第六話.新宮党の館
月山戸田城の北麓にある新宮党館では、戦の準備が進められている。
大内の動きが慌ただしくなってから、新宮党では連日練兵が行われていた。誠久はいよいよ生き生きとしてきて、はやく大内の襲来がないかと、子供のように落ち着かない。
新宮党の動員兵力は、尼子家中で宗家を凌ぐ兵数であった。
その兵力を支えるのは、支配地域の広さである。新宮党党首、尼子国久は、元々出雲吉田荘の、吉田氏の養子に送り込まれており、その吉田荘を中心とする出雲東部地域を支配していた。
さらに、尼子経久の三男で、謀反を企てて鎮圧された、塩冶興久の遺領西出雲塩冶ものちに引き継いでおり、出雲国内に絶大な権力を持っていた。
新宮党なくして、その領国経営は成り立たなかったのである。
また、その兵は数だけでなく、質においても群を抜いていた。
新宮党の母体は、若き頃の久幸が、出雲国内の屈強な若者を集めて、経久のための親衛隊を組織したことに始まる。
かつて経久は、主君であった京極政経と対立して守護代の地位を追われ、出雲から追放されていたことがあった。経久は、鉢屋衆と呼ばれる忍者と協力して月山戸田城を奪回する。
当時安芸武田家に身を寄せていた久幸は、経久の月山戸田城奪回後、ともに出雲に戻ったが、追放された経験から、当主経久を守る強力な、親衛隊的組織を構想するに至った。
久幸は、出雲国内から体躯の優れた者を選抜し、徹底的にこれを鍛えた。今現在の新宮党の中核となる屈強な家臣たちは、この時に選抜された者たちの子や孫であり、その体躯は群を抜いて大きく、優れていた。その威圧感は、黒赤に統一された甲冑と相まって、異様な凄みがあった。
その新宮党の一人、尼子敬久は、自らの館で、壁に立てかけられた強弓を眺めている。
この弓は、かつて経久が所持していた自慢の弓であった。杵築大社の祭神、須佐之男命の神意が宿っていると言われ、その価値は、計り知れない。
敬久が幼い頃、そんな事情も知らずに、経久にこの弓をねだった。国久は厳しく諫めたが、経久は、敬久が誰よりも弓の腕が上手くなるよう、鍛錬することを条件に、この弓をあっさり譲ってしまった。
経久は、物に対して執着がなかった。家臣が経久の持ち物を褒めると、どんな高価なものでも喜んでその場で与えてしまうため、家臣たちは気を使って褒めずに、眺めるだけにしていた。ある時、家臣が迂闊に松の木を褒めてしまうと、翌日には薪にして届けた。周りの者は皆もったいないと言ったが、経久は気にしない。
敬久に強弓を譲った時も、目を細めて笑みを浮かべ、喜ぶばかりだった。天性無欲正直の人と称されるほど、物に対して無欲であった。
敬久が昔のことを思い出していると、家臣が以外な人物の来訪を告げた。
「晴久公がお見えでございます」
「何、殿が?」
晴久が新宮谷に来るなど、いつ以来であろうか。少なくとも、敬久が独立して館を構えてからは、初めてであった。敬久は慌てて、晴久を迎える。
「久しいな、敬久」
その一室に通された晴久は、ゆっくりと上座に座る。後ろをついてきた従者は、一人部屋の前の廊下で、跪いて待機した。たった二人で来たことに、敬久は驚く。
晴久は、この時二十八歳。経久死後は威風が増し、尼子宗家当主に相応しい威厳を備えるようになっていた。
「よい館を構えたな。新宮党の威勢に、ふさわしい」
「はっ、恐れ入ります」
新宮谷には、国久ら一門の館だけでなく、重臣らも個々で館を構えている。三男の敬久は、最近独立して館を構えたばかりであった。
「戦の準備は、滞りないか?」
「新宮党は、いついかなる時でも、戦ができまする。練兵に不足のあろうはずもございません」
「それは、結構なことだ」
晴久は、満足気に頷いた。その姿は、経久を彷彿とさせる。
「殿……父や兄とはお会いに?」
「いや……此度は、おぬしの館を見に来たのでな。他の者には、会っておらん」
「それは……わざわざのお越し、ありがたき幸せに存じまする」
