第五話.安芸の謀将
毛利氏の居城、吉田郡山城は、安芸の吉田盆地の北に位置する、郡山に築かれた山城であった。
当初この城は、多少堅固な砦程度の小さな城であったが、毛利氏十二代当主である元就が勢力を拡大するにあたり、徐々に拡張されてきた城であった。
天文十年(一五四一年)の吉田郡山城の戦いの折には、三万を超える尼子の大軍を撃退するほどの堅固な要塞と化しており、その規模は、山全体に及んでいた。
その城内には、一族や重臣の居館も設けられており、戦のためだけの山城というだけでなく、平時の政治の中心としても機能していた。
その姿には、華美な装飾などは一切かったが、数多の実戦をくぐり抜けてきた質実剛健なその造りは、見る者に不思議な感銘を与えた。毛利の苦難の歴史は、全てこの城に沁み込んでいたのだ。
その本丸の最も高い部分には、見張りのための櫓があった。その櫓の上で、朝日に手を合わせ、念仏を唱える男がいる。
安芸の国人、毛利元就。
朝日に照らされたその横顔は、穏やかであった。元々精悍な顔つきだが、最近は表情から鋭さが影を潜め、柔和な印象さえ漂わせていた。
安芸の国人衆は、長年大内と尼子の間で、右往左往する存在であった。
大内と尼子を旗頭とする、山陰山陽の勢力争いは目まぐるしく、時に大内、時に尼子と、覇者は移り変わった。近年はそれに対応するため、安芸国人衆は、かつての国人一揆のように、お互いの連携を模索するようになっていた。
その中心となってたのが、吉田の毛利元就である。
すでに初老となっていたこの男は、他の国人領主にはない風格を漂わせ、感情を表に出さないその姿は、調整役として適任であった。今、多くの安芸の国人が大内の傘下にあるのは、この男の功績が大きく、また今回、興経が大内に鞍替えしたのも、元就の手引きあってこそであった。
「……やはり、戦となりましょうか?」
手を合わせる元就の隣で、一人の年老いた女が不安げに尋ねる。
「……おそらく、避けることはできますまい。大戦となりましょう」
念仏の終わりに、目をつぶっていた元就は、ゆっくりとその目を開き、隣にいる杉大方に答えた。
杉大方は、元就の父、弘元の継室で、元就にとって養母のような存在であった。
元就は五歳の時に母を亡くし、十歳で父を失った。そして十一歳の時、兄の興元が大内義興とともに京に上洛したため、頼る者もなく、一人孤独となった。
当時の毛利氏は重臣らの権限が強く、領主の息子ですら、歯牙にもかけないという輩もいた。元就は、今でも毛利で大きな力を持つ、井上一族の井上元盛に、多治比の所領三百貫を横領され、その生活は困窮を極めた。
元盛は、元就の後見役の一人でもあり、その事実だけでも、どれだけ元就が侮られていたかわかるだろう。
それを憐れに思い、母として元就を養育したのが、杉大方であった。
この話には少し、事情がある。
杉大方は弘元の死後、実家に戻ろうとしたが、その実家の高橋家では、彼女に再嫁ではなく、落飾させようとした。尼になって寺に入れ、というのである。
杉大方はこれに反発し、毛利家に残る決意をした。しかし、子を産んでいない彼女は、先代の継室という立場以外、後ろ盾がない。
弘元には、寵愛していた側室がいた。相合大方と呼ばれていた女性である。彼女には、頼りとする息子がいた。
弘元の三男で、元就の異母弟、相合元綱である。
杉大方は継室であったが、実子がいない。彼女が毛利家で立場を守っていくためには、元就と共闘する必要があった。
元就の母は正室であったが、すでに他界していた。母のいない元就にとっても、杉大方との義理の親子関係は、弟元綱に対抗するために必要であった。
互いの利害が一致したのである。
初めこそ、同盟のような親子の二人だったが、ともに過ごす内に情も芽生え、次第に本当の親子のようになっていった。
そんなある日、杉大方は旅の僧から説法を受けた。それに感銘を受けた彼女は、元就を連れて、もう一度その僧の話を聞いた。その日以来、二人は教えに従って、毎日欠かさず、朝日を拝むようになったのである。
