第五十七話.拗ね者、興経
大内を撤退に追い込んだ出雲は戦勝に沸き、上も下も大変な騒ぎであった。
喜びに沸いたのは、武士だけではない。領民も勝利の酒に酔いしれ、連日のお祭り騒ぎであった。
月山富田城でも論功行賞を兼ねて、諸将を招いての祝宴となっていた。宴の最中、本庄常光や三刀屋久扶ら大功の国人衆も、晴久から直々に杯を貰い受けた。
「此度の大勝、貴殿らの働きに勝るものはない。この晴久、改めて礼を言うぞ」
「なんの、英明な主君に仕えるは、武人の誉れにござる。この常光、晴久公こそが西国の覇者であると信じ、馳せ参じたまでにござる」
注がれた酒を一息に飲み干した常光が、晴久にひれ伏す。
「ほう……余は義隆に勝るか?」
「それはもう、申すまでもなきこと。大内義隆は奢侈にして怠惰、武士ではございませぬ。それに引き換え殿は、質実剛健にして武人の道を知っておられる。武家の棟梁として、仰ぐに相応しきお方と心得まする」
「まさしく、本庄殿の仰るとおりじゃ。この久扶も、殿の御前に侍ることを無上の喜びと思うておりまする」
常光の言葉に、同じく盃を空にした久扶が追従した。
しかしその久扶を、隣の吉川興経が鼻で笑う。
「吉川殿、何がおかしい?」
目をむく久扶の言葉に、ふてくされた顔の興経は答えない。
「……興経、近うよれ」
その様子を見た晴久は笑顔で興経を呼び寄せ、酒を注ぐ。
「……どうも」
口をへの字に曲げた興経の横柄な態度に、常光が不安げな視線を向ける。しかし晴久は笑みを絶やさない。
「どうした、興経。何ぞ不満でもあるか?」
「経久公に、お目通り願いたい」
晴久の笑みが、消えた。
「この興経、大殿直々の書状によりて、心ならずも裏切りの不忠を働き、尼子のもとに馳せ参じた。興経は武士にござる。裏切りは武士の道に背く大罪、しかし某がその道に背いたは、ひとえに経久公の御為にほかならぬ。天下の忠義者、吉川興経を不忠者にしたのは経久公にござる。その経久公に直々の労いをいただかねば、興経の面目立ち申さず。是非、お目通りを」
「おい、興経……」
やたらと忠義を繰り返す興経に常光は呆れながらも、小声で諌めた。しかし興経は止まらない。
戦が終わってから数日、興経にもおぼろげながら出雲の様子が分かってきた。経久の死は、徐々に確信に変わっていたのだ。
「……よかろう、ついて参れ」
晴久はゆっくり立ち上がると、奥の間へ興経らを案内した。亀井秀綱ら重臣もそれにならう。
ゆっくりと入った興経の目に飛び込んできたのは、経久の肖像画と質素な仏壇、そしてそこにある位牌であった。しばし呆然としたが、やはりと現実を頭の中で整理する。
「これは……?」
「この肖像画は、大殿御自ら筆を取り、お書きになったものだ。風流人とは、まさに大殿のことを……」
「そんなことは聞いておらん!!」
興経はまったく遠慮することなく、晴久に噛みつく。
「やはり、死んでおるではないか!!」
指で何度も位牌を指差しながら、興経が吠えた。突き出された下唇が、ぶるぶると震える。
「控えられよ、吉川殿」
眉をしかめた秀綱が、興経をたしなめる。
「やかましい!」
興奮した興経は、もう止まらなかった。
「俺を騙したのか。あの甘くも毒々しく、俺に裏切りを促した書状は、大殿が書いたものではなかったのか!」
「勘違いを致すな、興経。あの書状は間違いなく、大殿が生前にしたためたものだ。大殿の神算は、死してなお大内を打ち砕いたのだ」
晴久はあくまで冷静であった。それが更に、興経の拗ねた心を刺激する。
「……しかし、生きているようにみせた。俺は、大殿に仕えるならばと裏切ったのだ。器量のない君主に仕える気など毛頭ないわ!」
その言葉に、さすがの晴久も眉が一瞬動いた。場に緊張が走る。
「余は生きているとも死んでいるとも、申してはおらぬ。おぬしが勝手に亡霊に仕えたのだ」
息を吐き間をおいて、晴久が答えた。背後の秀綱が、安堵の表情を浮かべる。
「ぐぬぬ……くそ! 畜生!」
歯ぎしりする興経はやがてそう叫び、奥の間を飛び出していった。響き渡る奇声が、徐々に小さくなってゆく。
その興経を追いかけようとした本城常光が、晴久に向き直り、跪いた。
「殿、興経をお許しくだされ。此度、あやつは大功を立て申した。某が言い聞かせて、必ず詫びを入れさせまする。何とぞ、寛大なお取り計らいを……」
「懸念に及ばず。興経の剛毅は、衆目の知るところよ。今後も余に仕えてくれるならば、それでよい」
「なんとありがたきお言葉か。この常光、必ず興経を殿の藩屏にさせてご覧に入れまする。御免!」
踵を返した常光の去ったあと、晴久の後ろに控えていた佐世清宗が進言する。