敬久はそう頭を下げたが、実際は、あまりありがたくない。晴久が敬久の館にだけ来たことが誠久に知れれば、痛くもない腹を探られるだろう。できればこの来訪は、知られたくない。
「しかし、新宮谷も随分変わったな。儂が来ていたころとは、様変わりしておる」
晴久は子供の頃、よく新宮谷に来ていた。そのころは、新宮党の三兄弟ともよく遊んだ。
敬久の一歳年下である晴久は、三兄弟にとって弟のような存在であった。国久も兄弟たちと晴久に、分け隔てなく接した。その頃は、もっとも彼らの関係が良い時でもあった。
「あれが、例の大殿に頂いた強弓か?」
部屋を見まわしていた晴久は、壁に立てかけた弓を見て、顎でしゃくる。
「はっ、子供の頃に頂いた強弓でございます」
「大殿は無欲の人と言われておったが、それにしても、よくあの弓を手放したものだ。そもそも大殿は、おぬしら兄弟には甘かったからな。儂が言っても、下さらなかったであろう」
「そうでございましょうか。私も随分、叱られましたが」
敬久は、往年の経久の姿を頭に思い浮かべる。
「おぬしたちの叱られ方は、叱られた内に入らん。儂は、大殿に本気で叱られ、大叔父にもおぬしの父にも、こっぴどく叱られた。おぬしら新宮党三兄弟が、羨ましかったぞ」
晴久はそう言って、豪快に笑った。敬久も懐かしさが込み上げてきて、自然と表情に笑みが浮かぶ。
確かに経久らは、晴久には常に厳しく接し、誠久らとの間に明確な差を付けていた。三兄弟と晴久では、背負うものが違うということだろう。
「その弓、少し見てもよいか」
その言葉に、敬久は頷いて立ち上がり、立て掛けていた弓を取って晴久に差し出す。受け取った晴久は、その強弓をしげしげと見つめる。
まるで魅入られたように、しばらく弓を見つめていた晴久が、不意に低い声で呟く。
「……あの時、大殿の御前で的を外したのは、須佐之男の神意か、国久の意思か。それともおぬしの意思か」
まるで独り言のようなその言葉に、敬久は返答に窮した。まるで不意打ちのように突き刺さった言葉に、激しく動揺する。まさか晴久の方から、あの時の話に触れてくるとは思っていなかったのだ。
もちろん答えなど、準備していなかった。神意と言えば忠誠を疑われる。しかし己の意思で外したと言えば、まるで神意がないようにも聞こえる。どちらを答えても、余計な懸念を抱かせる気がした。
「……」
息詰まる間の後、何とか言葉を絞り出そうと口を開こうとした敬久を、晴久は手
で制した。
「……つまらんことを聞いたな。忘れよ」
敬久は、思わず息を大きく吐く。
「……敬久、儂は新宮党と角突き合わせる気は毛頭ない。それは、国久とて同じであろう。しかし宗家として、新宮党に厳しい注文をすることが必要な時もある。そんな時、おぬしは話せる男だと思っている。今後も儂に、力を貸してほしい」
晴久は、刺すような目で敬久を凝視する。
「はっ、御意に背かぬよう、精進いたしまする」
敬久はもう、頭を下げるしかない。
「うむ、頼りにしておるぞ……ああ、そういえば……奥方が臥せっていると聞いている。具合はどうか?」
晴久は不意に、話題を変える。
「申し訳ございません。お迎えに姿も見せませんで……」
「構わぬ。実はな、先月京から来た薬師から、色々な薬を貰っておる。後で届けさせよう」
「お心遣い、かたじけのうございます」
敬久の正室、早の方は病重く、長く床に臥せっていた。二人の間には、子もいない。
「近いうちには、杵築大社に戦勝祈願に参る。その折には、儂からも快癒を祈願し
ておこう」
「重ね重ね……お心遣い痛み入りまする」
そうこうして近況などを話しているうちに、日が暮れてきた。門前まで晴久を送る。
「此度の戦は、大戦じゃ。尼子の命運がかかっておる。新宮党にも、命がけの働きをしてもらわねばならぬ。頼りにしておるぞ」
「心得ております」
「たまには美玖にも、会いに来い。長童子も一番可愛い頃よ」
