようね」


 子供っぽい約束は、あの時たしかに永遠だった。一緒に老いて、一緒に生きて、一緒に死ぬ。その未来を夢想した。申し出に女は頷いた。幼馴染の申し出をは光に満ちていた。そんな人生が待ち受けているだなんて想像もしたことがなかった女には、眩しかった。


「約束する。ずっと一緒だよ」

「まるでプロポーズだね」


 女は、はにかんだ。彼女はふと目を留めて、露天に立ち寄る。指輪を、二つ、同じデザインのものを買った。彼女は女の手を取ると、その薬指に通した。戯れが女を運命の女(ファム・ファタル)たらしめた。破滅の女(ファム・ファタル)に女は恋をした。


 はっきりと。


 永遠は六年間続いた。女と彼女の出会いから運命の日まで積み重ねた時間を、吐き出すように。口づけをして、互いを求めて、違う家に帰ることを名残惜しんで。だけど想い出をいくら積み重ねても、最後には、もう二人には何も残っていなかった。


 そして夏祭りから六年後、彼女の死体が引き上げられた。駆け落ちした男と、しっかり手を繋いだまま。


 指輪なんてどこにもなかった。彼女の家にも、持ち物にも。


 すべてが夢だったのかもしれない。そう、女は思った。これまでの十二年間。すべて、何もかも。瞼の裏の思い出は作り出された偽物で、この墓の下にいるのは彼女ではなく別人かもしれない。わたしもわたしでないかもしれない。


 女は目を開けた。

 正午の陽射しが降り注いでいた。


 女は踵を返して歩き始めた。断崖に向けて、海を見つめて。小さな草むらを思い描いて、アスファルトをサンダルで噛みしめる。

 前に進まないと。母親は言った。彼女の母もそう言った。あなたには未来があると二人は言った。


 だが、その未来に彼女は不在だ。約束が果たされなかった未来は無名で、女の渇いた心を癒やさなかった。だが時間という抗いようのない変化を女は理解してもいた。ここにとどまり続けることを世界は許さない。そして、死んだとしても、隣に彼女はいやしない。


 道は既に絶たれたのだ。

 だから殺さなくてはならない。わたしを。


 断崖の草むらにたどり着くと、女はぐつぐつと、煮えたぎるものを感じた。嘔吐しそうになるのをぐっとこらえて、内蔵を突き上げる衝動に耐える。


 女は二歩ほど後退った。

 息を整える。


 そして、踏み込もうとしたとき、足が、かってに、更に前へと進もうとした。

 女はその感覚を体験していた。

 目の前に自分の姿があった。

 スカートをはためかせて、女は断崖の縁を蹴った。そしてひらひらと、弧を描き、飛んでいく。

 女は立ち止まっている。

 飛んでいる煌めきは思い出の残滓だ。

 女は、十二歳の彼女と手を繋いだ自分を見ていた。


 二人の少女は青空を、白雲を横切り、そして静かに、海へと落ちていく。

 どぷん、と海の下へ沈んでいく。

 勢いよく飛び込んだ体を無数のあぶくが包み込み、しかし泡は水面の光へと伸びていく。

 遠ざかる光を、鼻を伝って侵入する水の冷たさを、女は見る。

 手を繋いだ二人の少女は、額を合わせると、一つの指輪に結実した。


 沈んでいく。どこまでも、どこまでも。


 もう誰にも見つからないだろう。

 人の手に届くこともないだろう。

 いつか腐食し、摩耗し、壊れるだろう。

 跡形もなく消え去るだろう。

 まがいものの約束の証は波に揉まれ、岩礁に、動物の体に打ち付けられ、水流に揉まれ、散り散りに。

 そうなればもう、誰も手出しできやしない。

 遍在した思い出は物質の循環に溶けていく。


 女は空を見上げた。

 もう、そこには何も残っていなかった。


 少女の抜け殻は、来た道を引き返していった。

 抜け殻はやがて想い出を携え、組成を変える。不可逆の変化に陵辱された少女の抜け殻は別人となり、摩耗した想い出を懐かしむこともあるだろう。だが、この刹那、永遠は達成されたのだ。


 女の耳を潮風が撫でた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] なんといっても美しい文章表現。犬井様の作品には、いつも圧倒されます。加えて、示唆に富んだテーマ。 [一言] ある時間に取り残された「少女」と、その背中を見届ける「女」の抜け殻。本来的には肉…
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