第五十八話.要害山の雨
尼子清久の居城、塩冶の要害山城は、経久に城を託された清久の父、興久が本拠地としたまさに要害の城であった。
かつて叛旗を翻した興久は、野戦で敗れて寡兵となり、要害山城を支えきれず、舅である備後の山内直通を頼って落ち延びた。結局、城はその堅固なることを示すこともなく経久に接収された。
そんな経久が孫である清久に城を継承させたのは、興久の死に後悔があったからに他ならない。清久もまた、経久の前では殊勝であった。
その要害城で今、主の清久は落ち着きのない様子で上座をうかがっている。その上座で盃を重ねる出雲の王、晴久は、あくまで上機嫌に見えた。
「どうした、清久。盃が進んでおらぬではないか」
「はっ……、いや、もう十分に頂きまして……」
恐縮する清久に、晴久が笑う。
「遠慮いたすな、清久。今宵はそなたの戦功を祝う杯事じゃ。そのために余もこの要害山城に来たのだからな」
「しかし……、海路の大内勢を壊滅させたとは申せ、晴持の首級を上げることができず……取り逃がしたかと懸念いたしておった次第で……」
「懸念には及ばぬ。命からがら逃げ帰った義隆は、領国全土に発喪して壮大な葬儀を営んだ。領民は喪に服し、義隆は悲嘆に暮れているという。紛うことなき、此度の戦随一の槍働きよ」
平伏する清久の額に、脂汗が浮かぶ。急な晴久と重臣の来訪は、清久には予想外の出来事であった。
確かに大内の嗣子、晴持を討ち取った清久の戦功は抜群であった。晴久は戦勝祝いの宴を催すにあたり、戦功第一としてまず清久を呼んだが、清久は病と称してこれに応じなかった。己の裏切りが発覚していないか、確信が持てなかったからである。それがはっきりするまでは、うかうかと呼び出しに応じるわけにはいかない。
清久は間者を放ち、月山富田城の様子を探っていたが、先に動いたのは晴久であった。重臣をつれて、戦功祝いと称して要害山城に乗り込んできたのである。興久の代から仕える重臣、加藤久通が晴久一行の来訪を告げてきた時、清久はしばらく状況を理解できなかった。
「なぜ簡単に城まで入られたのか!」
清久は久通を叱責したが、追い返すわけにもいかない。そうしてしまえば、叛意を認めることになる。
かくして望まぬ祝宴は始まったが、清久としてはもちろん、酔えたものではない。
晴久は亀井秀綱以下、宿老と言える重臣らを帯同していた。その中には、大西高由や立原幸隆といった剛勇の士もいる。
清久は家臣に命じて、別室に兵を潜ませていた。そこには、いざとなれば晴久と刺し違える覚悟もあったからである。高由や幸隆は厄介ではあったが、数で圧倒すれば勝算がないわけではない。
そんな清久の腹の中など気づかぬ様子で、晴久は清久の盃に酒を注ぎ続けた。断れない清久は、さすがに酔いが回ってきた。
「いや、もう十分頂き申した。今宵はこれにて……」
逃げを打とうとする清久を見て、亀井秀綱が目配せした。視線を受けた加藤久通が、清久の前に平伏する。
「殿……何とぞ、この久通に腹を切らせて下され」
清久は急な腹心の言葉に、しばし呆然とした。
「……久通、何の話か?」
「晴久公は、殿の御隠居と某の切腹を条件に、御嫡男、彦四郎様の家督相続をお約束くだされました。何とぞ、晴久公の御温情におすがり頂きたく……」
「な、なんだと!」
一気に酔いが覚めた清久は、周囲を見回した。いつの間にか清久の家臣はいなくなり、久通だけになっていた。
「裏切ったのか、久通!」
「事は、すでに露見しておりまする。何とぞ、御英断を」
「黙れ、この痴れ者め! 主君を裏切るなど、それでも武士か!」
喚く清久をみて、晴久が笑う。
「清久、どの口がそれを言う。大内に魂を売っていたのは、貴様ではないか。久通は、尼子への忠義を貫いたに過ぎぬ」
「謀ったな、晴久!」
清久は鬼のような形相で、床を叩く。
「そなたが余を迎え入れたのは、良い判断であった。合戦となれば、無用な血が流れることになろう。すでに勝敗は決しておるのだ」
近くから、鋼のぶつかる甲高い音が聞こえた。続けて聞こえるうめき声が、幾重にも響き渡る。
「貴様が伏せておった兵どもも、直ぐに片付こう。軍勢はもう、城に入っておるのだ」
「くっ、裏切り者がいなければ……」
「心得違いをなされるな、清久殿。久通は己の命と引き換えに、貴殿にとってもっとも良い条件をまとめたのですぞ。これは紛うことなき忠義にござる」
その秀綱の言葉に、晴久が頷く。
「秀綱の申す通り、余は主君のために、己の命を捨てると言う久通に免じて、この条件を飲んだ。かつて大殿が、興久が裏切ってもそなたに家督を継がせたように、余も彦四郎の相続を許そうではないか。なに、貴様の命も取らぬ。頭を冷やし、神妙にせぬか」
しかし、逆上した清久は聞く耳を持たない。
「いい気になるな、晴久! 必死に寛大に見せて、大殿の真似事をするか。貴様は大殿の足元にも及ばぬわ!」
「……そのぐらいにしておけ、清久」