美玖は、敬久ら三兄弟の妹で、晴久の正室である。長童子はその次男で、のちの尼子義久である。
去っていく晴久と従者を見送った後、屋敷に戻ろうとした敬久は、不意に首根っこを掴まれ、庭の奥に引きずり込まれる。見るとそれは、豊久であった。
どうやら身を潜めて、様子をうかがっていたらしい。
「あ、豊久兄、これは……」
「殿は、何をしにいらしたのか」
豊久は、険しい顔をしている。
「私の館を見に来たと……」
「それでお前は、わざわざ中を案内して見せたのか」
「いえ、そこまでは……おそらくご覧になったのは、館の外観と、私といた一室ぐらいかと」
「お前は、お人好しだな」
豊久は舌打ちしながら、掴んでいた着物を離す。
「その間、あの殿とともに来た従者はどこにいた?」
「廊下に控えておりましたが……」
「……愚かな奴。間違いない、あの従者は鉢屋衆の忍びだぞ」
鉢屋衆は、表向き祭礼や正月に芸を演ずる芸能集団だが、それだけの集団ではない。尼子宗家に仕える忍者集団、という裏の顔があった。
鉢屋衆は、元々あの平将門に仕えた一族で、将門の乱が鎮圧された後、その多くが山陰に逃れた。
尼子との繋がりは、経久がかつて月山戸田城を追われた時にまで遡る。月山戸田城奪還を目論む経久は、月山山麓に住む鉢屋賀麻党の党首、鉢屋弥之三郎を味方につけることに成功する。
鉢屋賀麻党は芸能集団であり、月山戸田城にも、元旦に芸を披露することが習わしとなっていた。経久はこの習わしを利用し、堂々と城に入城した鉢屋賀麻党とともに奇襲を仕かけ、月山戸田城を奪回したのである。
それ以降、鉢屋衆は尼子宗家の影として暗躍し、数々の功を立てた。その存在は宗家のためだけにあり、新宮党にもその全容は掴めない。
「……しかし、私の館の構造を調べて何を?」
「いつでもお前を、殺せるようにしておくために決まっておろうが。お前の寝所さえ分かっておれば、鉢屋衆には容易かろう」
「まさか!」
「だから、お前はお人好しだというのだ。念には念を入れておかねば、いつか足元をすくわれるぞ」
豊久は、心底あきれた調子で言った。
「では、どうすればよかったのですか?殿を、追い返すわけにも参りますまい」
「一人、家臣を廊下に控えさせて、従者の動きを封じておけばよかったのだ。少しは、頭を使え」
「……はあ」
敬久は、うなだれた。
「……豊久兄」
「なんだ」
「今日のことが誠久兄の耳に入れば、私はまた何といわれるかわかりません。できれば、このことは……」
「情けないことを口にするな。お前のそういうところが、兄上を怒らせるのだ。わからんのか!」
豊久はそう言い捨て、肩を怒らせて去っていった。敬久はまた、うなだれるしかなかった。
敬久が部屋に戻ると、正室の早の方が、不安げな表情で待っていた。
「早、何をしている。起きては体に障る。さあ、戻るのだ」
「殿……御当主様がいらっしゃったとか。お迎えにも出ずに……」
「よい。お前の体の事は、殿も承知しておられる。この寒さは、体に悪い。ささ、部屋に……」
敬久がそう言うと、早はさめざめと泣き始めた。
「何を泣く」
「……私は殿に嫁いで以来、床に臥せることが多く、奥向きのこともできなければ子を生むこともできません。今日もまた、妻の務めも果たせずに……それが、申し訳なくて……」
「気に病むことはないと言っておろう。殿もわざわざ、杵築大社に祈願してくださると仰っていた。まずは養生して体を直せ。それからいくらでも取り返せる。さあ戻ろう」
敬久はそう言って青白い顔をした早の背中を支え、下がらせた。そのやせ衰えた背中は、痛々しかった。
不意に脳裏に、初夏の太陽に照らされた早の輿入れの行列を思い出す。
(いつか必ず、早は治る。杵築大社の神々が、仏が、きっと……)
早が嫁いできた日、その美しさに一瞬で心を奪われた。いつか必ず、早はその美しさを取り戻す。敬久はそう、信じていた。