「不躾ながら言上仕る。かねてより興経の行状、芳しからず。あの男にはおおよそ誠実などという殊勝な心はなく、利に転ぶ軽薄な男にござる。此度は実に良い機会、無礼な振る舞いを理由に処断なさるがよろしかろうと存じますが……」
清宗には、先程の晴久に対する興経の態度が許せなかった。頭を垂れ、晴久の言葉を待つ。
しかしその進言に答えたのは、亀井秀綱であった。
「清宗殿。殿は今、本城殿に約された。貴殿ごときが軽々しく言うものではない」
興経の言いようを不快に思ったのは、秀綱も同様であった。しかし、久扶らの目の前で平静を保った晴久は正しい。
やがて諸将が去り、重臣だけが残った。
晴久は震える手で扇子を握り、経久の肖像画めがけて力いっぱい投げつけた。
鋭く飛んだ扇子は肖像画の経久の目に当たり、わずかにそれを傷つける。
我に返って狼狽した晴久は、荒々しく奥の間を去っていった。
「おい待て、興経!」
三ノ丸まで飛ぶように下りてきた興経は、そのまま横っ飛びに、鎮座する樅の木に飛び蹴りを入れた。巨木はミシミシと、苦しげな悲鳴を上げる。
「馬鹿、やめろ!」
常光の静止を無視する興経は、何度も樅の木に蹴りを入れた。そんな荒い鼻息の興経の視界に、階段の下から上がってきた人物の姿が見えた。
ゆっくりとした足取りで歩いてくる人物は、国久であった。隣の常光が慌てて頭を下げる。
「これは、国久殿……」
しかし国久はじろりと一瞥しただけで、そのまま通り過ぎていく。その後ろから、誠久の巨躯が現れた。
「おうおう、これはこれは……誠久殿ではないか」
一転、興経が誠久を呼び止めた。かつて干戈を交えた誠久の剛力を思い出し、背中を冷や汗が流れる。
立ち止まった誠久は、じっと興経の顔を見つめた。
「貴様は……ああ、吉川興経か。貴様は……」
誠久も、興経との戦いを脳裏に思い浮かべる。
「俺は……?」
「……まあ、そこそこやるではないか」
誠久は平素、人を褒めることなどしない。そこそこという言葉は、この男にしては十分に評価しているといっていい。
しかしそんな事情を知らない興経には、それが伝わることはなかった。
興経はがっくりと肩を落とし、その場に座り込んだ。そんな興経を不思議そうな表情で見つめた誠久は、首をひねりながら国久のあとに続いた。
二人が去ったあと、常光が興経の顔を覗く。
興経は、泣いていた。
「……泣くやつがあるか」
「うるさい! どいつもこいつも、俺のことを馬鹿にしおって……!」
「……なあ、どうにも分からんのだがな。どうしてそこまで晴久公を嫌うのだ。大体おぬしは、経久公のことを誰よりも恐れていたではないか」
その常光の問いに、興経は鼻を鳴らした。
「ふん、貴様は畏怖という言葉を知らんのか。この俺を恐れさせる経久公の器量に寄り添ってこそ、人生の快楽もあるというものだ。晴久のような小者は話にならん。俺は貴様たちのように、利に転んで裏切ったわけではないのだ」
そんなふてぶてしい興経の言いように、さすがの常光も腹を立てた。
「俺は家のため、郎党のため、領民の安寧のために裏切ったのだ。それを利に転んだだと?」
「そんな下らんもののために裏切ったことを、利に転んだと言っているのだ。貴様はそれでも男か」
「おぬしは己の国のことなど考えず、好き勝手しておるだけであろうが!」
二人が言い争っているうちに、亀井秀綱が下りてきた。
「吉川殿、へそを曲げるのも、もうその辺りでよかろう。もはや吉川とて、我ら尼子につくより道はない。これより先、安芸の国人衆ことごとく我らになびくは必定。吉川殿、大勢を見てお考えあるべし」
「ふん、いい気になるな。己等の足元を、もう一度見直したらどうだ?」
やや冷静さを取り戻した興経が、笑みを浮かべながら秀綱に噛みつく。
「ほう、足元とは?」
「此度の戦の最中、ある男が京羅木山の大内陣営を訪れ、義隆に会うておる。誰だか分かるか?」
大内陣中においても間者を放っていた興経は、尼子清久が密かに義隆のもとを訪れていたことも察知していたが、それを正直に尼子方に報告する気もさらさらなかった。ここでそれが思わず口をついて出たのは、秀綱の鼻を明かしてやりたかったからに他ならない。
「なにかと思えば、清久殿のことか。注進はまことにありがたいが、それは殿もとうにご承知のことじゃ。」
さらりと言った秀綱は、ははは、と笑う。続けて常光も、笑った。
「諦めろ、興経。すべては晴久公の、手のひらの上にあるのだ。せいぜい心を入れ替えて、晴久公に御奉公するのだな」
「ぐぬぬ!」
興経は激しく歯噛みしたが、やがて引きつった笑みを浮かべる他なかった。