晴久の言葉が怒気をはらんだが、清久は怯まなかった。清久とて大内になびいた時から、覚悟はできている。ここで意地を張れねば、あの世の父に顔向けできない。
「ふん、寛大に見せれば、大殿になれるとでも思っているのか。そもそも尼子の血を引いておらぬ貴様が、大殿に似るわけがなかろう!」
「……なんだと?」
負け惜しみにしては突飛な言葉に、晴久の表情が消える。
「どう言う意味だ?」
「言葉の通りよ。貴様は尼子の血を引いてはおらぬ。だからこそ、父は決起したのだ。尼子の家督を正統な主のもとに戻すためにな」
晴久の周囲の重臣がわずかにざわめく。
「……ばかばかしい。追い込まれて、気でも触れたか。何を根拠に、そんなことを申すか」
晴久は表面上、平静であった。しかし、その鼓動は高まる。
「清久殿、それは興久殿の謀にござる。戦における、言わば流言飛語の類に非ずや」
秀綱が、立ち上がった晴久と清久の間に立つ。晴久の癇癪が爆発する気配を感じたのだ。
その秀綱に、清久が怒りをあらわにした。
「秀綱、貴様はいつも偽りばかり申す男よな。父の時も、大殿に讒言したではないか。佞臣とは、貴様のような者のことを言うのだ!」
我慢できなくなった晴久が、秀綱を押しのけた。
「根拠を示せ、と申しておる。 苦し紛れの戯言でないならば……」
晴久はもちろん、追い込まれた清久の戯言だと思っていた。しかし万が一、その根拠があったらどうなるか。晴久の心に、恐怖が広がる。
「根拠だと? ふん、月山富田城に帰って聞いてみればよかろう。 父親はどこの畜生かと、不浄の母親にな!」
「き、貴様! 母を愚弄するか!」
晴久の中で、何かが弾けた。
鬱憤は、溜まっていた。吉川興経の一件といい、己を軽んじる言動や行動は、経久死後何度も目にした。経久を超えられぬ苛立ちは、頂点に達していたのだ。
その上、自らの存在を否定しようとする雑言は、許せるものではない。
――こやつの口を、塞いでしまわねばならぬ。
晴久は勢いのまま、刀を抜いた。
「殿、お待ちを!」
晴久は、秀綱の静止を振り切って足を踏み出し、一気に刀を突き出した。清久は逃げる気配もなく、刃はその胸に深々と突き刺さる。
うめき声を上げた清久はゆっくりと血を吐き、さらに罵った。血飛沫が、晴久の純白の着物を汚す。
「偽者め、簡単に怒りおって!やはり貴様は、大殿に似ても似つかぬ! とくと見よ! 降り注ぐこの血の雨こそが、本物の尼子の血よ!」
「まだ言うか!」
晴久は倒れた清久に馬乗りになって、さらに刃を突き刺し続けた。繰り返される斬撃に呼応して清久の口から血が飛び散り、周囲を血の海に染める。晴久は、急速に力を失う清久の目に、興久の影を見た。
「殿! もうよろしかろうと……!」
無言で清久を掘り続ける晴久は、秀綱の言葉にも動きを止めなかった。秀綱はついに晴久の腕を取る。
「邪魔をいたすな!」
「いや……すでに、事切れておりますれば……」
我に返った晴久が、清久を見つめる。それはすでに、血まみれの肉塊と化していた。
さすがの重臣たちも、この凄惨な光景に言葉を失っていた。加藤久通がわなわなと体を震わせ、晴久に詰め寄る。
「晴久様、なんということを……これでは、話が違いまする!」
「久通、控えよ」
秀綱に止められる久通には目もくれず、晴久は荒い息を整え、大西高由を呼ぶ。
「彦四郎はどこにおる?」
「麓の寺に留め置いておりますが……」
「……殺せ、今すぐに。生かしておいてはならぬ」
「……はっ」
高由は短く答え、広間を出ていった。嘆息した久通が崩れ落ち、床を何度も叩く。
「儂は、取り返しのつかないことをしてしもうた。このようなことになるとは……」
晴久は、続けて家臣らに命じる。
「……この要害山城から、何人たりとも外へは出すな。そして、清久の女どもをすべて撫で斬りにせよ」
そうして首を捻った。
「いや、それだけでは手ぬるい……この城の女をすべて調べ上げろ。清久が手を付けたと思われる女は、残らず殺せ。興久の血統を絶やさねばならぬ」
晴久の言葉に、久通は半狂乱になって床を叩いた。
「清久の首は、杵築大社に送れ。宮司に命じて、決して祟らぬよう封じさせよ。清宗、あとは良きに計らえ」
晴久は血塗られた姿のまま、広間を出ていった。清宗は、抵抗する残敵の掃討を命じ、城内はまた騒然とし始めた。
そんな混乱の中、いつの間にか加藤久通の姿は消えていた。
「亀井殿、久通の姿が見えませぬ」
立原幸隆に言われて初めて気づいた秀綱は、小さく舌打ちをした。幸隆も緊張した色を浮かべる。
「まさか、殿を」
「いや、おそらくは彦四郎のもとであろう。貴殿は高由殿を追え。殿をもとには、儂が参る。」
「はっ」
幸隆が去ったあと、清宗は声を潜めて尋ねる。
「亀井殿、先程の清久の申していたことは……」
「……謀反を企てた興久殿の戯言よ。真に受けた子は、哀れよな」
秀綱は清久の死に顔を見つめ、この老人にしては珍しく吐き捨てるように言った。