そんな念仏を唱える親子二人の姿は、次第に美談のように語られるようになっていった。
もっともそれを美談に仕立て上げたのは、元就の器量を見込んでいた重臣、志道広良であった。その結果、元就の家中の評判も上がることになったのである。
この日は、雪が残る冬空の下、久方振りに杉とともに朝日に手を合わせ、念仏を唱えた。
杉大方も年齢のせいか、最近は体調が優れないことが多くなっていた。もちろんそれでも、毛利家を思う気持ちは変わらない。彼女は寒さの中、朝日に毛利の安泰を祈ったのである。
元就と杉が館に戻ろうと歩いていると、本丸近くの雑木林の中に、開けた場所がある。そこには従者を連れた、二人の子供の姿があった。
元就の次男、少輔次郎と、三男、徳寿丸であった。
「……あらあら、こんな寒い朝に。子供は元気で羨ましい」
杉大方は、そう言って微笑を浮かべた。どうやら彼らは、雪合戦をしようとしているらしい。
お互い、四人の従者を連れている。元就と杉大方が少し身を屈めて様子を窺っていると、やがて少輔次郎と徳寿丸の合図で、合戦が始まった。
開始早々、少輔次郎の軍勢が優勢となった。この次男は、前年までの吉田郡山城の戦いで、元服前ながらすでに初陣を飾っており、その腕力は大人にも引けをとらなかった。ただしその初陣は、勝手に出陣したものであったが。
その少輔次郎を中心に、他の四人も次々と雪を投げつけ、徳寿丸の軍勢を追い詰めていく。次第に勢いに差が出て一方的となり、あっさり少輔次郎方の勝ちとなった。
「俺の勝ちだぞ、徳寿丸」
少輔次郎が、勝ち誇った声を上げる。
「まあ、大人げない」
歳の差はあるが、どちらも子供である。しかも、従者には大差がない。しかし杉大方がそう言ってしまうほど、少輔次郎は圧倒的に強かった。
徳寿丸は腕を組み、地べたに座り込んで唸っていたが、やがて目を見開いて、飛び上がる。
「兄上!もう一度、もう一度!」
「何度やっても同じだ」
「もう一度!」
地団駄を踏んで頼む徳寿丸に折れた少輔次郎は、従者達に指示して、開始位置に戻った。徳寿丸は従者達を集め、何やら耳打ちしている。
再び、合戦が始まった。
先程と同じようにまた、少輔次郎方が有利となって、追い込んでいく。しかし徳寿丸方は先程と違い、少しづつ後退して、雑木林の方に入っていった。
「あら、いつの間にか三人に」
「……徳寿丸め、考えたな」
元就は、いつの間にか三人になっている徳寿丸方を見て、にやりと笑った。どうやら少輔次郎は、雪を投げることに夢中になって、気づいていない。
尚も追い込む少輔次郎を引き込むように、徳寿丸は下がる。少輔次郎が勝負を決めようとさらに前進したその時、雑木林の左右の影から、居なくなっていた二人が飛び出し、両側から雪を投げつけた。
不意を突かれた少輔次郎がひるんだ瞬間、徳寿丸方三人が、一気に攻勢に出た。
囲む形になって勢いがつき、今度は徳寿丸が勝った。
「やったあ!」
「徳寿丸、卑怯だぞ。正々堂々と戦え」
「勝ちは勝ち、ですよ。これは、策略なのです」
「あんなものが、策略なものか。もう一度だ、もう不覚はとらんぞ」
少輔次郎はそう言って、徳寿丸に詰め寄った。
「そこまで。二人とも、そこまでじゃ」
「あ、父上!」
木の影から不意に現れた元就と杉大方に、徳寿丸が駆け寄る。
「父上、もう一度やらせて下さい。負けたままでは、終われません」
少輔次郎が今度は、元就に詰め寄る。
「よいか、少輔次郎。もう一度やれば、確かにお前が勝つだろう。しかしそれで弟に勝って、嬉しいか。兄なら、これで引き分けにしてやらぬか」
その元就の言葉に冷静になったのか、少輔次郎はしばらく考えたのち、
「承知しました」
と、頭を下げた。
その姿に微笑を浮かべた元就は、二人の肩に手を置く。
「よいか、二人とも。お前達はともに一度敗れ、もう一戦と願った。しかし、本当の戦で一敗地に塗れれば、二度と戦うことは叶わん。兵は国の大事じゃ。大勝負は二度はないと思え。よいな」
「はい!」
「よし、戻れ。先に、学問の時間じゃ」
二人の子はまた元気よく答え、雪の上を走りながら館に戻っていく。
「あの二人は、随分性格が違うようですね」
「隆元もまた、違いまする。三兄弟というのは、見ていて飽きぬものです」
元就は、そう言って笑った。
二人が見送っていると、遠目に少輔次郎が服を脱いでいるのが見えた。ふんどし姿になった彼は、無言で雪山に飛び込んだ。
「……たまに、あの子の心が心配になるのですが」
「まあ、子供のやることです。突拍子もないのは、直るでしょう……多分」
元就の笑いは、乾いたものに変わっていた。
館に戻ると、しばらくして隆元がやってきた。隆元は先日、出雲攻めの賛否を決める山口の評定に、元就の代理として参加し、昨日帰ってきたばかりであった。この日の来訪は、その報告である。
「やはり、戦と相成ったか」
隆元から一通りの報告を受けた元就は、顎に手を当てた。
義隆が珍しく、出征に乗り気であるという話は聞いていた。どうやら、日々享楽にふけり、日々公家のような生活をしている義隆も、武人の血が騒ぐときがあるらしい。
実のところ、元就もこの戦に大きく反対しているわけではない。
しかし、ただ一度の出征で、尼子を滅ぼせるとは思っていない。幾つかある懸念が払拭できれば、この戦は尼子の力を削ぐ好機である、というのが元就の見立てであった。
元就は、もっとも大きな懸念を払拭するため、盛んに出雲に間者を放っていた。
尼子経久は、本当に死んだのか?
謀聖経久の恐ろしさを、骨の髄まで味わってきた元就の最大の懸念は、その存在であった。あの男ならば、自らの死の報を謀として使うことは、十分あり得るだろ
う。もし経久が生きているなら、出雲には何が待っているかわからず、そこに飛び込むのは危険極まりない。
しかし、数年前から出雲に放っている間者も、経久がとうの昔に呆けていると知らせてきていた。冷静に考えれば、すでに経久を恐れる段階にない。それでも気になるのは、安芸が、経久の謀略に晒され続けた歴史があったからだった。
「隆元、他に気になったことはなかったか?」
元就は、経久のことを振り払うように尋ねた。義隆が尼子攻めを決めた以上、それは決定事項である。
「気になることと申しますか……吉川興経殿のことなのですが」
「興経が、如何した?」
吉川興経の母は、元就の妹であり、甥にあたる。つまり隆元からすれば、従兄弟である。
「此度の評定で、興経殿の言葉が、お屋形様の決心を後押ししたのは間違いないようです。世間で言われるような、考えのないお方に見えなかったのですが」
「興経が、な」
隆元から興経の言動の詳細を聞いた元就は、再び顎に手をやり、髭を撫でた。
興経の世評は、猪武者である。武勇に優れるが、思慮が浅い。それに、叔父の経世は手を焼いていた。実際に会ったことのある元就の感想も、おおよそそんなものであった。
「……興経は此度、大内に付くという良い判断をした。儂もしばらく会っておらんが、甥が思慮深い男に成長したと思いたいものだがな」
今回の出雲攻めでは、興経に会う機会もあろう。元就は、久しぶりに甥をみるのが楽しみになった。
この時元就は、興経をまったく疑っていなかった。
「話は大体分かった。隆元、此度は大義であったな」
「いえ、私も久方振りの山口、楽しく過ごさせていただきました。では」
隆元は頭を下げて、退出しようとした。
「ああ、そうだ隆元。たまには弟たちとも、遊んでやれ」
「……子供に交じって、雪遊びはできますまい」
「なんだ、見ておったのか」
どうやら隆元は、先程の雪合戦を、どこからか見ていたらしい。
「子供は子供同士、遊べばよろしいでしょう。では」
隆元はそう言って、部屋を出て行った。
「やれやれ……」
隆元は山口から帰って以来、あまり弟たちと交流していないようだった。少輔次郎と徳寿丸も、山口の風情に慣れた兄に、距離を感じているように見える。
元就は、兄弟関係で苦い経験がある。兄弟間のしこりは、小さくとも後に大きな禍根を残すこともある。
「どこかで、言い聞かす必要がありそうだな」
それが元就の、父親としての務めであった。